emitandyのお城、古墳・歴史大好きブログ

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歴史好きで寺社仏閣、行き先々で発見してはブログにup中。

あせる2015年よりこちら へも投稿したりしていますあせる




豊臣兄弟で「播磨編」というと

菅田将暉の「竹中半兵衛」が

亡くなってしまうんですよね


と思いながら


第23回「さらば、半兵衛」でした😭



本編では



天正6年、安芸吉田郡山城では


毛利輝元、吉川元春、小早川隆景、安国寺恵瓊、


そして宇喜多直家で軍議を行なっていました



宇喜多直家が恵瓊に


「恵瓊殿、荒木村重の調略お見事でございます」


「今こそ一気に上洛して天下をつかむべき」と

進言しても


「そこに大義はあるのか?」


毛利はあくまでも摂津、播磨の国衆を救う

ためだと自らは動かないようです


「わしから言わせれば、家臣に裏切られるなど

 愚の骨頂、力にまかせ真の信を得ておらぬから

 そうなる」


「裏切られる者が 

       まぬけなのじゃ」



と言い放ちました




荒木村重には直々に「明智光秀」が

説得しにきているけれど

光秀は反対に村重から


「そなたも足を踏み外さないよう

  せいぜい気ぃつけるこっちな」


と言霊が光秀へと投げられましたね😱




秀吉が播磨へ赴く以前は村重が播磨の

交渉役だったので、小寺官兵衛が村重の

説得に行くと言い出すしまい


それを止める半兵衛


必死に「行ってはならん」と叫んでも

半兵衛を振り切ってまでも

官兵衛は荒木村重の有岡城へと

行ってしまう


そして生きたまま牢へとつながれて

しまうのですね



噂は「小寺官兵衛は寝返った」と

流される



疑心暗鬼になる秀吉の陣内




信長からは「人質の松寿丸を殺せ」


※松寿丸とは小寺官兵衛の息子


半兵衛が松寿丸を匿うふりして始末というので

一時期長浜へと向う


そこで長浜城で留守を守る女子軍団との

戦いです

竹中半兵衛との最初に秀吉、秀長、蜂須賀と

三人で出迎えに行った時には

戸を開けると矢がとんできて生死に関わるほどの

仕掛けされていました😆


でも女子軍団の仕掛けは

亀、毬栗、上から着物が落ちてきたり、

笑っちゃう仕掛けばかりでした😆😆





まさかの槍が出てきたけれど

全然固定されていないから😆😆😆




そしてまさかの「慶」の陣痛が始まって

休戦!



半兵衛も出産後の赤ちゃんを抱いて

しまって、その手では殺せないと

降参!


「松寿丸」は当初の作戦で

菩提山城で匿うことにしました



織田信長の面前には身代わりを立てた

首をおいて最後の挨拶

信長は絶対わかっていたよね


泣ける〜まだまだ生きていたかった

だろうに😭




そして、大好き戦、陣中で

最後まで作戦を考えている半兵衛





























こんな感じで見えるんですよね


最後、半兵衛が通ってきたところは


「大閤道」を登ってここに辿りついて

戦況を見たのだと思う←勝手に想像😆






そんな感じがしたんですよね😅




「風向きを変えたい」



という半兵衛の気持ちが通じたのか



宇喜多直家が織田方に寝返ったという

知らせがあり、


喜ぶみんなを見つめながら


「死にとうない」



凄い演技だ〜












追記:



宇喜多直家が


「裏切られる者が 

       まぬけなのじゃ」


と毛利輝元へ返す!





播磨攻めで竹中半兵衛が布石


「生野銀山」を攻略!が効いたようですね



いよいよ来週は「三木城と有岡城」の話しです
































鳥取の鹿野城下にある


「幸盛寺」には

一緒に上月城に入った


尼子十勇士の1人

「日野五郎」の五輪塔もありました






鳥取県サイトでは
この日野五郎→「日野衆」についても
書いてあります

「日野衆」は
室町時代から戦国時代にかけて
伯耆の国一帯を支配していた国衆

主に日野山名、日野氏、進氏、原氏、蜂塚氏
などと言われています

天正6年7月5日、上月城落城後に
吉川元春、小早川隆景、口羽春良、宍戸隆家から

日野五郎、立原久綱、山中鹿介に起請文が
あります

落城時には日野五郎→日野衆も尼子軍として
行動をともにしていて、尼子軍の中では重要な
立場であったとも言えます

毛利軍は上月城落城の条件として
尼子勝久の自刃、山中鹿介については人質
他は敵対しないものに関しては許されています
亀井茲矩に仕えて行きます。

その後、
亀井茲矩が秀吉の命で朝鮮出兵しますが、
その間に日野五郎は反乱を起こし、
神社仏閣などを破壊してしまいます
翌年帰国した茲矩は反乱を鎮圧
捕縛、その後処刑されたと伝わります

日野五郎は秋上宗信と同一人物であると
いう説もあるようで
秋上宗信はやはり尼子氏家臣の1人でもあり
尼子十勇士の1人
「秋宅庵助(あきのやあんすけ)」のモデルと
される人物ともなっています

上月城で買った資料本👇










上月城の遺構が残る城跡の

登山口に

上月歴史資料館があります











ここで上月城の合戦の


天正5年11月下旬に

上月城を2、3周に囲んで「水の手」をも抑えられて

城側は講和を持ちかける

という記述もあり

まさしく大河ドラマ「豊臣兄弟」では

「竹田城」を落とすときにこの手を使っていたなと

思ったのでここをヒントにしたのかな?















☝️




👆



やはり「山中鹿介」は外せないよね


「尼子再興」



「黒田官兵衛」では別所哲也さんが「山中鹿介」を

演じていらしゃってとても

熱い山中鹿介だったし、

やはり大河ドラマの「毛利元就」では

「山田純大」さんが演じられていました








「尼子再興」の拠点となるべき

ところだったからね

尼子再興を願って集まった者たちも多かった

けれど、

尼子勝久の自刃、

山中鹿介(幸盛)は囚われて

護送中に誅殺されてしまった



「亀井茲矩」も尼子再興を願っていた1人で

上月城が落城した時には秀吉の陣側にいたので

助かっています

この後の鳥取城攻めで活躍し、

「鹿野城」の城主になっています


そこで城中で落ち延びたもので

「亀井茲矩」のもとに入ったものも

多数いたとか言われています


「鹿野城」城下には「幸盛寺」というのが

あって、そこには「山中鹿介」の

墓がありました
























日差しが眩しくって正面からではよく

わからなかったのですが

入口に「伯爵亀池家」

「男爵鴻池家」とありましたね


なぜかは👇のブログ





天正9年(1581)、鹿野城主となり、

山中鹿介(幸盛)との縁は深く、

尼子氏再興のため、ともに奮闘し

のちには山中鹿介(幸盛)の養女を娶る

とあります


義父である山中鹿介の菩提を弔うため、

備中高梁より遺骨を移し、

文禄元年(1592)「明照山持西寺」を

現在の位置に移し

「鹿野山幸盛寺」を建立したものである





























第21話から


第6章に入っていよいよ「播磨攻略編」へと

突入した「豊臣兄弟」!



第5章「近江長浜編」を展開していて、

信長の「元亀騒乱」の中で

元亀元年から天正初年頃にかけてに

起こった織田信長と反信長勢力との

一連の戦い指しています

秀吉、秀長兄弟の関わりを

描いていたように思います


現在言われている事では秀長が資料的に

登場するのは秀吉が「長浜城」を与えられて

からの話しなので、

ようやく「第6章」の足取りも少し描きやすい

のかな?と楽しみにしていました




荒木村重は「有岡城跡」









「三木城跡」と「秀吉本陣跡」




秀吉本陣跡2018年



秀吉本陣跡(2023年)




加古川城趾






第21話の「風雲!竹田城」

では播磨ではないですけれど「但馬」攻略


宮部継潤が

「太田垣の身柄は山名氏がおられる

有子山(城)まで送り届けました」





出石城





第22話「播磨の大誤算」では


「上月城の戦い」が描かれていました



上月城










上月城は播磨・備前・美作三国の境界に位置する要衝


第21話の最後に秀吉が

「尼子勝久様と山中幸盛(鹿介)斬首され、磷付されて

西の境界に晒された」

いう噂を聞いたと前野から秀長は知らされました


このあたりは大河ドラマ「黒田官兵衛」では

細かく描かれています


天正5年織田信長は毛利氏攻めのため、

羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、

毛利に与した「福原城」を竹中半兵衛と

黒田官兵衛とで「福原城」を攻略し、

秀吉は「高倉山」に本陣を置き、上月城を包囲し

救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、

12月3日に落城、赤松政範は自刃した

見せしめのため城中の女子、子供のころを串刺し、

磷にして備前・美作・播磨の国境付近に晒した


この後上月城を尼子勝久、山中幸盛(鹿介)に

守らした、しかし一時期宇喜多勢に撤退し、

上月城を「上月景貞」に守らしたが

また秀吉軍は上月景貞は敗退して取り返し、

再び尼子勝久・山中幸盛(鹿介)を

入れた





実は黒田官兵衛の妻・光の姉はこの

上月景貞に嫁いでいて「合婿」同士だった

のですね


大河ドラマ「黒田官兵衛」では取り上げられています

またこの上月景貞役として

「豊臣兄弟」では宮部継潤役で出ている

ドンペイさんが演じられていました




上月城に入った尼子勝久・山中鹿介は月山富田城を

奪われ、転々と「尼子再興」を願って

戦ってきています


「尼子勝久」は尼子経久の次男で国久(新宮党)の

孫に当たります


ここで尼子再興を願っている者たちを呼び寄せて

入城したようです


しかしこの播磨平定までは「元亀騒乱」以上に

難しい問題が沢山で


織田に与すると言っていた「三木城」城主

別所長治が毛利方へ

そして荒木村重も毛利へと

寝返ってしまった

ので、秀吉も「三木城」を攻撃して

食い止めなければいけない状態になります


三木城には紀州(海)から雑賀衆などが

毛利方を支援し、「三木城」も

食料、武器など確保できた

こともあり、

毛利方に寝返ったこともあると

思います

色々と「加古川評定」や秀吉の態度とか

諸々な要因があるかと思いますが

やはりここは☝️の毛利さえ来てくれれば

持ち堪えらると判断したからでしょう


秀吉がとった包囲網は

一つ一つ消していきます

二重に三重にと孤立させていくんです

これは「三木市立みき歴史資料館」で

聞いた話ですが


とてもわかりやすく説明してもいただけ

ました



ここを毛利は拠点とすれば西国街道を通じて

京都への足がかりになるし、

「三木」から日本海側へとも繋がり、

但馬への交通ルートが確保できるとても

重要な場所だったのです


織田対毛利とはいえ、

やはり「大坂本願寺」がどちらにつくかが

問題でもあったのですね


「比叡山」については触れていますが

「大坂本願寺」には全く触れていないので

何もかも一概には語れないところが

あるように思います



続く…



上月城跡に行ってきました

歴史資料館にも行ってきました!
























「近江路」で大谷刑部吉継のことを書いていたら

そういえば

関ヶ原で大谷刑部のお墓の近くに

「平塚為広」の碑があったのを

思い出しました











垂井城主(不破郡垂井町)の平塚為広は、

盟友・大谷吉継の配下として北陸方面を転戦した後、

戸田勝茂とともに約600の兵で②藤川台👇に布陣した

病を得ていた吉継に代わり前線の指揮を託されたといい

藤堂高虎・京極高知らを相手に善戦した

正午頃、小早川秀秋が寝返ると、

吉継とともにこれを追い返すが

脇坂安治らも寝返ったため支えきれず

吉継に③辞世の句を送って討ち死にした


碑は、昭和15年(1940)に④子孫が建立したもの






②藤川台




藤古川(関の藤川)の右岸に位置している

この川岸の上を藤川台と称す

地形が平で、やや高い所からその名があります

ここに大谷吉継、戸田重政、平塚為広等が布陣し、

小早川隊等との壮絶な死闘を展開しました



①垂井城





明確な遺構がないために正確な位置は不明だが

文献や地形などから「専精寺境内」が所在地に

比定されており、案内板と石碑がたっている


慶長5年(1600)に平塚為広が垂井領1万2千石で

入封すると、垂井城を居城として整備拡張したと

思われるが、同年関ヶ原の戦いで為広が討死したため廃城になる






③辞世の句


名の為に(君が為)捨つる命は惜しからじ

  遂にとまらぬ 憂世と思へば


それに対して


大谷吉継の返句は


契りあらば 六つの巷に待て暫し

  おくれ先たつ事はありとも




④子孫が建立


平塚為広の碑は平塚家8代為忠の次男で

評論家・女性解放運動家として有名な

平塚らいてうの父である平塚定二郎に

よリ建立された




大谷吉継は石田三成との繋がりばかりが

大河ドラマでは見られがちですが、

大谷吉継と平塚為広の間の「義」もまた

「義」なんですね


石田三成から徳川との戦を聞いた時に

反対していた2人でしたが、

結局佐和山に行って、参戦を引き受けたとか



実際にこの返句が平塚為広に届いたのかは

定かではないけれど、

同じ想いだった事でしょう


近年は石田三成と大谷吉継の立場が違うのでは

ないか?ということも聞いた事がありますが、

それは別として、もし今後「石田三成」が

大河ドラマになるのならばどういうことに

なるのかな?


見たいような、見たくないような少し

複雑な気持ちです