皆さま、今日もお元気でしたか? 今週はお盆休みの方が多いのかな?
今週もがんばりましょ~
「今日はなんの日」のコーナーです。
参考にしたのは、近藤憲一氏著「1日1曲365日のクラシック」という本で、それにプラスαで書いています。(写真はwikipedaなどwebからお借りしました)
今日、8月10日は・・・作曲家 「アレクサンドル・グラズノフの誕生日」 です。
Aleksandr Konsatantinovich Glazunov:1865.8.10-1936.3.21;
ロシア帝国末期~ソ連建国期の作曲家、音楽教師、指揮者
またまた強面の方ですがw、グラズノフは「ロシア5人組」の一世代後の作曲家で、5人組のひとり、リムスキー=コルサコフに師事、友人のチャイコフスキーやアントン・ルービンシュタインの影響を受け、そしてさらに彼の音楽はショスタコーヴィチの中に生き続けました・・・
アレクサンドル・グラズノフは、1865年の今日、8月10日にサンクトペテルブルクで生まれました。(ちなみに同じ年にシベリウス、ニールセン、デュカスなども生まれています)
父のコンスタンチン・イリイチは裕福な出版業者で(プーシキンの「エフゲニー・オネーギン」の版元)かつ有能なアマチュア・ヴァイオリニスト、母のエリーナ・パブロブナはプロ並みのピアノの腕前でした。 6歳からピアノを、他ヴィオラやチェロも学びました。
母親を通じて、13歳のころにロシア5人組のバラキレフ (1837-1910)にその才能を認められ、14歳でバラキレフの弟子だったリムスキー=コルサコフに紹介されました。
「バラキレフは、14歳か15歳の子の作品を何気なく私のところに持ってきた。それが、サーシャ・グラズノフの曲だった。あどけない手法で作曲された管弦楽曲だった。青年の才能は疑いようもなく明らかであった。」
「彼の音楽的な成長は、日ごとではなく、文字通り時間ごとに進んだ。」
とリムスキー=コルサコフが回想したように、グラズノフは驚異的な進歩をみせ、リムスキー=コルサコフは次第に彼を弟子ではなく、年下の同僚とみなすようになったそうです。
1882年3月(16歳)には交響曲第1番がバラキレフの指揮で初演され、絶賛されました。
グラズノフ(左)とリムスキー=コルサコフ(右)
リムスキー=コルサコフの次いで、グラズノフの人生を大きく変えたのはミトロファン・ベリャーエフ (1836-1904) でした。ベリャーエフはロシア帝国の豪商で、篤志家として芸術家を庇護し自ら楽譜出版社を創業するなどロシア文化の新興に寄与した人物です。
ミトロファン・ベリャーエフ (1836-1904)
ベリャーエフは46歳のときにグラズノフの交響曲第1番を聴いて非常に感銘を受けました。グラズノフは1884年(19歳)に彼に連れられて初めて西欧へ行き、ワイマールでフランツ・リストに会いました(出た!またリスト~)。リストはグラズノフの才能を賞賛し、同地で交響曲第1番を上演までしてくれました。
1885年にベリャーエフはライプツィヒに自前の楽譜出版社を創立、グラズノフの他、リャードフやリムスキー=コルサコフらの作品を自費出版しました。のちにグラズノフらはこの出版社の顧問となりました。
若いころのグラズノフ
グラズノフは1888年(23歳)に指揮者としてもデビューし、パリ万博で自作の交響曲第2番も指揮しました。 1890年代から1905年頃までが彼の円熟期で、バレエ音楽《ライモンダ》や《四季》などなど彼の有名な作品をたくさん作曲しました。
1896年(31歳)にロシア交響楽協会の指揮者に就任。
1899年(34歳)にペテルブルク音楽院の教授に就任、1905年(40歳)に院長だったリムスキー=コルサコフの免職に抗議して辞職しますが、ほどなく院長に選任され1917年(52歳)まで務めました(正式には1930年に辞職)。彼は在任中にオペラの練習場や学生オーケストラを設立しました。
また、彼は毎年学期末になると何百人もの学生を個人的に試問して、その人物像や適性な評価を記した推薦状を無数に作成したり、生活に困窮した学生には自分の収入を分け与えて支援したり、時には政府に掛け合って学生の置かれた立場を訴えたそうです。グラズノフに助けられた一人が昨日の記事で書いたショスタコーヴィチで、彼は13歳で音楽院に入学、最年少の学生でしたが、在学時に父親が亡くなって経済的に困窮したた彼をグラズノフは支援、励まし続けました。
さらに、グラズノフはユダヤ人も庇護し、当局に掛け合ってユダヤ人音楽家がペトログラードに住めるように許可をもらいました。そのおかげでハイフェッツやミルシテイン、ミッシャ・エルマンらは上京して学ぶことができたそうです。 当局に何人のユダヤ人が入学したかを尋ねられたときも、彼は「ここではそんな数は数えていない」と答えたそうです。
それでも彼の保守主義は音楽院内部で非難され、教授陣からはより進歩的な経営を要請され学生からは大幅な権利の承認を要求などされました。グラズノフはこれらの要求をのみませんでしたが、音楽院に疲れた彼は、1928年(63歳)にウィーンでのシューベルトの没後100周年記念行事に出席するのを好機として国外に出たきり、二度とソ連に帰国しませんでした。
折しもストラヴィンスキーやプロコフィエフなどロシアの前衛音楽が世界的にも注目を浴び、グラズノフの音楽は古いとみなされるようになりつつあり、また彼の「慢性アルコール依存症」も授業がまともにできないくらい進行していました。
グラズノフはその後パリに定住、64歳のときに結婚。妻の前夫との娘エレーナをのちに養女にしてピアニストだった彼女とヨーロッパや北米などを演奏旅行しました。
彼は「体調不良で帰国できない」として亡命は表明しなかったので、国内での彼の尊厳は失われずにすんだそうです。
グラズノフは1936年3月21日にパリで他界しました。70歳でした。彼の訃報は国内では「彼はまだ健在だったのだ」と逆に多くの人々を驚かせたそうです。
彼の遺体は没後36年後の1972年になってソ連に戻され、現在さサンクトペテルブルクのチフヴィン墓地に眠っています。
サンクトペテルブルクのチフヴィン墓地にあるグラズノフのお墓
グラズノフの作品は、ロシア国民楽派を受け継いだ民族主義(ペテルブルク楽派)とチャイコフスキーなどの流れを汲むロシア・ロマン主義(国際主義(モスクワ楽派))を巧みに融和させたことに特徴があり、後年は対位法的な構想や変奏の技法やその構築性から「ロシアのブラームス」とも呼ばれました。
それでは今日の曲です。バレエ音楽《四季》よりバッカナールです。聴いたことがある方も多いのではないでしょうか。
グラズノフ:バレエ音楽《四季》より 「秋」 第1曲 「バッカナール」 (3分14秒)
/ エフレム・クルツ&フィルハーモニア管 (1955年)
私は昨年3月に小泉&九響でグラズノフの交響曲第5番を初めて聴いて、とても感動した覚えがあります。
グラズノフの作品はチャイコフスキーやショスタコーヴィチ、プロコフィエフらに比べると、マイナーなイメージがあるかもしれませんが、素晴らしい曲がたくさん!
もっともっと演奏されて然るべきではないかな~と思います