吉弘弥七郎=高橋紹運・戸次鑑連=立花道雪・二人の名将を父に持つ高橋統虎こと立花宗茂。 戦歴も逸話も申し分ない名将である。
褒めダルマ・禿鼠太閤に
「武勇、西国一 忠義、西国一」 「東の本多平八・西の立花左近」
と称された。
「立花宗茂」 という名前でかれを呼ぶのは嫌いである。しかし俗世のしがらみでタイトルにしてみたw
以下、昨年の『歴史街道』9月号の特集である。
もともと豊後大友氏の家臣のため当然同郷という事になる。誰?当然私とである。
この本ではじめて知った話も多い。壬辰・丁酉ノ倭乱における勇戦の数々、寡兵をもって大軍を破らしむること神の如しである。
大阪の陣での秀忠への進言、島原の役での指揮とその後の逸話、まさに古今髄一の名将である。
ただこの号に紹介されていない逸話も多い。
関が原敗戦後の浪人時代、お粥を出されて「湯ぐらい自分でかけるわ」といったという話、所詮お坊ちゃんなんだなということなのであろう。カップラーメンの値段を知らなかった世襲政治家を思わせる。
が、何の実績も持たないぼんくら政治家と違って飛騨守の場合それが名将であることを否定しているわけではないだけにこの辺はしっかり取材して欲しかった。
また彼を支えた由布雪下・小野和泉らの話が少なかったのも不満である。雪下に至っては名前すら挙がっていない・・・。
かれら立花家臣団についてもこのブログで書いているのでよろしければどんぞ。
PS・よく言われるのは、かれら立花家中が慶長庚子争乱で本戦場である関ケ原に間に合ったなら西軍は勝ったのではないか、という仮説。
歴史ifほど無意味なことはないと常々思っているが、皆さんの意見で酒が飲みたいものである。