高取城址 | emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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こんにちは❗️

3連休の初日は国民の休日の

「建国記念の日」でした。

明治5年(1872年)に明治政府が「日本書紀」

に神武天皇即位の日とする1月1日を

太陽暦に換算したという2月11日を祝日と

定め、制定したもので、

昭和23年に一時廃止されたが、

昭和41年に「建国記念の日」として公布し、

復活した日です。


やはりこの日は

橿原神宮に行って来なければと

おもって、行ってきました。















昼食は三輪ソーメン山本です。






ソーメンの温かい麺で、肉温麺です。


お腹を満たしてから、


これから


「高取城址」に行ってきます。



西国三十三所6番札所でもある

南法華寺(壺阪寺)は以前、

西国三十三所観音巡礼できたことがあり、

坂を登った覚えがありますが、

城はその上です。




高取城は奈良盆地と吉野川の挟まれた標高

583mの高取山山頂の築かれた山城です


高取城は

別名

「芙蓉城」「鷹取城」「高取山城」とも

呼ばれています。

麓から本丸までの高低差は390mを誇り、

日本3大山城(岡山の備中松山城、岐阜の岩村城)の一つに数えられています


南北朝時代の南朝の土豪越智邦澄が元弘2年

(1332年)に築城したのが始まりと

伝わっています

天正8年(1580年)、織田信長の命により

大和国内の城は郡山城一城と定められた為

、一旦廃城となったが、

天正10年(1582年)、信長が本能寺の変で亡くなった後、天正12年(1584年)に

筒井順慶によって復興されました

その後、豊臣秀長の家臣本田氏によって

天正から慶長の頃(16世紀〜17世紀)に

近世城郭として完成しました


寛永17年(1640年)、譜代植村家政の

入場後は、植村の居城として

明治維新まで14代続きました


明治6年(1873年)に廃城令により廃城となり

全ての建物が取り壊されてましたが、

石垣などの遺構は人為的にはかいされることはなくほぼ完全な状態で残っています。


司馬遼太郎も著書「街道をゆく」において

「高取城は石垣しか残っていないが、

かえって蒼古としていい」と謳っています。




この看板に右側をみてもらってもわかるように、

すでに上り坂なのがわかります。









建物はないのですけれど、

やはり城壁は立派です。

しかし、道はこんな感じなのでしっかり

軽登山用の靴を履いています

私は、





















簡易トイレがありましたが、

自動販売機などはないので、

しっかり用意してきたほうが良いです。