前回の記事

 

‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その16(日本史上最大の反米デモ)‐

 

 

 

http://freesozai.jp/itemList.php?category=nation_flag&page=index&type=sozai

 

 

・リベラルの「行動」に 「行動」で迎え撃つ自民党

 

日韓会談反対の勢力が、院外の大衆行動を組織することに全力を注ぎ、その結果、安保国民会議が、その運動再開をするところまで発展しました。

 

そうした光景に、安保闘争の「幻影」と見て恐れた池田首相政権与党である自民党は、当然のごく無為無策でいるはずがなかった。

 

ただちに、「日韓交渉妥結の必要性」を国民に納得させるために、自民党は同党の『日韓問題PR委員会(委員長北沢直吉)』『日韓会談促進PR要網』の作成を命じました。

 

PR委員会は、1962年11月20日、赤坂プリンスホテルで会合を開き、運営委員10名を決定して積極的な行動に入った。

 

その要綱は、同年11月28日に自民党の同委員会で草案が決定され、つづく12月6日の外交調査会・日韓問題懇談会で、それへの承認を取り付け、同月8日の政調審議会、総務会における合同会議にて、了承を得るという慎重な手続きを通じ、最終的に決定された。

 

このPR文書は、自民党広報委員会の名で、広く国民の中へ持ち込まれました。

 

 

・PR文書の内容 自民党は今も昔も「伝統的日韓関係」を意識している

 

趣旨は、同会談に反対するリベラル勢力が理解する「日韓会談観」の真逆の内容であることは云うまでもありませんが、その内容については以下の通りです。

 

「もっとも近い隣国である日韓両国間の懸案を一掃し、両国間の親善提携と相互の繁栄をはかるため、日韓会談を妥結して国交を正常化するということはきわめて当然のことであり、世界の平和と安全を促進するもので、決して国際緊張を激化するものではない」

 

『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房 186頁より

 

うん。何度も言うんだけど、大切なのは「仲良くなること」よりも「なり方」なのよ。

 

1960年代の日韓合意と、現代(2010年代)における日韓合意「似たこと」は、その歴史や物事の構造を俯瞰すれば、ある種の解答のようなものが見えてくる。

 

『慰安婦問題日韓合意』(2015年12月28日)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%95%8F%E9%A1%8C%E6%97%A5%E9%9F%93%E5%90%88%E6%84%8F

 

本来の道理や歴史を無視し、しかし支配者同士では「忠実に」、奇しくも一方は朴正熙の娘であり、もう片方は岸信介の孫が、自身らの出自やその目的を追い求めるために、弱者を抜きにかわされた合意なるものが、果たして如何なるものだったかについては、本シリーズを通してみると、やはり「昔ながらの日韓関係」の復活および維持と、その背後に控えるアメリカの存在あると思える。

 

かつて朴議長や金KCIA部長など、韓国の幹部が来日すれば必ずその足で「渡米」し、また帰りに日本に立ち寄っていることにも明らかなように、問題の本質である「アメリカ」については、当時の自民党PRでは一切触れられていない。

 

さらに自民党が、この要網でPRにつとめ始めるのと相前後して、日本の財界それに連なる各種団体は一斉に日韓会談促進の必要性に関する宣伝をはじめていた。

 

職場の若手労働者向きに編集された、韓国問題研究会『峠をこえた日韓会談』や、一般国民向けの日本国民外交協会発行『日韓交渉をめぐる諸問題』などのパンフレットがばら撒かれたことを含め、いかにも日韓両国の友好を謳うことによって、物事の本質を隠蔽し、人々を間違った方向へ誘導することに、ものすごく躍起なのである。

 

少し書き散らしてしまいましたが、まとめると以下のようになります。

 

今昔の保守メインストリームとしては、「日韓の結束」それ即ち「日米韓の結束」であり、北東アジアの真なる平和と和解を嫌い、北朝鮮や中国を敵視し、緊張と分断を作り、結果三者の権力者たちが政治・経済、軍事的な『利権』を確保し続けることです。

 

‐北朝鮮外務省 宋日昊日本局長の言葉(かっちんブログより)‐

 

 

・宗主国アメリカ 植民地日韓体制 迎える最高潮の反対運動

 

1962年11月28日、大平外相は日韓会談について、池田首相に裁断を求めた。

 

首相は即答はさけ、大平外相が日米貿易経済合同委員会に出席して、アメリカの意向を聞いた後で決めることになった。しかし事実関係としては、郵政省が同年12月1日から韓国向け五型小包装物の取扱いを開始し、先の9月の植村訪韓団に続き、第二回訪韓経済使節団(団長安藤豊禄小野田セメント社長・日韓経済協力会副会長)が、1962年12月5日から10日間、韓国を訪れるという事態が着々と進められていた。

 

‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その15(ようやく立った団結の出発点)‐

 

そして同年12月4日には、『日米貿易経済合同委員会(ワシントン)』に出席していた日本側6閣僚歓待昼食会で『中国封じ込め』に関する『ケネディ発言』がされたのは有名です。

 

‐シリーズ『日米同盟』の正体 その3(ケネディ時代のアメリカ極東戦略①)‐

 

‐シリーズ『日米同盟』の正体 その3(ケネディ時代のアメリカ極東戦略②)‐

 

‐シリーズ『日米同盟』の正体 その3(ケネディ時代のアメリカ極東戦略③)‐

 

『ジョン・F・ケネディ』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BBF%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3

 

「・・・・・・私は数ヵ月後には日本と米国とが盟友としてどんな役割を果たすことができるか、共産主義のアジア支配を防ぐためにどんな役割を果たすことができるかについて、なんらかの考慮がなされることを希望している」

 

『同』 同頁より

 

盟友なんて聞こえの良い言葉をしますが、あれだけ国民や自然を傷つけ米軍基地をボコボコ作って、日米間の不平等の地位や、在日米軍の特権や横暴を語らずして、偽善も良いところです。

 

まあ「西側諸国」というものは、自分たちが掲げる「自由」や「民主主義」という恣意的な教条主義をタテに、実際は自分たちに「まつろわぬ国」を破滅に追い込んだり、都合が悪いことは徹底的に「無視(スルー)」したり、何より彼ら自身の貪欲なまでの「支配欲」は、この先も引き継がれる歴史にある。

 

マスコミに載らない海外記事 『ウクライナの国家治安機関幹部、ウクライナがMH-17を撃墜したと発言』

 

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-1827.html

 

同 『世界はどこへ向かっているのだろう?』

 

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-8c75.html

 

 

無論、かの『ケネディ発言』が自国やアジアの平和を望む日本人たちを、大きく刺激しました。

 

このころから、日韓会談反対運動は最高度に盛り上がりを見せ、再開された安保国民会議は、1962年12月7日、参議院内で幹事会を開き、『日韓会談粉砕第五次統一行動』として、同月10~19日までの10日間を、総評の『一二・一四ゼネスト』と結び、全国で各種行動を展開することを決めました。

 

当日、山梨県でも社・共・県労働連の三団体が会議を開き、県安保共闘の活動再開を決定。全国で再開した共闘は41に達しました。

 

12月8日には、四二臨時国会の開会に呼応し、日韓会談粉砕、炭労6万人首切り・失対打ち切り反対をはじめ、民衆各層の諸要求をかかげ、総評400万の労働者が炭労の無期限全面スト突入を先頭に『第三次統一行動』を行いました。

 

※失対について

 

‐シリーズ 日韓会談反対闘争の展開とその歴史的役割 その16(日本史上最大の反米デモ)‐

 

『一二・一四ゼネスト』を2日前にした、1962年12月12日。日韓会談粉砕(芝・日朝協会)、炭鉱合理化反対(日比谷・総評)の2つの集会が開かれ、寒風をついて1万人の人々が、国会請願デモ行進をし、12月14日、日韓会談、石炭対策、失対打ち切り反対、賃金大幅引き上げなどを中心要求に、総評の400万労働者は職場集会、時限スト、24時間ストなど全国的な統一行動に立ち上がった。

 

中央では夜遅くまで、国会請願デモの波が見られ、翌12月15日には、それまで行動に移していなかった『東京平民共闘』が、ついに常任理事会を開き、活動再開を正式に発表しました。

 

 

・『日韓会談』を取り巻く「海外」の動き

 

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は、1962年12月13日『日韓会談にかんして』という政府声明を発表。

 

これは、日本と朝鮮の過去の不幸な関係から解き起こし、在日朝鮮公民(在日コリアン)の受難の歴史にも触れた重みのある内容でした。

 

その中で、同会談ついて以下のように語られています。

 

「『韓日会談』の首謀者がアメリカ帝国主義であるということは、秘密ではない」とのべ、その最後は、「日本政府が韓日会談で南朝鮮軍事ファッシスト一味といかなる経済的および軍事的協約を締結しようとも、それは全面的に向こうであるということを厳粛に発言する」と結んでいた。

 

『同』 187頁より

 

また中国の首都北京では、1962年12月28日日韓会談反対集会が各界の代表的な人々1500人によって開かれました。

 

 

・無関心を克服し 各人が「自主的に」政治を学ぶ姿

 

私が思うに、ここが現代の日本人にとって一番重要なことなのかもしれません。

 

続く12月17日において、安保国民会議が呼びかけた『日韓会談反対全国代表者会議』が、東京駿河台の全電通会館で開かれ、今後の闘争方針を決定し、宣言を発表しました。その中で、日韓会談にかぎらず、朝鮮問題一般を日本人の立場から、日本人の主体性において検討し、かつ行動すべきであると主張してきた『日本朝鮮研究所』が、パンフレット『私たちの生活と日韓会談』を世に問い始めたのも、ちょうどこの時期でした。

 

もちろん、この頃にもなると、安保当時にも勝るとも劣らないような数多くの開設や宣伝文書類が政党をはじめ、各種団体から発行され、それぞれの優れた特徴も持っていましたが、朝研のパンフレットは、日韓会談を韓国の問題や、日本と韓国との関係問題であるという理解に対して、「日本および日本人自身の直接的利害に関する問題である」という観点を強く打ち出すと同時に、朝鮮に対するかつての支配国の国民として、その日本人の精神に一種の反省を土台に、日韓会談粉砕闘争を端に、それまでの単なる在日朝鮮人の闘争だとか、日朝協会の関係事項である従来の考え方から、広く日本国民全般が真剣に取り組む必要のある闘争だという認識が広まっていく段階までの、日本の思想家や学者、運動化たちの苦闘が詰まった、色々と考えさせられる内容です。

 

無論、労働者の間でも、それまでの職場要求賃上げなどの経済要求と合わせて、日韓会談も統一して把握しなければならない意識の広まりや、工場学校職場有志による日韓会談研究会など、個々人が率先して自主的なサークルを作り、社会の大本を決める政治を知ろうとする認識がどんどん生まれ始めました。

 

特に、全国金属の横河電機支部や東京計器支部の職場における自主サークルは、いずれも研究水準が高く、及ぼした影響力も大きいものでした。

 

 

<参考資料>

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

・マスコミに載らない海外記事 『ウクライナの国家治安機関幹部、ウクライナがMH-17を撃墜したと発言』

 

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-1827.html

 

・同 『世界はどこへ向かっているのだろう?』

 

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-8c75.html

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

ブログランキングに参加しております。

皆さまのご支援が頂けるとありがたいです

(下のバナーをクリック)

 

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村