8月9日 ~ ショスタコーヴィチ 没 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

皆さま、連休はいかがお過ごしでしょうかヒマワリ

 

「今日はなんの日」のコーナーです。

参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はwikipediaなどwebからお借りしました)

 

今日、8月9日は・・・ソ連の作曲家 「ドミトリー・ショスタコーヴィチが他界した日」 です。

(今日もちかっぱ長いです汗

 

Dmitrii Dmitrievich Shostakovich: 1906.9.25-1975.8.9; ソビエト連邦時代の作曲家

 

ショスタコーヴィチは、20世紀最大の作曲家のひとりであり、チャイコフスキーなどと並んでロシア=ソヴィエトを代表する作曲家です。

ショスタコーヴィチはロシア革命後も亡命せず、スターリンの恐怖政治のもとで生涯を国内で過ごしました・・・

 

 

ドミトリー・ショスタコーヴィチは、1906年9月25日にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで生まれました。父は鉱山技師で、母はペテルブルク音楽院出身のピアニストでした。

8歳のとき第一次世界大戦が勃発(12歳のときに終結)。

9歳から母親にピアノの手ほどきを受け始め、1916年(10歳)にイグナーツ・グリャッセール音楽学校に入学。翌年ロシア革命が起こります。

1919年(13歳)ペトログラード音楽院に入学、ピアノと作曲を学びます。グラズノフらに師事。

1922年(16歳)に父親が46歳で急逝。一家は経済的困窮に陥り、ショスタコーヴィチは映画館で無声映画の伴奏ピアニストなどをして生活費を稼ぎました。音楽院ではグラズノフの援助を受け勉強も続けました。

1923年(17歳)に音楽院のピアノ科を修了。結核療養で訪れたクリミアで初のピアノ・リサイタルを開きました。

 

17歳のころのショスタコーヴィチ

 

1925年(19歳)に音楽院の作曲科を修了し卒業(翌年大学院へ進学)。卒業作品で書いた「交響曲第1番」が翌年レニングラードで初演されると、「現代のモーツァルト現る」と大騒ぎになりました。ちょうど同地に滞在していたブルーノ・ワルターがこの曲に感銘を受け、翌年ベルリン・フィルで国外初演を行い、その後トスカニーニやストコフスキーの指揮で各国へ紹介、ショスタコーヴィチは国際的な注目を浴びます。

 

1927年1月(20歳)に第1回ショパン国際コンクールに出場、優勝を狙っていましたが「名誉賞」獲得にとどまったため、ピアニストの道を諦め作曲一本にしぼります。

 

1930年(24歳)に初のオペラ「鼻」が初演され、半年間のロングランとなりますが西欧的な技法を駆使したため当局から非難され上演できなくなります。

 

1932年(26歳)に科学者のニーナ・ヴァルザルと結婚、歌劇「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が完成し彼女に献呈されました。

1934年(28歳)にこの歌劇がレニングラードで初演されると、大きな話題を呼び国内だけでなく欧米各地でも何度も上演されました。

1936年(30歳)にスターリンがこのオペラをボリショイ劇場で観劇しましたが、生々しい性描写(暴行シーン)に激怒して途中で席を立ってしまいました。2日後、共産党中央委員会機関紙「プラウダ」の第一面にこのオペラを徹底的に批判する記事が掲載されました。これがいわゆる「プラウダ批判」で、ショスタコーヴィチは「体制の反逆者」というレッテルを貼られてしまいます。

 

このオペラは当初は4部作のオペラの予定だったそうですが、この事件で4部作どころか本作が彼が書いた完成したオペラとしては最後の作品になってしまいました(オペレッタは除く)。

そしてこれ以後20年以上も上演されることはありませんでした。

この年からスターリンの「大粛清」が始まり、密告社会、秘密警察、強制収容所など恐怖政治が国民の日常を支配するようになりました。

 

ショスタコーヴィチは後年、「プラウダ批判の後、政府関係者が懺悔して罪を償えとしつこく説得したが、拒絶した。」と語っています。

 

「プラウダ批判」の翌1937年(31歳)、ロシア革命20周年を記念して「交響曲第5番」を作曲、11月の初演では聴衆も当局も大喝采、圧倒的な成功でショスタコーヴィチは名誉を回復しました。後年、この曲の終楽章には権力者を批判する暗号が使われているという解釈もありますが、様々な議論があり、真意のほどは定かではありません。

 

1939年(33歳)にレニングラード音楽院の教授に就任(41年に辞任)。同年第2次世界大戦が勃発。

1941年(35歳)6月にナチス・ドイツがソ連に侵攻を開始し、独ソ戦が勃発。スターリンは大粛清のため軍の人材不足で当初大打撃を被りました。ドイツ軍はレニングラードを包囲、以後約900日に及ぶ包囲戦となりました。市民約320万人が飢餓地獄に追い込まれ、包囲戦の犠牲者は67-110万人と推定されています。 ショスタコーヴィチは人民義勇軍・防空監視隊の一員として活動したそうです。

 

レニングラード包囲戦で消防隊を務めたショスタコーヴィチ

 

この年戦火の中、ショスタコーヴィチは交響曲第7番「レニングラード」を作曲(10月にはレニングラードからクイビシェフへ疎開し12月に完成させる)、翌1942年のクイビシェフでの初演は大成功を収めます。 

この初演後に楽譜はマイクロフィルムに収められ、国家機密扱いでイラン→エジプト→連合国側へ運ばれ、トスカニーニ指揮でアメリカ初演、全米にラジオ中継され空前の反響を巻き起こしました。アメリカではこの年から一年で62回も演奏されたそう。(このアメリカでの演奏は政治的思惑も絡んでいました)

 

マイクロフィルムのショスタコーヴィチの交響曲第7番の楽譜を見る、

アメリカの音楽出版社のユージン・ワイントラウブ

 

TIME誌の表紙を飾った消防服姿のショスタコーヴィチ

(1942年7月20日号)

 

一方、現地のレニングラードでは、1942年8月9日にカルル・エリアスベルク指揮、レニングラート放送管(現:サンクトペテルブルク響)によって同地初演が決行されました。指揮者のエリアスベルクは飢餓で瀕死の状態、オケの団員も14人しか残っておらず、このレニングラード初演までには本当に大変な苦労がありました。

 

このあたりのいきさつは、昨年2019年1月にNHK BSで放送された「玉木宏 音楽サスペンス紀行~ショスタコーヴィチ 死の街を照らした交響曲第7番」でも詳しく描かれていました(私も観ましたがとても興味深かった)し、こちらの本ではさらに詳しく書かれています。下差し

 

ひのまどか著 「戦火のシンフォニー~レニングラード封鎖345日目の真実」

(新潮社)

 

すべてのライフラインが絶たれた瀕死の街レニングラードで、ショスタコの大作を初演しようとする音楽家たち。何のために?極限の状況下で音楽は何の役に立つ?

このときの彼らの状況とは比べ物にはなりませんが、今の新型コロナの状況にも少し重なって思えるところもあるかもしれません。 この本はとてもとても重い。重すぎるくらいですが(重量がってことではなく内容が。)、おススメですひらめき電球

 

横道にそれてしまいましたが、ショスタコーヴィチの生涯の話に戻ります。

交響曲第7番作曲の翌年1943年(37歳)には「交響曲第8番」を作曲、スターリングラード攻防戦の犠牲者への墓碑として書かれましたが、第7番と違い内面的な悲しみなどの表現を押しだした作品であったため当局の不興を買い、のちに「ジダーノフ批判」の対象となり、1956年のフルシチョフの「スターリン批判」まで演奏が禁止されました。 同年モスクワ音楽院教授に就任。

1945年(39歳)5月にドイツが無条件降伏。この年にショスタコーヴィチは「交響曲第9番」を作曲。 当局は当初ベートーヴェンの第九のような壮大な作品を期待していましたが、実際の彼の第9番は正反対(軽妙で皮肉満載ぽいw)であったことから彼は相当批判されました。

 

1948年(42歳)にいわゆる「ジダーノフ批判」(スターリンに次ぐソ連共産党のNo.2のアンドレイ・ジダーノフによる前衛芸術に対する批判)が公となり、ショスタコーヴィチをはじめとして、プロコフィエフ、ハチャトリアンらが糾弾されました。

特にショスタコーヴィチは批判の矢面に立たされ、「人民の敵」扱いされ、再び音楽様式の変更を約束させられるとともに復職していたレニングラード音楽院とモスクワ音楽院の教授職を解任されました。

このため、1949年(43歳)には、「森の歌」(全7曲)を作曲(第7曲では「スターリンに栄えあれ!」の大合唱で終わる)、初演は大成功で彼は再び名誉を回復しました。

(しかし初演の夜、彼は屈辱感から泣きながらウォッカを浴びたといいます。)

→4年後にスターリンが死ぬと歌詞は大幅に書き換えられ、「スターリン」という言葉は完全に削除されました。

 

1953年(47歳)にスターリンとプロコフィエフが同じ日に他界。交響曲第10番を作曲。

1954年(48歳)妻ニーナが45歳で他界、翌年には母ソーフィヤが他界。

1956年(50歳)にフルシチョフが公にスターリンを批判。この年ショスタコーヴィチは再婚しますが3年後に離婚。

 

1960年(54歳)にフルシチョフからの度重なる圧力のため、不本意ながらも共産党に入党しました。ソ連作曲家同盟の書記長という重職を、ソ連音楽界発展のために引き受けることにしたためです。この年に「弦楽四重奏曲第8番」を作曲、彼によるとこの作品は”自身へのレクイエム”だそう。(共産党入党がそれほど苦痛だったということです)

完成後の友人宛ての手紙に、

『(中略)私は作曲しながら、半ダースのビールを飲んだ後の小便と同じほどの涙を流しました。帰宅後もこの曲を二度弾こうとしましたが、やはり泣いてしまいました。』

『これは私自身の人生に捧げた作品です。』

と書いています。(半ダースのビール生ビール飲んだ後の小便と同じほどの量って・・・う~ん、めちゃ大量ってことね?にやり

 

1961年(55歳)レニングラード音楽院大学院での教育活動に復帰。交響曲第12番を作曲。作曲後25年ぶりに交響曲第4番の初演がなされました。

 

1962年(56歳)交響曲第13番”バビ・ヤール”を作曲。バビ・ヤールはナチスによるユダヤ人虐殺事件が起きた旧ソ連の土地の名前です。彼はこの曲を通して、ナチスによる虐殺を非難すると同時に、ロシア社会でタブー視されてきたユダヤ人差別(革命後のソ連でも反ユダヤ主義が存在すること)を告発したのです。この曲も反体制の歌詞などから、当局が初演をことごとく妨害、警官が劇場を包囲するという物々しい状況で初演がなされました。

同年約30歳年下のスピーンスカヤと3度目の結婚。

 

59歳頃から心臓発作、心筋梗塞など体調が徐々に悪化して「死」を意識するようになった彼は、1969年(63歳)交響曲第14番”死者の歌”を作曲。初演リハーサルのときに、

 

『 人生は一度しかない。だから私たちは、人生において誠実に、胸を張り恥じることなく生きるべきなのです 』 と語っています。 

この作品はブリテンに献呈されました。

 

1971年(65歳)生涯最後の交響曲第15番を作曲。 1974年(68歳)最後の弦楽四重奏曲第15番を作曲。この作品は全6楽章が切れ間なく演奏され、全部アダージョという前例のないものです。

1975年、亡くなる4日前に生涯最後の作品「ヴィオラ・ソナタ」を書きあげ、8月9日にモスクワで68年の波乱万丈の生涯を終えました。 没後2か月後にこの曲をレニングラードで初演したヴィオラ奏者のドルジーニン(この曲は彼に献呈された)の回想によると、客席には指揮者ムラヴィンスキーが座っていて、まるで子供のように止めどなく涙を流していましたが、曲が終わりに近づくと文字通り慟哭に身を震わせていたそうです。

 

ところでこの「ヴィオラ・ソナタ」ビックリマーク今までも色んな作品が引用されていることは以前から知られたいたのですが、2006年にピアニストのイヴァン・ソコロフが論文を発表、この曲の終楽章にはなんと彼の15の交響曲が全部引用されている、という衝撃的びっくりなことを指摘しました。

 

その引用は第3楽章の第65小節から始まるそうです。

交響曲第1~15番の一部分が第1番冒頭の4音から数珠つなぎで全部出てくるのだそう。大半の曲は冒頭の数音ですが、第2番は弦のあとのトランペット、第11番は第3-5小節などが出てくるそうです。 第1~12番はヴィオラ、第14、15番はピアノが弾くそうです。初演から31年もの間、誰も気づいてないというのがすごい!それだけ自然なつながりなのでしょう。

 

 

モスクワのノヴォデヴィチ墓地(第2区39列)にあるショスタコーヴィチのお墓

 

 

墓石に刻まれた4つの音符はショスタコーヴィチが自分を表すモチーフとして用いていたもので、レ・ミ♭・ド・シ→ドイツ音名では”D ・ Es ・ C ・ H”となり、名前のドミトリー・ショスタコーヴィチ ("D"mitri "S" "C" "H" ostakovitch)にかけています。

交響曲第10番以降、ヴァイオリン協奏曲や弦楽四重奏曲など多くの作品で使われています。

 

 

ちなみにショスタコーヴィチは大のサッカーファンサッカーで、審判の資格も持っていたそうです。

スタジアムに試合を見に行くと、野球でいうスコアのように細かく記録をつけ統計まで取っていたそうです。亡くなる当日もテレビでサッカー中継を見ていたそうです!

 

1940年代後半、息子のマキシムとサッカーに興じるショスタコーヴィチ

 

 

バルトークは、『国歌の奴隷にまでなって作曲するものは、馬鹿』と辛らつな言葉を残していますが、そう端的に言い切れるものでもないのかなと思います。

 

ショスタコーヴィチ、ムラヴィンスキーやリヒテルもそうですが、祖国を愛し、生涯亡命することなく、がゆえに体制と自分の信念の境界で揺れ動きながら生きていたと思います。

はたからみるとショスタコーヴィチは体制に迎合したように見えても、自分の意志までは屈していなかったと思います。死んでは何もならない。当時の恐怖政治は現代の私たちの想像以上のさらに上の上をいくレベルですから。

 

河島みどり著 「ムラヴィンスキーと私」(草思社)

 

著者の河島みどりさんはリヒテルの通訳、付き人もつとめた方で、こないだ「リヒテルと私」という本も紹介しましたが、これはムラヴィンスキーとのことを書いた本です。

帯にもあるように、この本の中にムラヴィンスキーとショスタコーヴィチの手紙のやりとりの内容がたくさん出てきます。これを読んでいるとふたりがどんなに深い絆で結ばれていたか(ヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」での内容はやっぱり違うと思うのです)、よく分かる気がします・・・(ロシア人って男同士であっても手紙の表現も熱いんですよね~w)

 

 

長くなってしまいましたあせる今日の曲です。近藤氏が選んだのは、交響曲第5番「革命」から第4楽章です。 この曲を初演してショスタコーヴィチの名誉の回復に大きく貢献したムラヴィンスキー&レンフィルの演奏でどうぞ。

 

ショスタコーヴィチ:交響曲第5番 ニ短調 Op.47 「革命」より 第4楽章 (10分47秒)

/ ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル

 

これはリハの映像ですが、ムラヴィンスキーは一度も止めずにそのまま演奏させています。

本番と変わらない真剣な演奏です。ちなみに途中のフルートのソロはムラヴィンスキー夫人が吹いてると思います。

最後の一音が鳴ったあとのムラヴィンスキーの表情がなんともいえない!

そして楽譜を閉じるところまで・・・   あぁ~~ムラ様カッコいい~ラブ

 

ショスタコーヴィチ本人がピアノを弾いている映像もありましたので載せます。

 

ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番 ハ短調 Op.35より 第4楽章(一部) (1分47秒)

/ ショスタコーヴィチ (Pf)   (1940年)

ショスタコーヴィチが34歳の頃の演奏だと思います。

 

 

『 たとえ両腕を切り取られたとしても、私は音楽を書き続けるでしょう・・・口にペンをくわえて 』 (ドミトリー・ショスタコーヴィチ)