Museum Sumpah Pemuda(国歌とインドネシア語はここから) | sehari-hari~ジャカルタ生活日記と日本のインドネシアネタ

sehari-hari~ジャカルタ生活日記と日本のインドネシアネタ

2017年4月~インドネシアのジャカルタへ

ジャカルタのいろいろな情報話題を日記として記録→2022年8月に本帰国しましたが、
2023年9月から再度ジャカルタ生活へ instagram@spis_mix

【ジャカルタに観光するところはないのかっ?】

がテーマであれこれ行ってみるのですが、この施設は意味がわからなかったので、ずーっと後回しになっていた。


過ぎてしまいましたが

10月28日はSempah Pemudaの日(青年の誓いの日)

「Sumpah pemudaってなんの日やっけ??

のことかと思って読み返してみたら、ぜんぜん違う!ガーン

そういえばSempah Pemedaの博物館行ってなかったわ💡💡

で、来年まで寝かすわけにもいかないので、思い立った行っとこう!

Museum Sumpah Pemuda

古い小さい博物館というイメージでしたが2021年に2ヶ月間閉めて改装しています

入場料金はRp2000(約20円)
入ってすぐにあるこのエリアの位置関係、結構重要
•民族覚醒博物館 STOVIA
•Museum Sumpah Pemuda(絵がきれちゃってるけど)
このエリアはオランダ領東インド時代は【Weltevreden】という地名で、17世紀に開発が始まりました

 ☝にも出てくる地主ユスティヌスが 1735 年にPasar Tanah AbangとPasar Senen市場を建設したのをきっかけに他のオランダ人やヨーロッパ人がこの地区に移り開発が活発になります。


STOVIA (ジャワ医師学校) やレヒト・ホーゲ学校 (法科大学院) などのさまざまな高等教育機関などができてから、全国各地から学生が来るようになりました。


この建物Kramat106は1908年頃建てられ、1920年に賃貸事業を始めたSie Kong Lianの所有になり、自宅で学生数人に下宿させていました。


主にSTOVIAと法科大学院の学生が下宿や集会所として借りていました。

JONG JAVAは、1915 年に設立された青年組織Tri Koro Dharmo で、後に Jong Javaと名前を変更。
主な目標は
ジャワの学生 (マドゥラ、バリ、ロンボクを含む) を団結させ、ジャワの芸術と文化への関心を育むことでした。
ジャワ語を習得し、メンバーの一般知識を向上させるのが目的で、女性の参加も受け入れています。

ジョグジャカルタでの第11回青年会議には、Jong Java執行委員会。
右からスハルト、スディルマン
若いときはこの団体で活動してたんですねー

ほとんどはSTOVIAと法科大学院 (RHS) の学生で、JONG JAVAのメンバーたちは以前の住居が小さいためにこの建物を借りるようになりました。


Jong Java以外にもBetawi人の団体や1911年設立のスンダ人の青年団体の活動家もここの居住者になり、スカウトやスポーツなど活動内容も多様になっていきました。→これがボーイスカウト、ガールスカウト団体にもなっていく


1926年4月30日、青年たちはジャカルタで第一回青年会議として知られる大規模な集会を開催しましたが、青年たちはまだ意見を統一できておらず、依然として民族グループの利益を優先していた為、一つの組織に統合する試みは失敗に終わりました。
第一回青年会議の後、この建物は1926年9月に設立されたインドネシア学生協会(PPPI)の本部になります。
1927年以降はスカルノと関係者が、この団体と独立運動について話し合うために頻繁に訪れるようになる。

1928年10月27日と28日にジャカルタで第二回会議を開催

この部屋で第 2 回青少年会議の閉会の後、更に夜17時30分から6時間、第3回会議として続いた。
第二回会議では作曲家W.Rによってインドネシア国家「インドネシア・ラヤ」が初めて演奏され、「青年の誓い」における国家概念が誕生した。(一番左でバイオリンを演奏している)
この部屋の左の壁は、会議の様子を再現して、人形に語りかける実写のドラマが流れます
WR Supratman は、インドネシアの国歌「インドネシア•ラヤ」の作曲家です。
 1903 年 3 月 9 日にジャカルタのジャティネガラで生まれました。彼は国民運動のジャーナリストで、新聞社に勤務していました。
1928 年 10 月 28 日に開催された青少年会議の閉幕時に初めて「インドネシア・ラヤ」をバイオリンで演奏し、楽譜と歌詞は新聞を通じて公開しました。
彼が作った闘争歌は、独立を勝ち取るインドネシア国民の精​​神を鼓舞する上で大きな役割を果たしました。
インドネシア•ラヤの楽譜が石板で飾ってあります。
本人が使用したバイオリンも

青年の誓いの後、多くの学生が勉強を終えた為この建物から去っていきました。

1934年には、学生が賃貸契約を継続しなかったため、住居として貸し出され、花屋、ホテル、税務署として使われました。


国歌以外にもここから誕生したものがあります

インドネシア語

1928 年に第二回青年会議が[青年の誓い]で使ったインドネシア語は、言語として統一、強化を推進していくことになりました。

1938 年に第 1 回インドネシア語会議が開催された Societeit Habibprojo ビル

1938 年6月25日にソロで開催された第 1 回インドネシア語会議は、統一言語としてのインドネシア語の地位を強化する取り組みでした。
統一言語としてのインドネシア語にはまだ正しいガイドラインがなく、いくつかの新聞社で使用されているインドネシア語は依然として違うものでした。
スペリングなどの言語改革における規制が必要で、教師の育成にも援助がいると提言されました。
この会議のメンバーにはモハマド•ヤミンもいました。

第一回会議のときに、一つの組織に統合するのを特に反対していた若者は、1928 年に開催された第 2 回青年会議で【青年の誓い】を策定した人物として知られるようになりました。

その人物がモハマド・ヤミンでした。

モハマド・ヤミンは会議で、インドネシアの団結を強化できる要素は5つあり、それは歴史、言語、慣習法、教育、そして意志で若者が団結する必要があると演説した


裏庭には若者の闘争の歴史のレリーフ
 母屋の裏に下宿っぽい建物があり真ん中が広場になってます。 

  

Museum Sempah Pemuda は 1973 年に設立されました。

この博物館を設立するというアイデアは既に第二回青年会議のときにはありました。

彼らは開拓した団結の価値観を次の若い世代に受け継がなければならないと主張。

1968年10月15日に議長ソエナリオはジャカルタ知事に書簡を送り、このKramat106ビルの歴史的価値が保存されるように、この建物に注意と指導を求めました。

Sie Kong Lianの孫がジャカルタ政府にこの建物を寄贈し、1973年に改装を終え博物館となりました。


青年の誓いの日

Hari Sempah Pemudaは

毎年 10 月 28 日です。

祝日ではないです


小さい博物館ではありますが、色々勉強になった。

他にも色々あったけど、全部載っけると長編連続小説みたいになるので、これでもかなり端折った


Museum Sumpah Pemuda

Jl. Kramat Raya No.106, RT.2/RW.9, Kwitang, Kec. Senen, Kota Jakarta Pusat, Daerah Khusus Ibukota Jakarta 10420 インドネシア

にほんブログ村 海外生活ブログ ジャカルタ情報へ
にほんブログ村">にほんブログ村 海外生活ブログ ジャカルタ情報へ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村">PVアクセスランキング にほんブログ村