『子育て振り返り<その6> 教育方針の転換/ゲーム解禁/ぎりぎりセーフ』子が小学生の頃の教育方針は、他の家庭よりも厳格だったと思う。 ゲームは禁止していたので、家にスイッチなどのゲーム機はなかった。友達の家で借りて遊ぶのみ。もちろ…リンクameblo.jp


『子育て振り返り<その7> 中3でゲーマーになる』子の異変に気がついた中2の春。それからは、彼がやってみたいということに全力で耳を傾けた。 当時、彼がはまっていたデュエル・マスターズというトレーディングカード…リンクameblo.jp






 

子育てが終わりを迎えるにあたって、

忘れないうちにと、振り返り記事を書いてみた。


大事にしてきたのはこの3つ。

・体の声を聞ける子に

・自分の心の声を聞ける子に

・望みに真っ直ぐに向かえる子に


この3つは子に伝えられた気がしているけど、実際にはそういう子に育ってなかったとしても実は良いと思っている。

大事なのは私が彼に伝えるというプロセスを踏むこと。

そこから何を血肉にするかは本人が決めることだ。


子育てには正解がない。

いつもその瞬間の今、自分か正しいと思ったことを信じて進むしかない。

そういう筋力が鍛えられたなあと思う。



一方わたしは、この18年でこんなことがあった。


・「こうあるべき」という固定概念からの解放(母とは、家庭とは、親とは、妻とは など)

・幸せとはなにか、を真剣に考えた(いったん自分なりの結論が出た)

・教育費を稼ぐ必要があったので、結果的に、仕事のスキルが上がった

・個人として、これからやりたいことがみつかった

 


子育て後の人生に必要な答えが得られた18年だった。

 



若い頃は子ども全般苦手で嫌いだったくせに、

なぜだか一人は必ず生んで育てたいと理屈抜きで望んでいて

30直前に突き動かされるように急いで相手を探して結婚し出産した。

急ぎすぎたかな、と妊娠中に思ったほどだ。

 

子育てはたぶん苦手だからと、よいパパになれそうな人を条件に夫を選んだぐらい

どんな子育てになるかまったく想像がついていなかった。

 

いざはじまってみると、子育てしながら自分の小さい頃を思い出しては泣いた。

メンタル傷だらけの子ども時代。親も学校の先生も大嫌いだった。

わたしは、私が育ててもらいたかったやり方で、子を育てた。

子育てのプロセスで、私自身がたくさんたくさん癒されたように思う。

 

そして、これからの人生に対する問いへの回答もみつけることができた。

 

この18年は本当に楽しいプロセスだった。

私を選んで生まれてきて育てさせてくれた子に感謝している。

プロセスを一緒に歩んでくれた夫にも、もちろん感謝。

 

あっという間に終わったような、長かったような

そんな18年だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子が 中3でゲーマーになってから、その後のお話。

 

 

 

 

こちらの続きから。

 

子は受験に失敗し、滑り止めの私立高校に入ることになった。

第一志望は理系の高専高校だった。ものづくりが好きだったことと、普通の進学校に入って興味の薄い文系科目を勉強するのが嫌だったので、高校から専門性の高い勉強を希望していた。残念ながら、希望は叶わなかった。

 

通う予定の高校のカリキュラムをみてみると、国立理系の大学には行けそうにないことはすぐにわかった。そもそも受験に必要な科目が入っていない。

英語に至っては、中1の英語からやり直すレベル。学校の授業についていくのは十分問題なさそうだったけど、卒業後の想像は全くできなかった。

 

まあ、仕方ない。高校に通いながら、やりたいことをみつけたらいい。第一希望だった高専高校に編入するのもありだ。それができなくても、高卒で就職をするか、まあ専門学校ぐらいには入るのかもしれないけど、とにかく方向だけは好きなことに進んでほしい、必ず道は開けるから、と思っていた。子には現状を伝えて、どんなことでもいいからできるだけ早くに好きなことで将来やってみたい方向を決めるといいよとアドバイスした。その時点では、大学進学は難しいと8割方感じていた。

 

当の本人は、なんだかテンションがあがらないままスタートした割に、高校生活はなんだか楽しそうだった。新しく友達もでき、授業のレベルも楽についていけてセルフイメージが上がったのか、成績はそれほど悪くなかった。

校内とはいえ、悪くない順位だとわかるとやる気になった様子で、3年になるまで勉強のモチベーションは安定していた。相変わらず、数学は優秀で全国でもトップレベルなのに、英語は平均以下いう偏った成績だった。でもそれぐらいわかりやすい特徴がある方が良いと私は思っていたので、特段なにも言わなかった。結局、最後まで英検は合格せず、数検だけこつこつレベルをあげていた。文系科目は模試での点数は上がらなかったが、学校の定期テストだけは平均以上を取る術を自分なりに掴んだようで、内申点はなんとか指定校推薦に必要な成績までは上げることができた。

 

高1が終わる頃にはメンタル的に大人になっていて、私はほとんど口出しする必要がなくなった。自分で考えて決めることができていたし、やりたいことをやるためにいろいろと自分なりに工夫している様子だった。私はただ、子の話をよく聞いて、応援しているだけでよかった。夫は高校に入ってからも引き続き数学を教えていたけれど、本人も夫から教わる数学が楽しいと素直に教わっていた。中学の頃より、二人は仲良くなっているようだった。彼が精神的に大人になるに連れ、私も夫も本来の自分がより表に出てくる様になり、家庭内は、大人が3人、シェアハウスで暮らしているような雰囲気になっていた。

 

 

転機は高2の夏の三者面談。

相変わらずゲームは楽しく続けていたので、将来的にもゲーム関連やプログラミングなどに興味を持つのかと思いきや、それはそれ、趣味なのだと言う。ゲームだけだと世界が狭くなるから、他の世界も広くみてみたいのだと言った。なるほど、けっこうちゃんと考えているんだなと思った。小さい頃から好きだった宇宙関連の勉強をしたい、というので、難しいだろうなあと思いつつも三者面談で先生に相談してみたところ、私立大学の宇宙工学科の指定校推薦の枠を紹介してもらった。しかも、受験の条件は理系科目が中心で本人の苦手な英語や国語はそれほど問われない。早速、オープンキャンパスに行ってみたら、うまい具合に人工衛星をつくってテスト機に乗せたことのある先輩の話を聞くことができた。ここに通ったらどんなことができるのか、イメージングがしっかりとできたようだった。

 

私としては、まさかこんな形で本人の望む理系大学の指定校枠が出てくるとは思いもよらず、本当にびっくりした。私が受験生だった頃から時代は移り変わっていて、5科目オールマイティにできるジェネラリストではなく、数学だけ得意なスペシャリストでもOKなのだった。

 

 

高3。いよいよ進学先を決める段階で、成績的にはちょっとがんばれば手が届きそうな国立の大学が希望にあがってきた。志望校は私立と国立の2つ。行ってみないと最終的にどっちにするか決められないというので、オープンキャンパスに連れて行った。場所は高知。子と私の2人で2泊3日。ちょっとした旅行だった。なかなか痛い出費だけど仕方ない。

 

高知に行ったときの記録はこちら。

 

 

 

最終的には、最初に紹介してもらった私立大学の宇宙工学科の枠をもらって受験。無事合格した。

先日、入学金と前期の授業料を支払って、いったんほっとしているところ。

 

私は今年の夏から大学の費用がちゃんと捻出できるのか、そればっかり考えていて、ある意味自分のことで必死だった。

子育てこんなにがんばったのに、最後にこんなお金の罰ゲームやめてくれ!っていう気持ち。

しんどいわ、ほんと(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子育てに使う、自分の時間と意識の使い方について書いてみる。

 

子育てに、実際に体を使って意識も使っている時間と、

体は別のところにいつつも意識は子に使っている時間がある。

 

個人的な感想としては、体を使う量が減ってきたときに、意識で使う量もうまく減らしていけると良い気がしている。

 

 

二十四時間フルタイムで戦闘体制でいなければいけないのは新生児から1〜2才ぐらいまで。

子が寝ている時間以外は、意識の大半を子に向けている。

授乳やおむつ替えなど、なにかあったらすぐに駆けつけなければならない。

自分のことは、細切れにしかできない。いつでも途中、いつでも中途半端。

子が眠っているときだけが、唯一自分に戻れる時間だった。

文章を書いたり、映画をみたり、ゆっくりお風呂に入ったり。

子育ては楽しかったけど、この一人時間がなかったら半狂乱になっていたと思う。

 

 

3〜5才ぐらいまでは、子をそばに置いて何か別のことをすることはできた。

ただ、なにか別のことをしながらも、意識の半分〜65%はいつも子に向けている。

安全に過ごしているかどうか、他人に迷惑をかけていないか、間違ったことをしていないか、などなど。

完全に子育てを忘れて自分に集中できるのは、保育園に預けているときだけ。

意識が完全に自分に戻ってくるのがとても気持ちよかったのを覚えている。

それがたとえ仕事だとしても、始終他人に意識を向けている必要がないから、完全に自分自身に戻ってきた感覚があった。プラス、社会に出て娑婆に戻ってきた感。

 

小学生になると、更に物理的に子と離れた。

親としての悩みは、体の成長具合や、勉強の出来具合に移行。

低学年、中学年、高学年で成長につれてそれぞれの悩みがある。

子の友人関係とか、中学受験させるかどうかとか、なんの習い事をさせたらよいか?塾はどうする?ゲームのルールは?などなど。

当時、私自身のアイデンティティはまだ「母」が強かった。「子がいる自分」としていつも存在していた。

意識としては、4割ぐらいはいつも子に使っていたかな。

自分以外の誰かのサポートをするのが当たり前で、なにか行動を決めるときには、家庭運営に差し障りがないかを最優先に考えた。個人事業主としてフリーランスで事務仕事をはじめたのも、母業をしながらできるからだった。

当時は夫が鬱になってしまい体調が悪く、子に加えて夫も支える必要があって、なかなかハードだった。

 

 

中学生になってようやく、日中に子どものことが意識にのぼってくることはなくなった。

夫も落ち着いてきたので、安心しすぎて、中1で手を離しすぎてしまって軌道修正したのは前述したとおり。

中学生は子の自立をサポートしつつも、やっぱり目は離してはいけない時期だった。意識は2割ぐらいは常に子に使っていたような。

子を見守りながら、自分もこの頃から自分個人の人生に戻り始める。仕事はフルタイムに移行し、本格的に社会復帰。

実母と一緒に暮らし始めて、元気だと思っていた母が初老を迎えていることに直面したのもこの頃。

やりたいことに集中できる時間が更に増えて、今後の人生なにしていこう?とようやく自分のことを本気で考えられるようになった。母業に終わりが見え始めたころ、妻業も終わりにしていいのではと思ったりもした。

 

子は高校生になると、いきなりメンタルが大人になったので、私は本当に気楽に過ごせた。大人と違うのは経済的に自立をしていないことだけ。私自身は、自分が子育て中である意識は、もうほとんどなくなった。

高校受験を経て成長したようで、家の中に友達が一人増えたような感覚になった。彼なりに自分の人生を真剣に考えた成果なのだろう。学校生活や将来のことなど彼の話をよく聞いて、家族でコミュニケーションをとることを心がける以外は、もうすることがなかった。必要なアドバイスはしたけれど、基本は本人が決めることを尊重した。

私が親としてすることは、とにかく教育費を稼ぐこと。もうこれだけになった。

 

 

 

そんなわけで、彼が高3の夏は本当に教育費を賄えるのかどうか、それだけが不安で心配の種だった。それがあるからこそ、自分の仕事にしっかり向き合うことになり、自分自身の人生に戻らざるを得なくなった。

現時点では、普段、自分に子がいることは半分忘れている。あ、そういえば私は母だったな、という感覚。

 

「わたし」が自分の中心に戻ってきて、更に自分自身のいろんな側面も顔を出すようになってきた。母だからとちゃんとする必要がなくなって、子どもっぽい自分も表に出てこれるようになった。今は、自分の多面性を受け入れる、そういうフェーズにいる。

 

 

こうやって振り返ってみると、私の場合は31で出産したので、30代は丸々子育て期、40代は子育て期から自分に戻る移行期だったことがわかる。

自分が誰であるかの認識と、どこに意識をフォーカスしているか、が徐々に変わっている。

できるだけ早く自分に戻ってきたかったけれど、私は母としての人生も楽しみたかったから、少し遅めだったかな。

 

子育てのことを中心に時系列で書いたけれど、この期間にパートナーシップの深い学びがあった。これはまた別記事で書く予定。

また、意識では常に子育てしていたけれど、物理的な時間の大半は仕事をしていた。20代の頃に比べて、なんでも落ち着いてこなせるようになったなと思う。できることが増えたし、この年になっても新たにチャレンジをさせてもらえて会社には感謝している。

それ以外にも、自分の人生のことを考えたり、友達と遊んだり、プライベートも存分に楽しんだ。

忙しいのによく遊んだなと思うけど、遊ばないとやっていられなかったのが本当のところ。

 

子育て期は人のサポートばかりで、この先もずっと誰かのお世話をするのかなと思っていたけど、そのターンはちゃんと卒業を迎えることができそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

子育てをしていると、子どもに言った言葉がそのまんま自分に戻ってくることがよくある。

「望みをあきらめないで、口にしてみて」

 

子に望みをあきらめないでと話していたころ、

私自身もあきらめていた望みにフォーカスをかけた。

デンマークに行ったのはそのプロセスの成果だ。

海外にずっと行きたいと思っていた、その願いを叶えたのだった。


 

子は中学生で、物理的には子に手がかからなくなり、

たまたま、まとまったお金が手元にあった。

今思えば、私が海外に旅行することを

誰も止めないし、責めることもなかっただろうけれど、

そのときは、大きくお金と時間を使うことに罪悪感が出た。

 

私はなんとかして海外に行きたかった。

学生の頃に短期留学でロンドンに滞在した、

その一ヶ月がとっても楽しくてずっと忘れられなかった。

ただの海外旅行にはピンとこない。

優雅なホテルでキラキラツアーもいいけど、行って終わりな気がする。

そう思っていた頃、知人のスタディーツアーの案内がきて

これなら、有意義な旅になると思ったのだった。

知的好奇心も旅行欲も満たされるし、

なにより周りを説得することができそうだと思った。

 

 

結果として、私にとっては子育ての意識の大きな転換点になったデンマークへの旅。

当時はただただ自分の欲望を叶えるために選択したことだったけど、

今となってはうまいこと導かれたのだなあと思う。

 

だから、一見我欲を満たすためだけのように感じることでも、

やりたいことはなんでもやったらいいと思っている。

 

子育ての時系列でいくと子が中2の夏。

2019年を境に私は子育てや仕事や家事と並行して、

自分自身のやりたいことを全力でやることに決めた。

母や妻として「役割」を果たす時間より、個人としての「私」の時間が増えて、幸せを感じる時間が増えた。

 

そうして徐々に子育てが終わりに近づき、自分個人としての人生に再び戻り始めたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それまでの教育方針を変更できたのは、デンマークスタディーツアーという学校視察の旅に参加したのがきっかけだった。


 

デンマークは世界で有数の幸福度の高い国。なんでそんなに幸せを感じられるの?教育にもしやヒントがある?日本にもとりいれられないかな?そういう視点で、小学校や中学校、学童などを視察するツアーだった。

 

久しぶりに海外に行きたいと思っていたこと、たまたま中学生の子育て中だったこと、夫が教育の仕事をしていること、私自身ももっと幸せを感じて生きていきたいと思っていたこと、子にも海外に目を向けてなんなら英語に興味を持ってほしかったこと、そんなことが相まって、ツアーに参加することを決めた。



ツアーレポートはこちらから



このツアーをきっかけに、私は子に、好きなことをどんどんやりなよと、建前ではなく本心から言ってあげることができるようになった。


「暗記勉強なんて意味ないけど、今の日本のシステムだとやるしかないよね」みたいなダブルスタンダートも捨てることができた。



そのときに思っていたのはこんなことだった。


「勉強が足りなくて日本のシステムにうまく乗れなかったとしても、この先必ず道はある。それを開く努力ならいくらだってする。

こんなに瑞々しい感性の大事な時期に、好きなことをやらないなんて、その方がもったいない。大人になってから好きなことをやろうなんて遅すぎる。どんどんやりたいことがわからなくなってしまって、感性を取り戻すところからやり直さなくちゃいけない。やり直せればまだましで、取り戻せない可能性だってある。そんな時間がもったいない。自分が何が好きで何をやりたくて何をしていたら幸せか自分を知ることが大事だから、好きなことをやめる必要はない。どんどんやったらいい。」


そんなわけで、無理して勉強させることをやめた私は、成績が足りなくて大学進学ができないこともあるだろうと、覚悟を決めたのだった。



子の異変に気がついた中2の春。

それからは、彼がやってみたいということに全力で耳を傾けた。

 

当時、彼がはまっていたデュエル・マスターズというトレーディングカードゲームの新しいカードがほしい、というのが最初の望みだった。でも買ってあげられるお金が無尽蔵にあるわけではない。おこづかいの範囲ならいいよ、と伝えると、それならば持っている他のカードを売ってお金にしてそれで買いたい、という。私にとってはあまりよく知らない世界で、子どもに混じって得体のしれない大人の男性もちらほらいるグレーなイメージがある世界。そういう穿った見方をしていたけど、まずはそこに息子が関わることをOKにするところから始めた。一緒に近所のツタヤのカードコーナーに行き、売却につきそった。彼は売ったお金で新しいカードを楽しそうに選んで買っていた。

 

そんなある日、近所のツタヤのカードゲームのコーナーが閉鎖されてしまった。どうしたものかと思ったけれど、この機会にと、メルカリを利用することにした。私のアカウントを代理に作成し、子が運用した。メルカリでの売買は仕事でもあるわけだから、納期と品質を担保するように教え、もちろん問い合わせへの返信も本人にさせた。新人のOJT状態だった。何度かトライアンドエラーを繰り返したのち、いつのまにか、ほうっておいてもお客さんとスムーズにやりとりをするようになっていた。

 

彼は私が思っているよりもずっと大人だった。そして、商才もあった。

やらせてみると、カードの売り買いのタイミングを読むのがとってもうまいのだった。これには私もびっくりした。いつもAmazonとメルカリで相場をチェックしていて、ゲームの盛り上がりの波をみて決めているのだそうだ。多い時で月に3万程度の売上を上げていた。


子から夫へのプレゼンが成功しクリスマスプレゼントにスイッチを手に入れた頃、あ、願いは叶うんだ、と彼の意識が変わったように思う。小学生の頃のようにまた、やりたいことや好きなことを自然と口にするようになり始めていた。彼の元々の陽気さと気楽さが戻ってきて、私は少しほっとした。中3を迎える春だった。

 

コロナ禍に突入し、家にいる期間が増えたのを機に、次はゲーミングPCをつくりたいとプレゼンをされた。やり方はYouTubeと友達が教えてくれるから、部品を揃えて一から作りたい、部品代はできるだけ自分で稼ぐけど、足りない分をサポートしてほしいとのことだった。予算は5万、不足は2万だった。数字がきっちり出ていたので、きちんと考えた結果なのだなと思いOKした。あれ、受験生なんだけどなあと一瞬頭をよぎったけど、好きなことでやりたいことならどんどんやったらいいと思った。

 

その後もゲーミング用のキーボードやデュアルモニター、ボイスチャット用のマイクなど、コツコツと揃えて、気づいたら中3の夏にはゲーマーになっていた。コロナ禍で友達と家で遊べなくなったものの、オンライン上で知り合ったネッ友(と本人が呼んでいた)とツイッターやディスコードで繋がり、毎日バーチャルな世界で友達と遊んでいた。

 

勉強面に関しては、数学以外の科目は平均以下。進学先の高校を決める必要があったのだが、やりたいことがないままで志望校が決められず、中3の夏になんとかぎりぎり選ぶこととなった。理系に偏った成績なのもあり、受験日までには合格基準まで仕上がらず高校受験にはひととおり失敗して、滑り止めの私立に行くことになった。もうこれで理系の大学は難しいかなあと、ひそかにがっかりもした。まあ好きなことをやってくれればいいか、道はたくさんあるだろう、可能性に心をひらこう、そう思った。私も夫も偏差値教育世代で、大学に行くのが当たり前、という認識でいたから、大きな意識変換ではあったけど、なにが正しいかはわからないしなあ、と私自身も意識が変化をしていたのだった。

 

 

 

 

子が小学生の頃の教育方針は、他の家庭よりも厳格だったと思う。

 

ゲームは禁止していたので、家にスイッチなどのゲーム機はなかった。友達の家で借りて遊ぶのみ。もちろんスマホも持っておらず、連絡用のキッズ携帯を持たせていた。

私のスマホを1日15分だけの約束で借りて、YOUTUBEでヒカキンやフィッシャーズをみたり、ゲーム実況をみたりしていた。友達の家でゲームをするための予習。(小学生が将来はyoutuberになりたいといって、大人に笑われていた時代の話だ。当時YouTubeは子どもがみるものだった)

 

遊ぶものがないので、ダンボールで工作したり、レゴでオリジナル作品を作って遊んでいた。オリジナリティに溢れていて、本当に素晴らしい作品に感動したのをおぼえている。よくみているYouTubeチャンネルの真似をして動画をとってほしいというので、スマホで動画を撮ってYouTubeにアップして私も遊んだ。

 

はじめてアップした動画がこちら。

(YouTubeチャンネルを作りたかったわけではなく、個人のアーカイブとして残すつもりでアップした)

 
 
こうやって楽しめるものがある一方、ゲームに関しては何を言ってもダメだと言われるので、子は望みを口にすることを辞めてしまった。あきらめたのだ。あれ?おとなしくなったなあと思った頃には、時遅し。ゲーム以外の他の望みも、口にする前から諦めてしまうようになっていたのに気づいたのは中2になる前の春休みのことだった。
 
 
通っていたのは近所の公立の中学校。
 
小学校とは違って、制服を着るようになって身体的に窮屈だったり、メンタル的にも息苦しい校則があることなどの変化があった。それに加え、我が家は転居をしたので友人関係も変化をしていて、うまくやっているように見えていたけど彼なりにストレスがあったと思う。
 
私が気づいたときには
「学校にいる間は、しんどいことには目をつむり、なにも言葉を発しなければ、ただ時が過ぎ、なるようになる。最高の状態ではないけど最低にもならない」
そういう日本的な処世術を身につけて、自分を守るようになっていた。
好きなこともやりたいこともなくて、ただ時間だけが過ぎる日々。学校はそんなに楽しくないし、なぜやるのかよくわからないのに勉強はしろと言われる。勉強は進学するためだと頭ではわかる。でも本質的な意味はさっぱり腑に落ちない。そんな様子だった。
 
これはまずいと思った私は彼にこう提案した。
 
「やりたいと思ったことは、できるできないは置いておいて、一回ママに言ってみて?必ずちゃんと聞くから。そのとき、それを叶えてあげられるかどうかはわからないけど、できるだけ叶えられるように考えてみるから」
「えー、でも絶対ダメっていうじゃん。ゲームとかさ」
「ごめん、今までそうやって門前払いしちゃってたね。もう一回、あきらめないで、ほしいものとかやりたいことが出てきたら、ますは教えて?ママもがんばってできる方法を考えてみるから。今までパパの方針に従いすぎてきちゃったかもしれない。ちゃんとパパにも話してみるから、ね?」
 
そういうと、わかった、と子は言った。
この時点でかなり瀬戸際にいたと思う。ハートが閉じてしまう直前だった。これをキャッチできて本当によかった。1年も放置してしまってごめん。
 
これ以降、私は、盲目的に夫の意見を取り入れることをやめにした。
夫は教育のプロだから彼の言うことは私より正しいはず、という思い込みを捨て、息子の親は私でもあるんだから、他の子はいざ知らず息子に限って言えば私もプロなのだ、という認識に改めた。
 

夫と私は子育ての方針が異なっていた。

私は、体験や遊びをベースに伸び伸び育てたかったけど、夫は、のびのびさせつつも勉強もしっかりとさせたい派だった。

 

小学生の間は夫の方針を採用して、それを子にも伝えた。

 

 

夫は子に自分が教えられることは数学しかないからと言って、小1から自分の塾に入れて、こつこつと教えていた。

 

子が17歳になった今となって振り返れば、数学が得意科目になり、本人も武器ができてよかったと言っているので、結果オーライなのだけど、そんな小さい頃から勉強させることが彼にとっていいことなのかどうか、当時、私はずっと疑問に思っていた。

 

夫が数学を教えたかったのと同様に、私は本が好きな子になってほしくて、3歳から5歳まで寝る前に読み聞かせをしていた。

 

絵本の読み聞かせをすることや、家に本があること、親が本を好きであることが、本好きを育てる秘訣だと聞いたからだ。でもそれは息子にはまったくもってあてはまらなかった。読み聞かせもしたし、家に本はたくさん置いていたし、私は家にいるときはほぼ本を読んでいたにもかかわらず、息子は自ら本を読むようにはならなかった。寝る前に読んでほしいと持ってくる絵本はいつも同じ。「ばしん、ばん、どかん」というタイトルの擬音語が楽しい絵本で、読んでいる私がほとほと疲れる内容だった。ストーリーにひかれて、物語の世界に浸るタイプの子どもではなかったのだ。

 

彼が唯一好きな本は図鑑。小学生の頃は似たような宇宙図鑑を2冊持っていてよく読んでいた。

小さい頃から宇宙が好きだったので、今では宇宙に関連した本だけが彼の手元に集まっている。

 

そんなわけで、どんなにこちらが意図しても、本人に資質がなければその方向には進まないことは、このエピソードでよくわかる。

 

おそらく数学は、息子の資質にあっていたのだと思う。

半分は親のエゴだったとしても、彼に資質があることを見極めて、きっちり数学を教えてくれた夫に感謝している。

 

 

 

当時、私と夫で教育方針が違うことは、子には伝えていた。

 

「ママはそう思わないけど、パパはこうした方がいいと思ってるんだって。

それを聞いて、あなたはどう思う?どうしたい?」

そうやって、いつも会話した。

 

親の方針が異なると混乱するかな?とも懸念したけど、世間に出れば意見が違うことなんて多々ある。

人が違えば意見が違うことを子どものうちから知っていてもよいと思った。

 

子は、特段混乱するでもなく、淡々と自分のやりたいように進んだ。やりたくないことはテコでも動かないタイプだと、成長するに従ってわかってきた。

 

子には、なるべく早めに好きなことや、やりたいことを見つけてほしかったので、いろいろな体験をしにあれこれ連れていった。体験してみないことには、好きか嫌いか、やりたいかやりたくないか、自分で判断できないからだった。

小学校の高学年の頃には、子ども向けの歌舞伎や、博物館や美術館、クラシックのコンサート、演劇の舞台など、文化系のものもとりいれて私もしっかり楽しんだ。1回行ったきりで、それ以降は興味をもたないものもたくさんあったけど、それでよいのだ。体験して、本人が自分を知ることが大事だったから。

よく参加したのは、やっぱり理系の分野。これらは本人が行きたいと言ったものが多かったように思う。ロボットを作るワークショップや、プログラミングの講座、理系の高校の文化祭で科学部や物理部の展示をみたり、科学館にもよく行った。

 

中学にあがると、自分でゲーミングPCをつくって遊ぶようになった。高校ではなんとゲーマーになって、ネットの世界で友達をつくって楽しんでいた。将来はヲタ系かゲームプログラミングなどの方向にいくのかと思いきや、大学は宇宙の勉強がしたいと言って、宇宙工学系の進路を探すようになった。

宇宙工学系の学科は、数学の基礎知識と物理が必要なところが多かったが、資質と興味でなんとかなりそうだった。彼は文系の科目はさっぱりで、英語は平均点以下だったけど、それなりに行けそうなところがみつかるのだから、人生ってなるようになるもんだと思わさせられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子どもが0歳から5歳までの間に意識したことは

身体の健やかさを保つこと。

 

親の影響が一番出るところだと感じていたから

一番こだわった。

特にこだわったのは食事と睡眠。

 

 

⚪︎食事について

 

母乳は本人が飲ませたいだけ、どれだけでも飲ませた。

(完全母乳育児をしたかったし、

ミルクをつくるのが、そもそもめんどくさかった)

 

子どもの成長過程において

腸が完全に育つのは2歳ぐらいと聞いて、

2歳までは、特に食べ物にこだわった。

 

パン食や単品食は避け、

ご飯とお味噌汁を基本に少しのおかず、

というシンプルなパターンを繰り返した。

(幕内秀夫さんの本を参考にした)


できるだけ加工の少ない、

素材そのものをとれる食事を心がけて、

できるだけ添加物のない食べ物にするようにした。

お味噌やお醤油の質にこだわったりもした。


つくるものは簡単なものでよかったから

結婚するまでほとんど料理をしてこなかった私にも気楽に取り組めた。

 

3歳をすぎてから、肉や魚の量を増やし、牛乳も徐々に慣らした。

保育園での給食のなかみが気にならないではなかったけど

そこはあまりこだわりすぎないようにした。

 

食べる量については、本人の意思を尊重した。

体に栄養が必要であれば「食べたい」となるし

栄養が満たされれば「おなかいっぱい」と感じるだろうからと、

子どもの本能を信頼した。

その日に食べる適正な量は本人にしかわからない。

 

量が多くて食べられなかったら残してもいい、というのが我が家の方針。

いつも本人には食べれるかどうかはおなかに聞きなさい、と伝えた。

どちらかといえば、おなかがいっぱいなのにお皿にあるからと無理に食べることの方を叱った。

 

ただ、砂糖だけは本能でコントロールできないと教えてもらったので、

砂糖の摂りすぎにだけは注意した。

 

甘いものでお腹を満たすのはNGだと口うるさく言って

ごはんをしっかり食べた上で、少し食べる分にはよしとした。

 

大きくなった今も、子はこのルールのままだ。

ゆっくり食べて、必要な分だけ食べている。

身体の声に敏感で、どんなに食べたいものでもお腹いっぱいの時は絶対に食べない。


なんでそんなことできるの?って聞いたら

え、ママに言われたんだよ、と返ってきた。

三つ子の魂100までだ。

 

 

⚪︎睡眠について

 

もうひとつのこだわりは、寝る時刻。

小学校低学年までは就寝時刻は8時。

高学年になっても、

遅くても9時にはベッドに入るようにさせた。

就寝時刻だけは、本人の意思は関係なく家のルールにした。

 

早く寝かせて自分の時間がほしい、

というのが私の本音だったのもあるけど、


睡眠が健康の基本、たいていのことは眠れれば解決できると思っていたので、睡眠不足にだけはさせたくなくて早めに寝かしつけた。


睡眠も食事と同じで、本能重視。

休みの日は家族全員で寝たいだけ寝た。


そんなわけで

中学生になってテスト勉強が必要なときも

睡眠を優先する子になった。