emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

あせる2015年よりこちら へも投稿したりしていますあせる




2026年1月4日


「豊臣兄弟」始まりましたね


第1話 「二匹の猿」


1時間があっと言う間に

終わって初回順調!


父親が亡くなっていて、

藤吉郎(秀吉)も悪さをして村から

いなくなり、なんとか村から

苦しいながなも

追い出されずにいるという

状況なのだとわかりました


でも。家の広さからすると

今は落ちぶれているけれど

農民でも「上」の部類だそうです


中盤あたりから

タイトルにもあるように

「二匹の猿」登場、



豊臣秀長中野太賀

豊臣秀吉池松壮亮


この2人の話しがはじまるのですね


どんな2人になっていくのか?

楽しみ!



歴代の秀長と秀吉のコンビで

私が印象にあるのは


「おんな太閤記」での


秀長→中村雅俊

秀吉→西田敏行


のコンビが印象にあります


秀長はねねさんを陰から慕っている

感じでねねが子供ができないことや

秀吉の浮気などに気落ちしている時に

ねねを元気つけている素敵な役

だったんです

そんな秀長に「しの」という

元は播磨の百姓の娘を好きに

なるけれど秀吉は身分が違うと

猛反対を受けて「しの」は

播磨へ戻り、

別所長治率いる三木城の女中として

働くようになって兵糧攻めの影響で

失明して、落城した城の中で

2人は再会する










というなんか切ない話しだったん

ですよね


今回は秀長には「直」と「慶」という

2人の女性が関係しているようですが

どのように描かれるのか楽しみの

一つです


早速秀長の幼馴染の「直」との

初恋のような感じで描かれていて




昨年の大河ドラマは

「毎週見るぞ〜」

という気持ちを解放していた

1年でしたが、

主人と一緒にお城を巡った

関係のある場所だらけなので

「楽しみな1年にするぞ〜」


という2026年になりそうです❗️



なんて、ややこしい話をしていますが

やはり好きな戦国時代ものだ

というを話しています愛飛び出すハート




とも、秀吉は木下弥右衛門という父親

秀長、あさひは筑阿弥という父親と

言われていましたが


2026年の豊臣兄弟では

「全員父親が一緒」という設定だそうです


決めては

ともさんが後に「瑞龍寺」という寺を建てて

父親は「妙雲院殿」で1543年に亡くなったという

史料があるそうです

1543年にはあさひも生まれているので

一緒ではないかということみたいです


木下弥右衛門と筑阿弥に関しては

同一人物とも思われているとか


第1話から

小栗旬の織田信長のオーラが鋭過ぎて

痛かったです。






今回のドラマ館の一つの


「奈良」バージョンです











年末年始の長期休暇を楽しみにして

いて、あっという間に過ぎて

仕事も始まり、7日で七草粥


いつも買う七草セットがすっごく高い


2026年は恒例を破って





「新しい七草」


変えてみました!







セリ・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ

すずな・すずしろ


の七草に変わって上の定番の七草に近い系統の

馴染みある品種に変え、新しい七草を選定した

七草が入っているそうです



セリ→三つ葉

なずな→高菜

ごぎょう→春菊

はこべら→法蓮草

ほとけのざ→葉ごぼう

すずな→葉かぶ

すずしろ→葉大根



洗ってお粥に混ぜるだけ良いみたい

でしたが、サッと茹でちゃいました


お粥に混ぜて食べたのですが、


苦味とか癖がなく食べられましたよ




☝️そうだ、茶碗があったんだ


 使おう!




北野天満宮には関西に住むようになって
毎年行っています。

2025年の年末に行ったのですが
提灯をまだかけている途中でした。



転勤で九州に住んでいる時は
太宰府天満宮も良く行っていて
「梅ヶ枝餅」を食べるのが楽しみでした笑



👆初期のご朱印帳です👆



太宰府天満宮で御朱印帳買って
書いてもらおうとしたら、
2枚目に書き出して

その時

「伊勢神宮の内宮外宮のために
  2枚空けますがよろしいでしょうか?」

と聞かれたのでびっくりしました。

そうなんだ!

それならばと
それからは神社と
お寺のご朱印帳を
分けてもらうようにしています

後日談ですが
平成31年3月に伊勢神宮にて
書いてもらい、この太宰府天満宮の
御朱印帳を書いてもらって終わりました

思い出のご朱印帳です


菅原道真は「天満様」とか「天神様」とか
言われていて、受験の時には
天満宮に参詣しているのが
当たり前でした。


平安時代の貴族で学者ながら
右大臣までに昇進したけれど
「昌泰の変」で
九州太宰府に左遷され
そこで亡くなってしまい
怨霊となった人物と言われています

「怨霊」だなんて、何を持って
そう思ったのか、感じたのかは
菅原道真公に負い目を感じたからなので
ないかと思います

それを私は「学問の神様」と思っていたのが
「農耕の神(雷神)」をも祀っていた
「東蕗田天満社」で知って
不思議に思って色々と
「菅原道真」について
興味を持ちました









菅原家を遡ると土師氏が祖とされています
「土師氏」と言えば、
「土師器」「須恵器」というように
昔昔、教科書で習ったような名前

「土師器はじき


道明寺天満宮に行った時に

「土師」と出会って出自について知り、

後に北野天満宮へ行った時に境内の後ろに


菅原道真の

祖父、父を祀られているのを知り

祖先についても知ることができました














この窯の中には埴輪が見えます

古墳時代に
大王が亡くなると近習者は殉死
していたそうです
殉死なのか
全員が本意なのかは
わからないのですが…

人から埴輪を埋めるということになり
それを作っていたそうです。

それも廃り、生き残る道を見出して行った
行き先が「学問」だったのですね


そんな天満さんは「梅鉢紋」で、
私の実家も「梅鉢紋」ですが残念なことに
梅鉢紋の前に「丸に」がついて「丸に梅鉢紋」
なんです。
祖父の話では「福井」から来たようですが
関係があるやらないやら😆

そんなことで
関係がないかもしれないけれど
なんとなく親しみを持って
毎年の恒例として
「北野天満宮」に行かせてもらっています

「天満宮と私」でした










2025年から26年の年末年始は

9日間、長いお休みでした。


なので…


静岡と東京へと帰省できて

お墓参りにも行かことができたけれど

観光名所は無理かな?


と思っていたら


普段通らない中央道を通り、

少しだけ足を伸ばしてしまい

「恵林寺」で参拝ができましたラブラブ



​恵林寺②



武田信玄公墓所


武田不動尊をお祀りする明王殿の裏に

信玄公の墓所があります

1573年4月12日、53歳にて陣中において

病没

遺言に従って三年間その死を秘密にした後、

快川和尚を導師として恵林寺で葬儀が行われ

ました

現在でも、恵林寺では4月12日に

信玄公忌として毎年供養が行われています

信玄の墓所の後ろには

武田二十四将を含む武田家臣の供養塔が

約70基並んでいます




※以前は信玄公のお墓も撮影可能だったそうです

 情報ありがとうございます

 





恵林寺の本堂を回って

うぐいす廊下、冥歩禅を抜けると

武田信玄公墓所と柳沢吉保夫妻の墓所が

あり、柳沢吉保廟などがありました





こんな感じであるようです







柳沢吉保夫妻の墓


江戸時代中期、徳川5代将軍綱吉の側近で

大老格の地位にあった

甲府15万石藩主 柳沢美濃守吉保と正室定子の

墓で、はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と

真光院に建立されていたものであるが、

享保9年(1724)3月吉保嫡男甲斐守吉里の

時、奈良の大和郡山15万石に転出が決まり

この為同年4月12日恵林寺へ改葬された

ものである



柳沢吉保は自らの出自が甲斐源氏の一族、

武川衆であることを自負していたそうです

吉保の正室である(曽雌)定子の曽雌家も

武川衆の末裔とされています




武川衆というのを今回は初めて知ったので

色々と調べています

鎌倉時代甲斐源氏の棟梁・武田信義の嫡男で

ある一条忠頼に始まるとされていて

頼朝の粛清で忠頼が忙殺されて一時は没落した

とありますが、脈々と繋がっていたのですね

















この日は甲府に入れるとはおもわなかったので

近場の城攻めをしていましたが、

「恵林寺」の看板を見つけて

ここだけを見て帰りました。



「武田神社」も「甲府城」も次回に

お預かけです。



ランチは






恵林寺内にある「一休庵」で

ほうとうをいただきました


やはり「かぼちゃ」が入っていないとです




御朱印をいただきました









1月2日に東京から静岡に移動日


そうだ!


 「箱根駅伝」

往路の日ではないですか?


というわけで


東名道路を避けて、中央道で帰りました





これが本当に久しぶりで


すごい懐かしかった🎶



小仏トンネル


笹子トンネル


関東に住んでいる時は家族で

山梨にぶどう狩りで中央道を使って

いましたが、関西に転勤してからは

使うことがなくなっていて






本題・恵林寺へ




途中大月から新東名に抜けようと

思っていたけれど

主人から


「どうする?」


中央道を下って甲府まで行きました


久しぶり〜



「恵林寺」

乾徳山 恵林寺


甲州市塩山にあるお寺です







駐車場を目掛けていってしまったので

ゆっくりみられなかった


「四脚門」


赤い門の四脚門

恵林寺に多くある建造物の中で

古い時代のもの、唯一の遺構


とは言ってもこの赤門も

織田信長による焼き討ちの後

徳川家康によって1606年に再建された

当時のもので、重要文化財に指定




                                       パンフレットより



恵林寺は臨済宗妙心寺派の名刹

元徳2年(1330)に甲斐牧ノ庄の

地頭職をつとめていた

二階堂出羽守貞藤

(道号は道蘊)が、夢窓国師を招き

自邸を禅院とし創建しました





 




👆奥の庭の

     二階堂道蘊の供養塔


武田信玄の尊敬を受けた美濃(崇福寺)から

快川紹喜和尚を迎えて、永禄7年(1564)には

信玄自ら自領を寄進し、当山を菩提寺と定め

ました

天正4年(1576)

遺言通り3年間の秘喪の後、武田勝頼は

快川を大導師のもと、信玄の盛大な

葬儀を厳修しました


天正10年(1582)3月、

勝頼は天目山で自刃、甲斐武田氏は滅亡


同4月3日、

恵林寺は織田信長の焼き討ちにあい

快川国師は


「安禅必ずしも山水を須いず、

  心頭滅却すれば火も自ら涼し」


と言葉を残し、百人以上とも言われる

僧侶等とともに火に包まれました



歴史をみながら新たに

発見もありますよね


快川和尚は美濃国の出身で

俗姓は土岐氏だったそうです

(別説もある)


美濃崇福寺から快川を迎えた

と書いてありましたが

その頃に織田信長は美濃攻略を進めて

いて羽柴秀吉が斉藤龍興の家臣たちを

織田方へと引き入れる工作などをして

完全に美濃を平定する前段階だった

ようです


また、織田信長は武田信玄へと

手紙などをおくっているようなので

何かありますよね


愛うふふふ飛び出すハート


面白いなぁ


こんなことを調べていると

1日があっと言う間にすぎちゃいます

































京都のお庭を拝見しているようで

とても素敵でした


京都はたくさんの人がいてゆっくりみられ

ないですからね












👇この先からは写真が撮れないのですが












この先は鳴らさないように歩いても

音が鳴ってしまう廊下


「うぐいす廊下」


あります


庭でも小鳥の声が聞こえますが

廊下でも小鳥が鳴いているのかと思うくらい

可愛い音(鳴き声)がして

びっくりしました


その突き当たりの右側には

生前の武田信玄の姿を写したと

伝えられる武田不動尊

ありました





不動尊(不動明王)を目の前にして

伊達政宗が梵天丸と言われていた時に

その不動明王を前にして

かの大河ドラマでの一言

「梵天丸もかくありたい」と

不動明王のように

「外(敵)には厳しく

内(領民)には慈悲深くありたい」

という

ことで言ったことを 

思いだしました。


その虎哉宗乙禅師は

快川国師の弟子の1人だったのですね


突き当たってから帰ろうとすると


「冥歩禅」


を通って次への

庭園にいきました



「冥歩禅」とは


真っ暗な闇の中を歩くんです

まぁ、ちゃんと壁を触っていけば

導かれて外へ出られるにしても

やはり闇は怖い😱です😆


修行が足りませんガーン



続く