花見の夜。友人と酒を飲みながら、推し活の話になった。切り出したのは「推し活理解できない派」の女子1名。その場にいる残り3人は程度の差はあれ「推し活容認派」というか、まさに当事者である。そして私はこんなブログを17年も書きつづけ、推しという言葉が生まれる前から推しの存在及び推しのある生活に救われてきたタイプの人間であり、否定されることは生き方を否定されることとイコールである。つまり、負ける訳にはいかないのである!
推し活否定派の彼女の言い分をまとめると、推しもいち人間だろという主張だった。つまり、限りなく小さな可能性ではあるとしても、推しがもし目の前に現れて今晩どう?とか迫られたらいくだろうと。それで夫(彼氏)との愛とは別物だというのが納得出来ない、ということらしい。
あのね、
もうね、
ここから相容れないわけである。
いや、そりゃ誘われたらさ…
行くけどさ?(行かせてくれよ)
行くけどさぁ……大前提、誘われないんですよ。そこの視点はまじでないんですよ。と返せば
推しを神格化し過ぎなんだという。推しだってひとりの人間で、影で何してるか分からないもの。ばったり会ったら今からホテル行こうってなるかもしれん。そしたら行くやろ絶対って
だから、
そこの可能性を踏まえてないんですって我々は
(どんだけワンナイトさせたいんや君は)
(あと絶対行きます行かせてください怒)
個人的な意見を書きますがね、推しを神格化しているのはまさに推し活否定派なのだなぁと思いました。推しは神格化されるものだと思いこんでいるから、誰かと比べる視点が出てくる。推しとパートナー天秤にかけ、大概推しを大事にするものなのだ、というふうに誤解する。
推し活してる者は推しを神格化などしていない。きちんと人間として見ている。だから好きになるんだと思う。違うなと思えば離れることもある。パートナーとは違う種類の「好き」がそこにあるのは確かだが、熱量に差があるかというとそうでも無いと思ってる。どちらも変わらず大切なもの。そこに天秤は存在していない。推し活否定派の人には見えない世界かもしれないが、実際推し活している界隈に私生活が充実している方は多い。私の周りにも、優しいご主人がいてお子様がいて、働いたお金で推しに会いに行って、また日常に戻る、という方が非常に多い。無論、私もである。
勿論見境なくなってしまった過激な人もいると思う。それは論外として、私の場合は同じ時代に生きて毎日エンタメを届けてくれてありがとうという気持ちでいる。あなたの歌が、作品が、リアルタイムで届くことが幸せ。歴史上の人物みたいに会えないわけでなく、時々生の姿が拝見できて、同じ時間を過ごせることが奇跡。ただそれだけなんである。結論、バランスの保たれた推し活をしている人はどちらかというと博愛主義ではないかと思っている。推し活否定派にはそこをお伝えしたい。
そもそも、推しが妙齢の異性と思い込んでいるあたりも危うい。私の推しは女性だっているし最高齢は今年90歳になられる。ホテルホテル言われるのはまじで話がちがうのだ。推しに会えたらそりゃ嬉しい。でもそこはまるで想定していない。どちらかというと、同じ気持ちで推してる仲間に出会いたい。20年前はそれが簡単に出来る時代ではなかったんだ。音楽誌やホームページを見るしかできなかったし、マイナーなミュージシャンについてはこの音楽を聴いてるのは今私だけではないのか?という錯覚に陥るけれど、ライブハウスに行けば同士が沢山いて嬉しかった。それがスマホで出来るようになったという変化。好きなものを好きだと言って共感してくれる存在がいる。SNSを通じて本人に届くことだってある。それが現在の推し活ブームの根幹なのだと私は思っているし、そこには愛があると思う。ええやん。素敵やん。俺そんなんめちゃめちゃ好きやねん(紳助)
結局このふたつの派閥が相容れることはなかったが(そらそう)今回は全員が穏やかな性格だったのでやんわり終了した。しかしこんな討論が始まってしまえば朝まで生テレビのごとく白熱し友情も破滅する恐れがあるので決してオススメしません。でも私は曲げないし、声を大にして言いたい。推しがいる生活最高。推し、今日も生きていてくれてありがとう。