昨年9月に行ったウィーン旅行記の続きです・・・
3回に渡って書いてきた「カプツィーナ皇帝納棺所」もあと少しになりました。
このマップにしたがって進みます。
前回はNew Cryptまでめぐりました。
その先には Franz Joseph Crypt があります。ここを目的に訪れる観光客も多いのではないでしょうか。ここは皇帝フランツ・ヨーゼフ1世、妻のエリーザベト、息子のルドルフ皇太子の3人だけの小部屋です。
真ん中がフランツ・ヨーゼフ1世の棺(マップ142番)
写真左がエリーザベトの棺(マップ143番) 右がルドルフ皇太子の棺(マップ144番)
以前はこの3人の棺はガラス越しにしか見れなかったようだが、現在はこのように開放されている。
エリーザベトの棺(サルコファガス)にはたくさん献花があって人気の高さがうかがえた。
ルドルフ皇太子の棺(サルコファガス)
天井はこのようになっていた。 New Cryptはとても暗かったのにこの部屋は明かりがついていてとても明るかった。
Franz Joseph I. (1830-1916) (写真は1905年);フランツ・カールとゾフィー大公妃の長男。18歳で即位後、68年に及ぶ長い在位と国民からの絶大な敬愛からオーストリア帝国の「国父」とも称された。
Elisabeth (1837-1898) (写真は1867年のハンガリー王妃戴冠時); シシィの愛称でも知られる。1854年に16歳で結婚、オーストリア皇后となる。その後の人生についてはもう有名なので省略します。1898年に旅行中のジュネーヴのレマン湖のほとりで刺殺され生涯を閉じる。
Rudolph (1858-1889) ; エリーザベトは4人の子供を産んだが、そのうちの唯一の男子がルドルフだった。次期皇帝として期待されたがマイヤーリンク事件で謎の死をとげた。
ルドルフについては以前書いた「マイヤーリンクの記事」で詳しくふれていますので興味ある方はご参照下さい。
エリーザベトはルドルフの他に3人の女子を産んだが、第一子長女のゾフィーのみここに葬られている。
第一子長女:ゾフィー・フレデリケ(1855-1857) (マップ78B) ; 死因は腸チフスと推測されている。
第二子次女:ギーゼラ(1856-1932)
第三子長男:ルドルフ(前述)
第四子三女:マリー・ヴァレリー(1868-1924)
そして最後の部屋が Crypt Chapel です。
ここにはオーストリア帝国の最後の皇帝のカール1世(の胸像)と皇后ツィタの棺、その息子である最後の皇太子などが葬られています。
カール1世の胸像(マップ145番) (彼の棺はここにはありません)
皇后ツィタ・フォン・ブルボン=パルマの棺(マップ146番)
Karl I. (1887-1922) ; 最後のオーストリア皇帝(在位;1916-18)。大伯父のフランツ・ヨーゼフ1世のあと後継者として1916年に即位したが、第一次世界大戦に敗れて「国事不関与」を宣言するも退位は拒否した。莫大な皇室財産をオーストリア共和国に没収された後、二度ハンガリー国王への復帰運動を企てるも失敗し、ポルトガル領マデイラ島に流されて困窮の中病死した。彼の亡骸はこのマデイラ島フンシャルにあるため、この納骨堂には胸像のみが飾られている。
Zita (1892-1989) ; 1911年にカール1世と結婚、1916年に夫の皇帝への即位に伴い皇后となるが、2年後に夫が退位、ともにマデイラ島に亡命した。夫の死後国外追放となり、スイスで96歳で死去、オーストリア国内の反対論を押し切る形でここに皇族として葬られた。
貴族特有の選民思想が強く、死ぬまでいつの日かハプスブルク家に再び君主の座が戻ってくると信じて疑わなかったという。
またこの皇后ツィタといえば、先ほどの「マイヤーリンク事件」に関して、ルドルフ皇太子の死が自殺ではなく暗殺によるものだという告白を1983年にウィーンのタブロイド紙にしたことでも有名(私はこのことでしかツィタのことを知らなかった)。当時はショッキングな発言だったと思われるが真相はいまだ明らかになっていない。
そしてこれが彼らの長男であり、最後のオーストリア帝国の皇太子であるオットー・フォン・ハプスブルクの棺(マップ150番)
その隣にはその妻のレギーナ(1925-2010)の棺があった(マップ151番)。
Otto von Habsburg (1912-2011) ; 最後のオーストリア皇帝カール1世と皇后ツィタの長子で最後のオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子。両親と一緒にマデイラ島に亡命し、父の崩御に9歳で立ち会った。1930年代にはナチス・ドイツのオーストリア侵略計画に対抗するため君主制復活運動を起こしたが、ヒトラーがオーストリアを併合した後、オットーに対して死刑宣告をしたため第二次世界大戦中はアメリカへ亡命した。戦後帝位継承権を放棄することなどを誓約して1966年にようやくオーストリアの正規のパスポートを得ることができた。その後、欧州議会議員や国際汎ヨーロッパ連合国際会長を務めるなど、政治家として汎ヨーロッパ主義的に活動した。
2011年7月に98歳で死去した際はシュテファン大聖堂で各国君主・首相などが出席するなか大々的に行われた。また帝国時代の伝統衣装を身に着けた市民ら1万人も参列したという。
葬儀の様子
そしてこのオットー・フォン・ハプスブルク氏の弟であり、カール1世とツィタの第5子四男のカール・ルドヴィヒの棺もこの部屋にあった。
カール・ルドヴィヒの棺(マップ148番)
Carl Ludwig (1918-2007) ; 幼少期を両親の亡命先のマデイラ島で過ごし、ベルギーの大学で学んだ。ナチスの侵攻に伴い家族と共に北米へ渡りアメリカ軍へ入隊、ノルマンディー上陸作戦にも参加した。1996年に兄フェリックスとともにオーストリア共和国政府に忠誠を誓うことを宣言することでようやく入国が許可された。
この方のとなりのマップの149番は台座だけがあり棺はまだなかった・・・
カール1世とツィタの間には、このオットーとカール・ルドヴィヒ以外にもあと6人の子供がいたが、この納棺所に安置されているのはこのふたりである。
Crypt Chapelの全体:奥の祭壇をはさんで向き合って置かれているのが、オットー・フォン・ハプスウルク(右)と妻のレギーナ(左)、オットーの棺の横が母親の皇后ツィタ、その横の手前の棺が四男のカール・ルドヴィヒの棺。
今回紹介した Franz Joseph Crypt と Crypt Chapel に安置されている人々のリストは以下のとおりです。
ちなみにハプスブルク家の当主はオットー・フォン・ハプスブルクが1922年から84年間務めていたが、2007年からはその息子(第6子長男)のカール・ハプスブルク=ロートリンゲン(1961~)が務めている。
今回の系譜です。この納棺所に納められている主だった人物のみにしています。
フランツ・カール ゾフィー大公妃
(四男一女)
第一子長男:フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916) 皇后エリーザベト(1837-98)
(マップ142番) (マップ143番)
長男:ルドルフ(1858-89) (マップ144番)
他 三女あり 第一子長女:ゾフィー・フレデリケ(1855-57) (マップ78B)
第3子三男:カール・ルドヴィヒ マリア・アンヌンツィアータ
(1833-1906)(マップ138番) 2番目の妻 (1843-71) (マップ139番)
三男一女
第2子次男:オットー・フランツ マリア・ヨーゼファ
(1865-1906) (1867-1944) (マップ140・141番)
2人の息子
長男:カール1世(1887-1922)(マップ145番) ツィタ(1892-89)(マップ146番)
(五男三女)
第1子長男:オットー・フォン・ハプスブルク(1912-2011) レギーナ(1925-2010)
(マップ150番) (マップ151番)
第6子長男:カール・ハプスブルク=ロートリンゲン(1961~)
→現在のハプスブルク家の当主
第5子四男:カール・ルトヴィヒ(1918-2007) (マップ148番)
→最後のオーストリア帝国の皇帝カール1世の息子でオットー・フォン・ハプスブルクの弟
カプツィーナ皇帝納棺所の横(地上)には教会があります。
<個人的な所感>
4回の長きに渡ってしつこく書いてきたこの皇帝納棺所ですが、個人的にはとても感慨深いものがありました。1500年代から現代にいたるまでのハプスブルク家の歴史の長大な絵巻物を見ているようでした。もちろんその人物と実際に対面したわけではないですが、本などで読んでいた人々がそこに眠っていると思うと感動しました。
(ただ、ちょっと気になったのが、ほこりをかぶった棺(サルコファガス)がとても多いということ。日本人がお墓参りのときに墓石を拭いてきれいにするように、棺をきれいに拭いてあげるような習慣はないのでしょうか。私を雇ってくれたらボランティアで拭き掃除するんだけどなぁ~)
歴史上有名な人物だけではなくとも、ひとりひとりの人生を調べてみると生涯の長短にかかわらず皆懸命に自分の人生を生きていたのだなと思いました。記事には書けなかったですが本当に面白かったです。
それから昔は幼児死亡率が高いため(他には政略結婚のためなど)多産傾向にあったこと、そして医学が今ほど発達していないために出産するのも命がけであったことを今回記事を書きながらつくづく思い知らされました。出産が原因で若くして亡くなってしまった女性がなんと多いことか・・・ そして世継ぎを残すために妻が死んでしまった直後でさえ再婚していた傾向も・・・
第一次~第二次世界大戦の時期に翻弄されたハプスブルク家の人々にも思いをはせました。例えば貴賤結婚のため皇帝継承権を放棄し、サラエボ事件で暗殺されたフランツ・フェルディナントの二人の息子たちはナチス・ドイツ時代にダッハウ強制収容所に送られ、そこでの虐待や強制労働により著しく健康を損なわれ戦後に若くして亡くなりました。世が世なら皇帝の息子であったのに・・・
ハプスブルク家の子孫はいまだに脈々と続いています。いまだに貴賤結婚という概念があり、旧子爵など身分の高い家出身の子女との結婚をいまだに望む傾向もなきにしもあらず・・
現在のハプスブルク家の当主は名目上はオーストリア皇帝、ハンガリー国王などの君主位の請求者を引き継いでいます。
今年は最後のオーストリア=ハプスブルク帝国の皇帝カール1世が、1918年にシェーンブルン宮殿の「青磁の間」にて「国事不関与」の宣言に署名しました。先日のウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでは、シェーンブルン宮殿を退去後に移り住んだエッカルトザウ宮殿(ここに4か月間滞在したらしい)でのバレエの映像が放映されていましたが、カール1世はこのエッカルトザウ宮殿でハンガリー版の「国事不関与」の文書にも署名しました。
つまり、今年はハプルブルク帝国が崩壊して100周年にあたります。
後世の自分からみるとてくてく歩くだけで数百年の人々と対面できましたが、先達の人たちのように自分も与えられた人生をきちんと生きなければ、と自分自身も省みるとてもよい機会になりました。
やりきった感がありありですが 次回の旅行記ではシューベルトの生家に行きます