和泉 | 根多帖別冊 by おしろまん

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おしろまん です。
絵を描いていますので、そちらをメインにしたいのですが、お城の論考を書いたりしており、城関係がやたらと多いブログとなっています。
ブログ内容に即した、皆様の素敵なコメント募集中でございます~

小野和泉守鎮幸

大友宗麟の外孫といわれるが、これはアヤシイ。年齢差推定十五歳で三世代はありえない。

 ただ、そういわれるということは大友氏の家臣、それも結構上の位であることは確かである。
諱 (いみな) が義鎮 (宗麟) の偏諱であると考えられるからである。またかれの父親も 鑑幸
(ソーリンのおやじ義鑑の偏諱か?) であろうことからもわかる。
 あくまで想像であるが、このおやじ鑑幸が、行き手のないソーリンの娘を後添えとしたりした事があったのかもしれない。だから系図上 『孫』 になるのではないか・・・
 って、オノ・ヨーコを一族に持つこの家は江戸期の封建大名の家老であるのにそんな記録も残っていないのか・・・

 これも大友直臣から転じた由布源五兵衛により 「自らの封地を削ってでも」 と推挙され、戸次家の雷オヤジこと 麟伯軒道雪 に仕える。

 そこからの道雪~立花左近将監に仕えての活躍は周知のとおりである。
 戦傷・・・大小67ヶ所
 感状・・・68枚  とんでもないスコアである

 特に猿関白の九州平定戦における島津軍追撃戦での高鳥居城奪還戦では両足を銃弾で打ち抜かれながら地に伏し采配を振るい味方を鼓舞した。 戦の潮時、駆け引きを心得ているからできる芸当であるといえる。

 また立花勢大活躍の壬辰・丁酉倭乱では褒めダルマ・猿太閤から主君・左近将監とともに絶賛され、『日本七槍』 の第一と称される。 あの本多平八郎や後藤又兵衛らの上に位置づけられた。まあ、平八は半島に渡っていないのですが。 

 関が原のあと、“火事場泥棒” の “変節漢”、“化け猫にたたられて当然” な鍋島軍により数倍の軍勢に攻められたときも謹慎中の左近将監に代わって、自らも銃弾を受けながら多大な犠牲を払い撃退する。・・・しかしよく撃たれる人だこと。それだけ前線で目立っていたということか。
和泉守を名乗る前の通称が “弾介” であるからか。  弾に鎮幸・・・

 縁のあった加藤肥後守に立花家丸ごと拾われるが、イクサ以外はバカトノである左近将は 『オラこんな村イヤダァ~』 とばかりに肥後を出て ♪お江戸さ~出ぇたぁだぁ~。
 その時和泉は国許責任者として “城付き娘” 誾千代を護りつつ流浪の立花主従に仕送りを続けたという。

 加藤家では肥後守本人からは尊敬されるものの、出自も定かでない肥後守家臣団からは嫉妬とも苛めともとれる扱いであった。まあそんな奴らより和泉のほうが役者は上なのであろう、最後にはギャフント言わせているが・・・。

 そのなかで、かれを正直かつ凄みのある人物として際立たせているのが・・・
肥後守から 「オレ、ずっと戦場でろくにも字が書けねぇんだよね~」 といわれ、 『いやおらっちも最近やっとにじり文字でいろはが書けるようになったんっすよ~』 といったという話。

 肥後守はオベッカで自分に気を遣った嘘だと思ったらしい・・・。それがホントだとわかった肥後守はかれを一層尊敬したという。

 三国・蜀漢の王平子均に似ている。彼は自分の名前のほか10ほどの文字しか知らなかったという。

 コケオドシの馬謖幼常を重用した (このときの副官が王平であったため、かれの巧みな用兵により蜀は総崩れを免れる) 諸葛亮は北伐に失敗し、小野和泉を重用した立花飛騨は西軍改易大名にも拘らず旧領への復帰を果たす。

 和泉守鎮幸が柳川へ帰ることはなかった。かれが亡くなったのは慶長14年で立花飛騨守が柳川に復帰したのは11年後の元和6年であった。が、その子孫は柳川藩家老として明治を迎えている。

 あれ?かれの跡継ぎ=養子って森下釣雲の息子だったよねぇ? オノ・ヨーコはかれ和泉守の子孫ではないのでは? この家は江戸期の封建大名の家老であるのにそんな記録も残っていないのか・・・

 そんな自分の家のことは外に出してもしょうがないと、名門気取りで思っているのだろうか・・・。


 余談だが小生・わが子チロジョウの名前を、この名将にあやかり 『鎮幸』 にしたかった。だが、オンヨミにしたら苛められそうなのでやめた・・・。