鎌倉殿の13人…番外編4 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

先日、静御前の生誕地を訪れて、

なぜ、義経の生誕地を考えなかったのか

わからないのですが、

昨日、京都に遊びにいき、

偶然通りかかったところに👇

こんな看板がありました。


車で通り通り過ぎら時に「牛若…」と

みえたんです。



もしや…


と思い、ひとまず時間指定の今宮神社に

行く用事があったので先に行ったのですが、

ここから車で2、3分のところです。


帰りに寄ってもらいました。


👇看板は👇




「牛若丸生誕ゆかりの地」とあります。

     (牛若丸産湯井・胞衣塚)


※「胞衣」とは「えな」と読み胎児を包む膜と胎盤

看板には👇

源義経(幼名「牛若丸」)は、鎌倉幕府を

開いた源頼朝の異母弟で、平安時代末期の

治承・寿永の乱(源平合戦)で

活躍した武将です。

ここには、平治元年(1159年)に牛若丸が

生まれた際、産湯として使われたと伝わる

井戸とそれを示す石碑が残されています。


また、松の木の根元には胞衣塚があり、

牛若丸の胞衣を埋めたと言われています。

江戸時代末期までは、

ここに「牛若丸産湯大弁財天女社」が

あったという記録もあります。

このほか、この周辺にも牛若丸の産湯として

用いられたとされる井戸の伝承があります。


👆とありました。



近くには

「紫竹栗栖町」という交差点がありました。




牛若丸の胞衣塚です




この様な立札もありました。


由緒

牛若丸はこの地で平治元年(1159年)生誕

いたしました。

産湯井・胞衣塚と彫られた石碑には応永2年

(1359年)と年号が銘記され、京都で

1番古い石碑と思います。

今は畑の中ですが、明治の頃まで

牛若丸産湯大弁財天女社の小宮で、

開運のご利益と崇められていました。

この地は、山城国(城州)愛宕郡大宮郷

洛北紫竹上野村で郡名は鷹峰に愛宕さんの

鎮座と山が近いものですから、瀧や谷水の

せせらぎの音の2説ありますが、いずれも

定かではありません。

大宮郷は十ヵ村に分かれ、

江戸時代正保年間、三百八十戸千六百人で

郷の中心は紫竹村でまさに日本の原風景

の寒村でした。

今、その区域の人口は約3・5万人で

この間の発展は目を見張るばかりです。

さらにこの地は洛北七野と呼ばれ北から

萩野(萩の自生)、紫竹上野(紫竹の竹

の自生)、紫野(若菜の自生)の順」、

三つの野は禁野(しめの)として天皇や

朝廷の狩猟、若菜積みの場であったことから

千年の昔より近年まで多くの山荘が

営まれました。

左の道は洛中から若狭まで二十里の道のりの

上野街道(丹波、氷室道)で周山街道開通

まで杉坂、真弓、山国、知井を経て、

若狭と結ばれた往来の多い

洛北の主要道でした。

若狭から鯖が京の都から物資や文化の交流

の多い歴史街道です。

旧暦6月15日には御所へ納める氷室の氷が

馬の背により運ばれたことは良く知られて

います。

上野の里は、大災や疫病鎮めの京の三奇祭の

一つ、やすらいまつり(今宮神社)を

平安時代から今日まで伝承されています。

(四月第二日曜日)。

付近の光念寺には常盤御膳が安産を祈願した

とされる常盤腹帯地蔵も祀られています。

         平成二十六年十一月

             上野新三郎


と👆ありました。


この紫竹には、源義朝の別邸が

あったとされていて、この常盤御前はこの

地で牛若を産んだと言われていて、

周辺には「牛若通り」とか「紫竹牛若町」

もあるんですって。

たまたま、カーナビがこの周辺を通って

今宮神社を案内してくれて、車の設定

じゃなかったのか細い道で無理だようと

ばかりに細い道でやっと辿りついた

ところに、この看板があったのです。

ゆっくりだったので見つけられたし、

思いがけずに発見できました。


色々帰ってきてから調べてみると

上の上野新三郎さんとあるけれど、

この「上野」氏は代々源家に仕え、

源義朝の命で常盤御前の出産を助け、

この井戸を守ってきたと伝えられて

いるそうですよ。


偶然とはいえ、

義経と静は今日の「鎌倉殿の13人」で

出会うようですね。


楽しみです。