カプツィーナ教会 / 皇帝納棺所 4の3 | Wunderbar ! なまいにち

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まだまだひよっこですがクラシック大好きです。知識は浅いがいいたか放題・・・!?

あらためましてあけましておめでとうございますラブラブ

 

 

 

というわけで、9月に行ったウィーン旅行記のつづきです・・・オーストリア

前回に続いて、カプツィーナ教会の地下にある「皇帝納棺所」(Kaisergruft)について書きます。

尚、記事中に出てくる肖像画や人物の写真はすべてwikipediaよりお借りしました。

 

 

入口でもらった、この下差しマップにしたがって進みます。

 

前回はFerdinand Cryptまでめぐりました・・・

 

マリア・テレジア→ヨーゼフ2世→レオポルト2世→フェルディナント1世と継承されてきた皇帝の次の座はフェルディナント1世の弟のフランツ・カールを飛び越え彼の長男のフランツ・ヨーゼフ1世になる。今回はレオポルト2世から。(息子のフェルディナント1世については前回)

 

Franz CryptとFerdinand Cryptの横には Tuscany Crypt がある。

ここはトスカーナ大公だったレオポルト2世とその家族が葬られている。

(この記事の最後の系譜も参照下さい。)

 

この部屋は柵越しに見るようになっていた。

 

この同じような4つ並んだ棺のうち、右から2番目の棺がレオポルト2世のもの(マップ113番)

一番右(写真ではちょっと切れている)が、レオポルト2世の妻マリア・ルドヴィカのもの(マップ114番)

右から3番目の棺はマリア・クリスティーナというマリア・テレジアの四女のもの。レオポルト2世の姉にあたる。(マップ113番) 一番左の棺はマリア・クリスティーナの夫のアルベルト・カジミールのもの(マップ111番)である。この夫妻の棺はレオポルト2世の息子カールを養子にとったためここにある。

 

Leopold II. (1747-1792) ; マリア・テレジアの3男でヨーゼフ2世の弟。1790年に兄ヨーゼフ2世が死去したが世継ぎがいなかったため神聖ローマ皇帝の帝位を継いだ。1791年にフランスでヴァレンヌ逃亡事件が起こり、妹マリー・アントワネット夫妻を危惧したレオポルト2世はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共にピルニッツ宣言を行ったが、これはフランス人をかえって激憤させフランス革命のきっかけともなった。在位わずか2年(在位:1790-1792)で死去し、帝位は長男フランツ2世(前回記事)が継承した。

クラシック関係では、劇作家のダ・ポンテを国外追放し、モーツァルトやサリエリを冷遇したといわれる。

 

Maria Ludovica (1745-1792) (マリア・ルドヴィカ・フォン・シュパーニエン);レオポルト2世の皇后。ふたりは1764年に結婚、16人の子をもうけた。長男のフランツ2世(前回記事)が夫の帝位を継いだ。次男フェルディナント3世はトスカーナ大公となる。1792年に夫の死後まもなく自身も死去した。

 

Maria Christine (1742-1798) (マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ);マリア・テレジアの四女でレオポルト2世の姉。愛称は「ミミ (Mimi)」。母マリア・テレジアの最もお気に入りの娘であり、マリア・テレジアは子供たちの中で唯一ミミだけに恋愛結婚を許した。だが子供を授からなかったため弟レオポルト2世の三男カール大公(フランツ2世の弟)を養子とした。ちなみにこのカール大公(カール・フォン・エスターライヒ=テシェン;1771-1847)は次のNew Cryptに葬られている(マップの122番)。

マリア・テレジアがあまりにミミを溺愛するため(しかも何でも母のマリア・テレジアに告げ口するということで)他の兄弟姉妹からはよく思われていなかったという。

 

Tuscany Cryptに眠っている人々のリストは以下のとおりです。

 

進路に沿って進むと細長くて暗い大きな部屋に出ます。これがNew Cryptです。主だった人のみ紹介します。

写真手前から2番目の棺が先ほど書いたカール大公の棺(マップの122番)、手前から3番目がその妻のヘンリエッテ・アレクサンドリーネの棺(マップの123番)である。

 

Karl Ludwig (1771-1847) (カール・フォン・エスターライヒ=テシェン);レオポルト2世の三男。伯母のマリア・クリスティーナの養子となった。フランス革命戦争、ナポレオン戦争期に活躍した当時のヨーロッパにおける有能なオーストリア帝国の軍人と評価されている。また当時を代表する軍事思想家としても知られており多くの著作も残している。

 

ちなみにカール大公といえば、この肖像画よりもこちらの方が有名ではないだろうか。↓

 

ホフブルク王宮のヘルデンプラッツ(英雄広場)にある騎馬像がこのカール大公である。

(ここにはもうひとつの騎馬像があるがそちらはオイゲン公のもの)

 

Henriette of Nassau (1797-1829) (ヘンリエッテ・アレクサンドリーネ・フォン・ナッサウ=ヴァインブルク);1815年に44歳のカールと結婚、5男2女をもうけた。ちなみに彼女はウィーンでクリスマスツリークリスマスツリーを普及させた方らしい。

 

写真奥の棺がフランツ・カールのもの(マップの135番)、手前の棺がその妻ゾフィーのもの(マップの137番)、その間の小さな棺は1840年に死産だった男児のもの(名前なし)。

 

Franz Karl (1802-1878) (フランツ・カール・フォン・エスターライヒ);神聖ローマ皇帝フランツ2世の第9子。オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世やメキシコ皇帝マクシミリアンの父親。長兄フェルディナント1世が1848年に退位した際は帝位継承権第1位であったものの政治的野心がなかったため即位を辞退し長男のフランツ・ヨーゼフに帝位を譲った。

 

     

Sophie Friederike (1805-1872) (ゾフィー・フリーデリケ・ドロテア・ヴィルヘルミーネ・フォン・バイエルン)(左の肖像画は1832年、右の写真は1866年)

 

肖像画を見てもわかるようにゾフィーは大変な美人だった。お見合いの席でフランツ・カールと出会ったゾフィーは地味で魅力のない彼に失望するも、当時の皇太子(のちの皇帝フェルディナント1世)が虚弱体質で世継ぎが望めないため将来弟であるフランツ・カールに帝位が回ってくると期待して1824年に結婚した。四男一女(そのうち女児のマリア・アンナはてんかんのため4歳で死去)をもうけ、長男のフランツ・ヨーゼフが帝位につくと「皇帝の母」として大きな権力をもちオーストリア帝国の政治に絶大な影響力を及ぼした。

姪で嫁のエリーザベト(シシィ)との確執関係は有名だが、1872年にゾフィーが肺炎で倒れた際に大公妃を必死に看病し最期を看取ったのはエリーザベトだった。ゾフィーは最期になりエリーザベトと和解したといわれる。

 

4人の息子たち(1860年頃)

左から三男のカール・ルトヴィヒ、長男のフランツ・ヨーゼフ、次男のマクシミリアン、四男のルートヴィヒ・ヴィクトル

 

オーストリア皇帝一家(1861年)

後列;左からフランツ・ヨーゼフ、マクシミリアン、(その妻の)シャルロッテ、ルードヴィヒ・ヴィクトル、カール・ルドヴィヒ 前列;エリーザベト、ルドルフ、ギーゼラ、ゾフィー、フランツ・カール

 

長男のフランツ・ヨーゼフの棺は別の部屋にあり次回の記事でふれる予定なので、それ以外の3人の息子たちについて書いておきたいと思います。

 

まず三男のカール・ルドヴィヒについて。

写真暗いですが、これがカール・ルドヴィヒのサルコファガス(マップの138番)

(注:「サルコファガス」とは、棺をさらに入れる装飾を施した入れ物のこと)

 

Karl Ludwig (1833-1896) ; オーストリア大公。1896年に旅行中のヨルダンで腸チフスに感染し死去した。長男のフランツ・フェルディナントは1914年に暗殺され(サラエボ事件)、第一次世界大戦のきっかけとなる。次男のオットー・フランツは最後のオーストリア皇帝カール1世の父親である。

    

カール・ルドヴィヒの3人の妻たち。 (この方々の棺の写真は撮れていません。)

左が最初の妻のマルガレーテ・カロリーネ (1840-1858) (マップ134番);1856年に結婚したがその2年後に腸チフスにて18歳で急逝。

真中が2番目の妻のマリア・アンヌンツィアータ (1843-1871) (マップ139番):1862年に結婚し、三男一女をもうけた。前述のフランツ・フェルディナントやオットー・フランツの母親。

右が3番目の妻のマリア・テレサ (1855-1944) (マップ99D) :1873年に18歳のときに40歳のカール・ルトヴィヒと結婚、穏やかな気性で義理の兄であるフランツ・ヨーゼフ1世にとても好かれていたという。

 

さらに彼の主な子供たち(フランツ・カールとゾフィーの孫たち)について。

フランツ・フェルディナント(1863-1914) ; カール・ルドヴィヒの長男。本来ならば皇位継承者であったが、1914年に妻ゾフィーとともに、訪れていたサラエボで暗殺された(サラエボ事件)。これをきっかけに第一次世界大戦が勃発する。尚、妻ゾフィーとは貴賤結婚であったためにこの納骨堂には埋葬されていない。 また、彼は1893年に世界一周の見聞旅行の途中で日本を訪れ1ヶ月をかけて長崎から東京まで旅行したという(この際刺青も彫ったとか)。

 

フェルディナント・カール:(1868-1915) ; カール・ルドヴィヒの三男。平民の女性と結婚したため、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によりハプスブルク家を追放されチロルに移り住んだ(このため彼も亡骸はこの納骨堂にはない)。結核で亡くなった。

 

       

オットー・フランツと妻のマリア・ヨーゼファ (写真は撮れていませんがマップの140番と141番)

オットー・フランツ(1865-1906); カール・ルドヴィヒの次男でオーストリア最後の皇帝のカール1世の父親。「麗しのオットー」と呼ばれるほどの美男子であったためか数々の女性関係のトラブルを起こし、梅毒に罹患して亡くなった。

マリア・ヨーゼファ(1867-1944) ; 第一次世界大戦中はアウガルテン宮殿で傷病者の手当てにあたった。1919年には息子のカール1世や皇后ツィタらとともにオーストリアを離れ亡命した。

 

 

フランツ・カールとゾフィーの四男のルードヴィヒ・ヴィクトルについて。彼の棺はここにはありません。

Ludwig Viktor (1842-1919) ; 彼は同性愛者であったといわれ、その性向を隠そうとしなかったためたびたびスキャンダルを起こし、ついには兄の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からウィーンから追放されてしまう。追放後はザルツブルクのクレスハイム宮殿で暮らした。

 

フランツ・カールとゾフィーの次男、マクシミリアンについて。

Maximilian of Mexico (1832-1867) (フェルディナント・マクシミリアン・ヨーゼフ);1864年にフランスのナポレオン3世などの支援を得てメキシコ皇帝に即位するも、合衆国など多くの国々は彼の帝国を承認せず、フランス軍が撤退すると1867年には共和派軍に捕らえられ処刑された。ベルギー王女である妻シャルロッテとの間に子供はいなかった。(シャルロッテは精神に異常をきたしベルギーの城に幽閉され夫の生還を信じたまま86歳で亡くなった。)

 

ちなみに彼の非業の死についてはマネの描いた絵が有名。

「皇帝マキシミリアンの処刑」 (エドゥアール・マネ 1869年 油彩 マンハイム市立美術館)

 

メキシコ皇帝マキシミリアンの棺(マップの126番)

(撮った写真があまりにピンボケだったのでこの写真はwikipediaからお借りしました)

 

長男のフランツ・ヨーゼフ1世については次回の記事で書きます。

 

そしてこのNew Cryptで外せないのがこの方。

Marie Louise (1791-1847) (マリー・ルイーズ、マリア・ルイーザ);神聖ローマ皇帝フランツ2世の長女でフランス皇帝ナポレオン1世の2番目の妃。1810年にナポレオンと結婚、翌年にナポレオン2世(1811-1832)を出産した。しかしマリー・ルイーズはこの子に対して生涯あまり関心を示さなかった。ナポレオンが退位してエルバ島に流されるとオーストリアへ帰国。その後パルマ公国の女公となり、ナポレオンがまだ存命中に知り合い子供まで産んでいたナイペルク伯爵と再婚した。 

尚、彼女の息子のナポレオン2世は当初はここカプツィーナ納棺所に埋葬されていたが、1940年にナポレオン(1世)を敬愛するアドルフ・ヒトラーの命によりナポレオンの眠るパリに移された。

 

マリー・ルイーズの棺(マップ127番)

 

以上New Cryptに安置されている人々のリストは以下のとおりです。

 

 

最後にまた系譜ぽいのを載せますが、前回までの系譜は大幅に略して主要人物のみにしていますので、詳しくは前回記事の系譜をご参照下さい。

                  

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レオポルト2世(1747-92)                マリア・ルドヴィカ(1745-92)   (マップ113・114番)

(マリア・テレジアの三男)

               | 16人の子供

       第2子長男:フランツ2世 (1768-1835) (マップ57番) 

                                  

               | 2番目の妃との間に12人の子供     

   

 第1子長女:マリー・ルイーゼ(1791-1847) (マップ122番);フランス皇帝ナポレオンの2番目の妃

 

       

第2子長男:フェルディナント1世(1793-1875)  (マップ62番)   皇后との間に子供はなし                         

 

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第9子三男:フランツ・カール(1802-78)       ゾフィー・フリーデリケ(1805-72)

(マップ135番)                          (マップ137番)

                |

                | 四男一女

 

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第1子長男:フランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)     エリーザベト(1837-98)   (マップ142・143番) →次回記事

                                            |

                               

                          ルドルフ(1858-89) (マップ144番)  など一男三女

 

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  第2子次男:マクシミリアン(1832-67); メキシコ皇帝  シャルロッテ(1840-1927)

    (マップ126番)

 

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第3子三男:カール・ルドヴィヒ       マリア・アンヌンツィアータ    マルガレーテ・カロリーネ    マリア・テレサ

(1833-1906)                                   2番目の妻 (1843-71)       最初の妻 (1840-58)      3番目の妻 (1855-1944)

(マップ138番)                                            (マップ139番)                     (マップ134番)                   (マップ99D) 

                                         |    三男一女                                                              |

 第1子長男:フランツ・フェルディナント(1863-1914): サラエボ事件にて暗殺                                            二女をもうける

 第2子次男:オットー・フランツ(下記)                                            (棺はここにはなし)

 第3子三男:フェルディナント・カール(1868-1915); ハプスブルク家から追放

 第4子長女:マルガレーテ・ゾフィー(1870-1902)

 

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第2子次男:オットー・フランツ      マリア・ヨーゼファ

(1865-1906)                                 (1867-1944)     (マップ140・141番)

                | 2人の息子

         カール1世(1887-1922) ; 最後のオーストリア皇帝 →次回記事

 

(フランツ・カールとゾフィーの)

第4子長女:マリア・アンナ(1835-40) ; (マップ 74B)

男子死産(1840) ; (マップ136番)

第5子四男:ルードヴィヒ・ヴィクトル(1842-1919); ウィーンから追放される

 

 

肖像画からだんだん写真になっていることに歴史の流れを感じます。

次回はやっとこさフランツ・ヨーゼフ1世一家にたどりつきます。そして最後のオーストリア皇帝一家などについても書きます。つづく