ショスタコーヴィチ作曲「交響曲第15番」 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

今日は先日九響の定演で聴いた、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ作曲の「交響曲第15番 イ長調 Op.141」について書きます。

 

超長~いですが、あくまで自分のための備忘録が主な目的なので、興味ない方はスルーで結構です鳥コケッコ~♪

 

(*以下参考にしたのは月刊誌「九響」の西田紘子氏の曲解説、交響曲第15番のwikipedia英語版wikipedia、ミューザ川崎のオフィシャルブログ(東響のコンマス グレブ・ニキティン氏のインタビューより)などです。また譜面画像は月刊誌「九響」や私が持っているポケット版スコアから転載しました。)

 

作曲者のドミートリイ・ショスタコーヴィチ (1906-75) については、下記の記事下差しに書いています。

 

「交響曲第15番」は彼が書いた最後の交響曲で、1971年(65歳)7月に完成しました。

59歳頃から心臓発作、心筋梗塞など体調が徐々に悪化して「死」を意識するようになったショスタコーヴィチは、この2年前の1969年(63歳)に交響曲第14番「死者の歌」を作曲しています。

 

第15番を作曲していた頃は自分で髭も剃れないくらい身体の麻痺が進行しており、心臓発作の再発への恐怖を感じていたといいます。完成する前年の1970年には整形外科医の長期治療を受けていましたが、作曲中の2か月間だけは気力をみなぎらせていたそうです。

しかし、完成後2か月後の9月に再び発作に見舞われ、年末の初演は翌年1月に延期になりました。

 

そして1972年1月8日に息子のマクシム・ショスタコーヴィチの指揮、モスクワ放送響の演奏で初演されました。

日本ではその約4か月後の5月10日に大阪で初演されています(ロジェストヴェンスキー&モスクワ放送響)。9月に初演されたアメリカなどよりも日本の初演は早かったようです。

 

こちらは息子のマクシム(Maxim)がモスクワ放送響を振って初演の翌年にリリースされたレコードのようです。

ショスタコーヴィチ:交響曲第15番 イ長調 Op.141より 第1楽章 (7分52秒)

/ マクシム・ショスタコーヴィチ&モスクワ放送響 (1972年)

 

 

この曲の特徴としては、交響曲ではあるがトゥッティ(=総奏(オケ全体の合奏)が少なくてむしろ色んな楽器のソロが代わる代わる出てくる、ということがひとつ。

そして、他作曲家や自身の作品からの引用がたくさん散りばめられているということも挙げられます。

 

調べると引用についても色んな説があるのでそれらを交えながら書くと・・・

 

ト音記号<第一楽章> Allegretto イ長調 ト音記号

曲はチーン、チーンというグロッケンシュピールの2音(「ミ」の音)から始まる。

その後のフルートが奏でる第1主題下差しは、自身のチェロ協奏曲第1番第1楽章の主題を想起させるし、フルートの音をドイツ語の音名で読むと、「Es(S)―As―C―H―A」、「サーシャ」となる。サーシャとは、ショスタコーヴィチの孫の名前、アレクサンドルの愛称であり、グロッケンシュピールの最初の「ミ (Mi)」はイタリア語で「私」。つまり、ショスタコーヴィチは孫を見て自分の幼少期を思い出しながらこの楽章を作曲したともいわれる。

 

 

また、ロッシーニの「ウィリアム・テル」序曲(スイス軍の行進の音楽)の引用。これは聴けば誰でも気づくくらいわかりやすく、トランペットやクラリネットで何度か奏でられる。

ショスタコーヴィチ自身は当初この引用を、”子供時代の雲一つない空の下の単なるおもちゃ屋”をイメージした”と説明したが、のちに「このイメージを正確に取りすぎる」としてリスナーに注意を促したそう。また、息子のマクシムによると、「これは、父が幼い頃、初めて好きになったメロディーなのです。」

また、ウィリアム・テルのロシア語表記の最初の3文字とレーニンのイニシャルがいずれも"ВИЛ"であることから、この楽章は、レーニンがソ連の指導者だったショスタコーヴィチの幼年期から青春時代を表しているという説もある。

 

第一ヴァイオリンに”B-A-C-H”の音型(256小節)。

ヴァイオリンソロの下降の音階は、R.シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」を意図的に真似しているといわれる。

ひとつの主題をパートごとに音の長さを変えて重ねる、という中世ルネサンス時代のカノンを使っている(この作曲技法を20世紀で使った作曲家は恐らくショスタコーヴィチだけではないかということ)。 これ実際に聴くとほんとに面白い!

3連音、4連音、5連音が同時に奏でられる複雑な”リズムクラスター”(複数のリズムを重ねたポリリズム)となっており、交響曲第2番やストラヴィンスキーの「春の祭典」との関連性の指摘されているそう。
 

ト音記号<第二楽章> Adagio-Largo へ短調 ト音記号

金管の荘厳な響きのコラール下差しから始まる。

 

次いでとても印象的なチェロチェロのモノローグ(独奏)が続く。下差し

このチェロの主題は”12音主題”といって、1オクターブ内にある12の音を並べたもので、20世紀前半の西欧で開発された12音技法に由来する。次にどの音がくるか予測できない進行を作ることができる。(戦後ソ連ではもはや珍しい手法ではないそう)

 

 

12音が使われている、つまり最低音から最高音域までの幅広い音域を使う旋律なのだが、とても印象的なのが最高音域、ハイポジションによるとても儚げで切ない音なのだ。今回このソロを奏でた九響の山本首席のこの音を弾く姿自体もなんだかとても苦しげで切なく見えた。

 

この後、142小節目(練習番号64)からはラルゴに入り、葬送行進曲風の哀悼の調べをトロンボーンが歌い始める。下差しこれはエフトゥシェーンコの詩によるアフマートヴァについての未完の歌曲の引用といわれる。この時チューバも同時に伴奏してるんだけど、トロンボーン単体で吹くよりもチューバの音が入ることで哀愁がぐっと増している気がする。

 

トロンボーン・ソロの旋律

 

オケ全体が葬送の音楽を強奏で鳴り響かせたあと、216小節目(練習番号76)からチェレスタがポツン、ポツンとソロで奏でる音型は、前述したチェロの十二音列風モノローグの反行形ひらめき電球であり、自身の交響曲第1番の冒頭部から引用されている。

このチェレスタ前の弦全体の静謐な調べの箇所が私はたまらなく好き照れちゅん

 

キラ音譜 この葬送という音楽を強調するか否かで指揮者によりテンポのとり方も異なってくるのだそうだ。ムラヴィンスキーは曲全体の演奏時間は約40分くらいと早め、一方ハイティンクなどは葬送の音楽を強調しており遅めのテンポをとっており、全体も48分くらい。

 

289小節目からファゴットによる5度音程の吹奏を転換点として、アタッカで第3楽章へ入るのだが、この5度は性質の定まらない響きから「空虚5度」とも呼ばれるそうだ下差し

 

 

ト音記号<第三楽章> Allegretto ト短調 ト音記号

上のファゴットのあと、そのまま第三楽章に入るが、まずクラリネットがおどけた、というか、人を食ったような不気味な第1主題下差しを吹く。この主題も第二楽章のチェロの独奏と同じく、十二音列となっている。 ちなみに、この曲の直前の1970年に作曲された映画「リア王」のための音楽もクラリネットによる道化のメロディで始まるのだそう。

 

クラリネットが吹く第1主題

 

この譜面をよく見ると、旋律の前半と後半が反逆行の形、シンメトリックな構造となっているひらめき電球

 

このメロディをそのままヴァイオリンが独奏でもらいうけたあと、オーボエとクラリネットのアンサンブルなどメロディは変えながらもリズムの雰囲気はそのまま(あくまで私の感じ)。

 

73小節目(練習番号89)で第1楽章にも登場した、トランペットのファンファーレ(ウィリアム・テルの行進曲のリズムを使ったものだが、私にはパーパパパ~という音が競馬馬馬のG1レース前のファンファーレ🎺にどうしても聴こえちゃうw)のあと、77小節目からは再びヴァイオリンのソロが入る下差し(97小節目まで)

77小節目からのヴァイオリン・ソロの旋律

 

これは、一番最初に出した譜例、第1楽章冒頭のフルートの主題(「サーシャ」のやつ)が形をかえてデフォルメしたものと思われる。(その後クラリネットも同様の旋律を奏でる)

 

130小節目(練習番号96)からは自身の交響楽第4番第2楽章のコーダの引用といわれる。

この楽章のコーダ~最後のしめくくりも打楽器がカキコキ・・・と印象的な音を刻むのがなんともいい~ドキンちゅん

 

 

ト音記号<第四楽章> Adagio - Allegretto イ短調~コーダはイ長調 ト音記号

冒頭は、ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」より”運命の動機”と、「ジークフリートの葬送行進曲」のリズムが引用。

そして14小節目から、楽劇「トリスタンとイゾルデ」前奏曲の冒頭3音(ラ・ファ・ミ)をヴァイオリンが弾くと、17小節目(練習番号113)から主部、アレグレットに入るが、ここでも”運命の動機”は繰り返し登場する(後述)。このワーグナー作品からの2つの引用はいずれも「死」を連想させるもの。

アレグレット冒頭で現れる主題について、ショスタコーヴィチ自身はミハイル・グリンカの歌曲『疑惑』(『故なく私を誘わないで』)(バラチンスキイ詩)の引用だと述べている。また、「トリスタンとイゾルデ」の断片も引用されている。

 

101小節目から再び金管の”運命の動機”、そして105小節目(練習番号125)から中間部が始まるが、この中間部は長大なパッサカリアであるが、その主題は交響曲第7番「レニングラード」の第1楽章の「戦争の主題」(小太鼓のリズムにのって現れる(ドイツ軍の)侵略のモチーフ)である。このパッサカリアの使用について、ショスタコーヴィチ自身は友人のベンジャミン・ブリテンの晩年のオペラに影響を受けたことを示唆するために使用した、と語ったそう。第6変奏では主題の構成音が音列化(11音列)されている。
 

その後オケ全体が強奏したあと、265小節目(練習番号142)からまた”運命の動機”からの~「トリスタンとイゾルデ」前奏曲の3音(ラ・ファ・ミ)からの~グリンカの歌曲による主題再び。

 

337小節目からチェレスタのパッセージと第1楽章断片の再現により静謐なコーダが始まる。

341小節目から38小節に渡って、弦が「ミ(E)」と「ラ(A)」の音をピアニッシモ (pp)で最後まで延々と鳴らし続ける。その間打楽器群が交響曲第4番第2楽章コーダや、チェロ協奏曲第2番の終楽章の打楽器パートを引用する。 自作からの引用ではここが最も目立つ箇所となる。

また、ハイドンの最後の交響曲である第104番「ロンドン」の冒頭も引用されている。

 

・・・というのが全体の流れですが、この第15番はショスタコーヴィチが自分の人生を振り返って書いたとも言われています。

 

前述したショスタコーヴィチの記事の中でも書いていますが、この作品は彼の最後の交響曲ではあるけれど、彼が書いた最後の作品というわけではなく、1974年(68歳)には弦楽四重奏曲第15番、そして1975年の亡くなる4日前に生涯最後の作品「ヴィオラ・ソナタ」を書きあげました。 この「ヴィオラ・ソナタ」もすごくって、なんと終楽章に彼の15の交響曲が全部引用されているそうですびっくり (第3楽章の65小節目から15の交響曲の一部分が数珠つなぎで全部出てくるのだそう) しかも初演から31年経って2006年に初めてわかったというからすごい!!

このヴィオラ・ソナタのこういう事実を鑑みると、第15番を書いたときも彼はもう十分「死」を意識していて、やっぱり人生の総決算として書いたのではないかな~と私も思います。

東京交響楽団のコンサートマスターのグレブ・ニキティン氏は、この作品のことを”ショスタコーヴィチ版の「英雄の生涯」だ”と書いています。

 

 

それからもうひとつ、この作品に関してどうしても書きたかったこと。 それは指揮者ムラヴィンスキーのことです。ムラヴィンスキーについてはコチラに書いています。

 

 

この記事の中でこちらの本下差しのことを紹介していますが、

 

河島みどり著 「ムラヴィンスキーと私」 (草思社)

 

 

この本についてはこのブログの中でも何度か書いたことがあります。

 

この本の中の、154頁から「交響曲第15番の誕生」と題して、この作品について書いてあり、その中でムラヴィンスキーが書いた日記が載っています。

いつかこの曲を聴いたときに、ぜひ書きたいと前々から思っていたので、長くなるけど引用して載せたいと思います。

 

(161頁より)ムラヴィンスキーの日記から。(ちなみにレーピノはレニングラード近郊のバルト海に沿った保養地)

『1971年8月 レーピノ

 私はレーピノの「作曲家の家」という保養所で休息する幸福を味わった。ショスタコーヴィチもレーピノのダーチャで交響曲第15番を書き終えるところだった。彼は一日中、仕事にのめり込んでいた。ある夕べ、彼のコッテージのそばを通ったときのことを私は忘れない。

 黄昏が深くたちこめて、窓辺のグリーンの笠のスタンドが淡い光をショスタコーヴィチの頭や肩や腕に投げかけていた。彼の頭はインク壺の置いてある左へ、そして五線紙のある右へと揺れ動いていた。

 その動きは一秒も無駄にはできないといった切迫したものだった。そこにあるのは仕事で、彼そのものは消滅していた。ショスタコーヴィチは存在していなかった。

 この一コマ・・・・濃さを増す秋の黄昏、窓、グリーンの笠のスタンドの明かり、楽譜にうつむく、なじみ深い親愛なる顔。

 この光景を私は一生忘れないだろう。この数分の時間がどんなに高価に思われたことか!』

 

前述したように、この作品の1972年1月に行われた初演はショスタコーヴィチの息子のマクシムが振っていますが、同年5月にはムラヴィンスキー指揮でショスタコーヴィチ出席のもと、レニングラードで演奏されました。 

 

その稽古のとき、レニングラード・フィルのがらんとした大ホールの10列目にショスタコーヴィチ本人とイリーナ夫人(彼の三番目の妻)が座っていました。休憩時に、ムラヴィンスキーは彼に「なにか注文はありますか?テンポはいいですか?」と尋ねると、ショスタコーヴィチは、

「とんでもない!すべては正しくて夢のようです」 と答えたそう。

ショスタコーヴィチは、ムラヴィンスキーから「コントラバスのニュアンスを変えたらどうか」という提案を受け、pmf に変え、「この方が良い、あなたは正しい」と言って自分の総譜もそう書き換えたそうです。

 

ムラヴィンスキーの第15番についての言葉がこの本に載っています。(162頁より)

長いですが、最後にその言葉を載せたいと思います。(原文ママ)

 

『 私が高く評価する第十五番は演奏するたびに新しいポドテキスト(サブテキスト)が発見される希有の作品である。このシンフォニーのポドテキストの解明の難しさは論述された音符があまりにも簡明なことにある。ときには簡潔さは禁欲主義にまで達する。

 このシンフォニーについての初会合は稽古のときだった。私たちの普通のやり方はこうだった。ショスタコーヴィチは黙ってまず稽古を通して聴き、いろいろ気づいた点を書き込んでいく。そして休憩か、稽古が終わったあとで、私は総譜に彼のダメを書き込んでいくのだった(休憩中に書き込むことはほとんどなかった。休憩のときは私がオーケストラへのダメ出しで忙しかったから)。

 そして次の稽古までに、彼の欲するように修正していき、ショスタコーヴィチの言葉によると「欠陥を淘汰して」いったのだった。

 第十五番は最も困難な、奥深い複雑な作品である。音楽の内部に浸透するためには一枚ずつ皮を剝いでいき、どんどん新しいポドテキストを発掘せねばならない。私の演奏した作品のなかでも最も奥底の知れないものである。それ以前は音楽さえ知らなかったといえるくらいだ。この音楽の深部に入っていくためには長い時間と根気を要し、一歩一歩、幾重にもある層へと踏み込んでいかねばならない。

 第一楽章はたくさんのテーマを含む。そのテーマはまるでオペラ歌手のようにそれぞれの声でそれぞれの主張をし、それが絡みあって一つの状況をつくり、次へと発展させている。これは驚くべき巨大なことだ。誰かがおもちゃ屋と比較したがナンセンスもはなはだしい。これは「ウィリアム・テル」からの引用句だが、形式的にはあの賑やかな店を連想できなくもないが。実際にロックのテーマが現れてくる。音楽そのものは楽しげだが、その全体の流れのなかで定期的に、恒久的に、まるで人生における障害が顔を出すかのように、それぞれの部分がまやかしの明るいホ長調に対決しているのだ。

 第二楽章は奸智にたけた音楽、大きなレチタティーヴォ(叙唱)。ここはヒロイックな試みが、いや要素が出てくる。

 このシンフォニーは四部から成るのではなく、第一、第二、第三、第四楽章ということではなく、第三楽章はスケルツォ「間奏曲」であって、そこで作者は仮面を被って登場するのだ。

 そしてデリケートな問題と溶解、永遠への退場で終了するのである。』