小野和泉守鎮幸 とともに 立花家の双璧 と謳われた 由布源五兵衛惟信
由布氏は、豊後大神氏系の独立豪族で、戸次家もこの頃は大友氏の支族であったが、それより前は由布氏と同じ大神姓であったし、道雪の母は由布氏の出である姻戚関係もあった。
そういう意味ではかれが終生尊敬し従えた 道雪=戸次鑑連 と、もとは同僚であったであろう。
源五惟信は、由布家を嫡男に譲ってまで道雪に従うわけである。雷オヤジ・道雪の人望がいかにすぐれていたかということでであろう。まあつまりは道雪以後の立花家のツートップは、戸次家以来の家臣ではないということである。
もう片方・和泉鎮幸は源五が自らの所領を裂いてまで道雪に推挙した。
ちなみに彼を含めた所謂 “立花四天王” のうち、十時・安東・高野各氏は戸次家累代の家臣だったか、戸次家に近い存在であったことは戸次家の本貫地・大野郡北部に地名があることから推測できる。
ということで、道雪に倣い “雪下” と号した源五兵衛、参加した戦65、傷も65、感状70以上・・・
ただこのスコアは数値が近づきすぎると怪しむのは私だけであろうか。
逸話としては高橋千熊丸の足に栗の毬をぐりぐりした話とか、道雪が陣中に斃れたとき遺言に逆らい遺体を立花城へ移したこととか、よく知られる話はここでは割愛する。
立花城時代は博多の政治を司ったり、浪人時代は立花左近将鑑に付き随い、奥州棚倉のときは城勤めの主君に代わって領内を治めたのはかれであるという。武力だけではなかったのだ。
そして主君が柳川に返り咲いたときにはかれはもうこの世にはいなかった。
せめて、亡くなるまえに柳川の土を踏ませてあげたかったと思うが・・・飛騨守がそう思ったかは・・・お坊ちゃんであるだけに疑問である。