前回の記事

 

‐小林よしのり「玉川徹はネトウヨそのもの!」‐

 

 

・「自由を失って」認識した ありがたすぎる『民主主義』

 

 

2020.04.06(月) コロナの無い管理社会を望む人々

 

誰もが緊急事態宣言を待ち望んでいる。右派から左派まで、自ら自由を捨てたがっている。誰もが拘束具を着けてほしい訴えている。

 

「私を縛ってくれ!」「自由を奪ってくれ!」「私は国家に縛られ一歩も外に出たくない」「なのに他人は外に出ている」「許せない。他人の自由も奪ってくれ!」「管理だ!国家による国民の管理が必要なんだ!」「韓国が羨ましい。アメリカが羨ましい。中国が羨ましい。縛ってくれるから!」「そこいらの店が潰れたって、風俗店が潰れて補償を受けられなくたって、それが何だと言うのだ?」「そんな弱者は知ったこっちゃない!」「ほとんどの者は貯金があるのだから。命が大事なのだ」「強権発動が遅すぎる」「人権制限が遅すぎる」「緊急事態制限を出してくれ━━━━━━!」

 

マゾばっかりだ。リスクのない自由なんてない。「コロナのない管理社会」と「コロナもある自由社会」なら、わしは「コロナもある自由社会」を選ぶ。だってコロナってインフルエンザより小物だから。

 

こういう意見は今の日本では異端すぎて無視される。

 

『ゴーマニズム宣言SPECIAL コロナ論』 小林よしのり 扶桑社 

「コロナ脳」との闘い 

~小林よしのりブログ『あのな、教えたろか。』が辿った軌跡 219頁より

 

‐『権威(他人)』に人生を委ねるな‐

 

前回の記事で「ふーくんは何をヒートアップしてるんだ!?」とお叱りの声も受けそうですが、私たちが民主主義社会を生きる人間ならば、『他者の権威』にすがらず、一人ひとりが自分の頭で考えて行動し、政府やマスコミの言うことを妄信してはいけないからこそ、あれほどまで強い口調で意見を述べさせて頂きました。

 

端的に言って、「自己防衛」だった。

 

『独裁主義』ではないはずの日本国で、これほどまでに自己精神を破壊寸前にまで追いやられる経験をするとは思わなかった。各人が自由な意識でもって「着たい服装」でいるのも、憲法で保障された“表現の自由”の範疇であり、コロナ防疫という下らない掣肘さえもはねつける不倶戴天の「前国家的権利」が、いとも簡単に粉砕された瞬間は、この国に住む人々の意識「民主主義ではなかった」という事実を浮き彫りにしました。

 

まことに恐ろしい出来事である。

 

以前は『民主主義は完璧な制度ではない』という戯言を唱えていた自分ですが、前言撤回、ただ漠然と世を生きていたがゆえの「慢心」であり、いざコロナ騒動『自由権を停止された』ときは、本当に死ぬ思いの境地だったことは今更ながらの感想でした。

 

もちろん、各国で「さまざまな制度」があることは受け入れるし、その意識だけでもって優越意識を振りかざす意識は毛頭ないが、とりわけ日本では「れっきとした制度」として運用されているわけだから、これを破るということは、自らの国を破壊する行動に繋がります。

 

しかしながら、日ごろから人権や民主主義がどうのこうのと吠えている似非リベラルたちは、コロナ後の世界にて「民主主義を否定」し、急旋回の「全体主義」に迎合し、その醜い本性をあらわにした。

 

偽装保守(従米主義者)をはじめとするネトウヨたちについては、元から大日本帝国を礼讃し『国家主義』を前面に押し出していたわけだから、別段驚くこともありませんが、コロナ騒動においてマスクや自粛を強要する人々が、一方では「マイノリティの権利をー!」「教育無償化ー!」と言うのだから驚く。

 

‐各国泥沼コロナ対策(最後に笑うのはだれ?)‐

 

なぜならば、今回の騒動によって“経済死という最も残酷な最期”を遂げた方々の命を大切に出来ない人たちが、どうして「他者の人権」を重んじることが出来るのかという、大いなる疑問符が付くからである。

 

結局彼らも、『組織の論理』でもって個々人を統制する過程で、より強い組織に「従属する」傍ら、もうその時点で自らの正当性は担保できないはずなのに、もはや従属を強いる見返りのない社会に勝てない司法闘争を繰り広げ、いたずらに労力と金銭を散財し、さらなる衰退へと突き進んでいる・・・。

 

‐この国で司法に頼るのは間違いなのかと思う‐

 

実に嘆かわしい事態ですが、そういう『闇』を抱えた日本社会と一緒に堕ちてゆく「あらゆるコミュニティ」に未来などないわけで、その先は『地獄』に満ちたものでしかなく、唯一つの解決方法は、そうしたものを「すべて否定」し、20世紀以来のカビの生えた組織論理を「止揚(アウフヘーベン)」することしかないと思います。

 

結局『組織の論理』でいけば、“対立する組織との戦い”でしかなくなるわけであって、果ては「より強い組織が勝つ」という事実しか生まなく、それ自体は残酷なものです。

 

それは「マスク」や「自粛」を受け入れたり、打ち続く司法闘争の「敗北」に垣間見える事実でしょう。

 

もちろん、その中において個々人の自由など存在するはずもなくどの組織に属する人々も、それらが是とする空気に逆らえば、黙殺やパージの憂い目に遭うわけであって、一切の救いすらなく、それを怖がって、人々は従順に“各コミュニティの掟”を犯さず振舞い続けるしかなくなるのです。

 

 

それぞれが『コモンセンス(良識)』に基づき、お互いの主張を認め合い、誰かをコントロールするような教育や組織論を捨て去らなければ永久に支配と同化をめぐる「闘争」は繰り返され、行く末は破滅しかない。

 

なぜこう言い切れるのかと申しますと、今回のコロナ騒動において「マスク(a)」「自粛(b)」『代入可能な記号』でしかなく、たとえばこれが「戦争(c)」「ジェノサイド(d)」に置き換わったとき、先の大戦(アジア太平洋戦争)や戦間期の日本史(関東大震災の朝鮮人虐殺)を見れば、あっという間にわかる事実です。

 

従順すぎる大衆を目の前にして、私が感じることは「この国に自律など存在しなかった」わけで、日本人のみならず、その空気に毒されたあらゆる人々に伝播して、巨大な“同調圧力”を生み出し、まつろわぬ人々を地獄のどん底に叩き落とし、それでもなお暴走する怪物となって、あらゆるものを喰らいつくすまで止まらないわけで、それが収まった時は「(同調圧力が)最初から存在していなかった」かのようにケロッと“日常”に戻る恐怖こそが、私たちが見るべき物事の本質なのではないかと、最近つよく実感しております。

 

逆に“自由を認め合う社会”に転換すれば、在日コリアンや朝鮮学校に対する差別問題や、あらゆるコミュニティにおけるパージや排除が起こらなくなるし、何より“個々人として自由を確立できる”というのは、それだけで心理的ストレスから解放し、社会活動において物凄いプラス効果を働かせてくれるのではないかと思います。

 

 

<参考資料>

 

・『ゴーマニズム宣言SPECIAL コロナ論』 小林よしのり 扶桑社

 

 

<ツイッター>

 

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