飛鳥の古刹寺院を訪ねる その1 ─ 川原寺 弘福寺 ─ | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

 

このブログではこれまで“南都七大寺”を掘り下げ、平城京でかつて威容を誇っていた寺社を取り上げております。
しかし、小生は平城京 ─ 今の奈良市の寺院だけではなく、平城京の前の都であった飛鳥へもよく足を運んだものでした。

ご存知の通り昔の奈良市は、日本の首都でありました。奈良の仏教寺院を語ることは、その時代の日本の歴史そのものを語ることでもあります。そして、歴史とは連続してつながっているもの。奈良の寺院の歴史を語るには、その前史である飛鳥の仏教寺院のことも語らなくてはなりません。
そのために、奈良市の仏教寺院を知るために、飛鳥の仏教寺院へもよく足を運んだのでした。

今回、この時期に飛鳥の寺院について日記に書こうと思ったのは、ちょうど一年前の今ごろに、アメンバーのスカーレットさんと飛鳥のことを話していたことを思い出したからです。
飛鳥時代を題材にした里中満智子のまんが『天上の虹』のことを8月25日のこの日記で書いて、スカーレットさんが飛鳥に興味を持って「飛鳥に行ってみたい」みたいなことを書かれたのです。
それで小生も「飛鳥の仏教寺院のことを紹介しますよ~」なんて話もしていたのですが、その後実際に参拝をしながらも、結局は飛鳥のお寺の紹介はこちらの日記では書かずじまい。スカーレットさんも秋に飛鳥へ旅行をされることはなかったとのこと。
それから一年になりますが、今さらとは思いながらも、遅ればせながら飛鳥の仏教寺院を紹介すると言った約束をここで果たそうと思ったのであります。

第一弾としてこの日記で紹介する飛鳥のお寺は川原寺です。
近鉄電車から石舞台古墳方面へ、県道155号を東へ行くと、明日香村役場前の手前に、川原寺の旧伽藍跡が広場となっています。ここは国史跡の指定を受けています。

 


この日記では平成23年6月8日と、同年10月9日に訪れた時の模様を、同じ時に撮った写真と合わせて紹介します。天候が曇りの方が6月8日、晴天の方が10月9日の写真です。
幅の広い県道に面している国史跡川原寺跡は、広大な芝生公園の様相を呈していました。明日香村のHPによると、川原寺跡の広さは約7万4千平方メートル、これは甲子園球場の約2倍。広々とした子供の頃、明日香村に遠足に来た時に、ここでお弁当を食べた記憶が残っています。

 


昭和32~35(1957~60)年にかけて行われた発掘調査によって伽藍配置が確かめられ、現在は建物跡に礎石を象った樹脂製の疑石を置き、古代の川原寺の姿がわかるように整備された史跡公園となっているのです。

 


川原寺は『川原寺式伽藍配置』と呼ばれる伽藍配置となっています。北側に講堂とその三面を僧坊が囲むという寺院は白鳳以後に多く見ることが出来ますが、その南の主要伽藍が中央に中金堂とその南に西に西金堂、東に塔という配置で、『川原寺式』と言いながら、他に例が無い、川原寺だけにしか見ることが出来ない独特の伽藍配置となっているのです。

 

 

 


川原寺冊子より

 


そしてこの伽藍配置は、三金堂に東に一基の塔を持つ、平城京の興福寺に比較的類似しているのです。川原寺の異名の『弘福寺』(ぐふくじ)が興福寺と似通っていることも含めて注目されます。

 

 
 西金堂跡                                 塔跡


ここまで紹介しても、飛鳥の川原寺がいかに大規模な寺院であったかを知ることが出来ます。平成15(2003)年に寺域の北限が確定すると、南北3町(約333メートル)という、とほうもない規模であったことが確かめられ、かつて本薬師寺、大官大寺、飛鳥寺と共に『飛鳥四大寺』と称されていた、飛鳥京に威容を誇った大寺院であったことがはっきりしたのです。

 


川原寺跡北側 東僧坊跡(手前)と講堂跡(奥)


しかし、これだけの大寺院でありながら、その創建は謎だらけで、そしてまるでかつての繁栄が幻であったかのように衰退してしまった、始まりも終わりも漠然としているミステリアスな寺院なのです。
まず、川原寺がいつ誰の手によって建てられたかですが、正史にはまったく記録が無いのです。川原寺に関する記録の初見は日本書紀の孝徳記の白雉4(653)年6月の記事で、「渡来僧・旻が世を去った時、天皇は画工に仏菩薩像を作らしめ、川原寺に安置した」とありますが、注釈に「或本云。在山田寺」と書かれており、書紀の編纂の時期にはすでに、川原寺か山田寺かあやふやになっているのです。
現在の研究者の間で確かな川原寺の記録の最初とされているのが、同じ日本書紀の天武2年3月「天皇、書生(写経生)を集めて、一切経の写経を始めて川原寺で行われた」と、その創建の経緯の説明も無く唐突にこの記事が出て来るのです。
そして、その後も天武記には、川原寺での仏事・法要に関する記事がたびたび見られるようになり、天武天皇の時代には川原寺は公的な仏教行事の拠点として位置づけられていたようです。

現在は天智・天武天皇の母である斉明天皇の宮であったとされる『飛鳥川原宮』を、天皇崩御後、寺院として造営され直されたという説が有力となっていますが、それが天智天皇(中大兄皇子)の手によるものか、天武天皇の代になってからなのか、あるいはその間の弘文天皇の時代に建てられたのか、学説は多くありますが、正史は一切何も伝えていません。
川原寺の最大の謎は誰がどうして川原寺を建てたかというよりも、なぜこれだけの重要な大寺なのに建立の経緯が記録されていないのかということです。まるで、その創建のいきさつが何か意図的な理由によって消されてしまったかのような、どこか嫌な印象が残る謎です。

ここまで西金堂・塔・講堂・僧坊跡を紹介しましたが、いずれも芝草が生える土壇か、復元された基壇がかつての大伽藍を偲ばせますが、その古代の大寺院、川原寺の中心をなした中金堂跡には、現在は建物が建っています。『真言宗豊山派 仏陀山 弘福寺』という、江戸時代創建の真言宗のお寺です。

川原寺は平安時代と鎌倉時代に二度焼失しと再建を繰り返しましたが、三度目の室町時代の焼失後再建されず、この時川原寺は一度絶えてしまいます。
現在のお寺である『仏陀山 弘福寺』は、古代の弘福寺と寺号は同じで、古代の旧中金堂跡に建ってはいますが、江戸時代に創建された古代の川原寺とは直接のつながりが無い寺院です。

 


川原寺へは平成23年の6月9日と10月9日の2回訪れていると書きましたが、2回も訪れたのには理由がありました。
それは、この仏陀山 弘福寺が参拝客に解放されているのが、土・日・祝に限定されていたからだったのです。最初に訪問をした6月9日は水曜日だったので、ちゃんと参拝が出来ず、「次は週末に出直そう」と、日曜日である10月9日に2度目の訪問をさせてもらったのでした。この10月9日はこのブログの去年10月14日の日記で紹介しました、明日香村・天武・持統天皇檜隈大内陵での陵前法要の日で、その法要に合わせて川原寺も訪れたのでした。

 


門から見て正面に建っている寄棟造りのお堂が、現在の弘福寺本堂で、その右手にある宝形造りのお堂が弘法大師を祀る大師堂となっています。小生も塔・西金堂跡の間を通り抜けて、現在の弘福寺にお邪魔しました。
門をくぐって右手には大師堂。お堂の前には秋らしくコスモスの花が咲いていました。

 

 


秋に川原寺を訪れたのは「川原寺跡はコスモスの花の名所」という情報を拾っていたこともあったのです。広大な川原寺跡で一面ののコスモスなんて風景を想像したりして楽しみにして来たのですが、川原寺跡でコスモスの花を愛でられたのはここだけ。ちょっと残念でありました。

 


そして、門に向かってに正面に建っているのが弘福寺本堂です。庭先に見える礎石は、有名な白大理石(寺伝ではメノウ)で、かつては大陸風の豪華な仏殿が威容を誇っていたことをうかがうことが出来ます。
 


 

本尊は木造十一面観音菩薩立像で、それと四天王の二天である多聞天像と持国天像、十二新神将像は平安時代初期に造像された仏像。特に二天像は空海の作と伝えられ国の重要文化財に指定されています。見たところ仏さまの状態は決して良いとは言えませんでしたが、江戸時代に創建されたこのお寺で、このような古い時代の仏像に出会えるあたりは、飛鳥という場所の奥深さだと思います。

 

 

(左)本尊十一面観音 (右)多聞天・持国天像  画像引用:川原寺パンフレット

 

この時、本堂の説明をしていただいたのが、住職の扇谷弘尚師。今だから言いますが、この時に川原寺に参拝するにあたって事前にインターネットで川原寺に関して調べたのですが、その中に扇谷住職に関して書かれたサイトもあって、この方はかなりの個性的な名物住職さんなのです。そのアクの強さにネット上に悪い評判を書かれている人もいて、今回扇谷住職とお会いする機会ということで、どうなるのか正直ちょっと心配だったのです。
川原寺は住職が在寺の時だけ開扉されるということで、やはり土日祝の日中に参拝するのが確実ではありますが、小生が参拝した時には住職の他、ご夫婦で来られていた参拝者も一緒になりました。そこでの扇谷住職はとても多弁な方で、小生とそのご夫妻は住職のおしゃべりにずっと聞き入っていました。
関西人ならわかると思いますが、関西人のおしゃべりにはお笑いのノリがつきもので、そのノリには毒のあるユーモアが多いのです。扇谷住職は関西のそういうユーモアのノリがわかると、とても面白い方なのです。実際この時も住職の話を聞きながら3人で大爆笑させていただきました。

扇谷住職のことについては、このブログの読者でmixiの時からお付き合いのある『地蔵十福』さんも何度か書かれておられまして…
前に書かせてもらいましたが、扇谷住職と初めてお会いした時は、その個性に圧倒され、かなり戸惑ってしまいました。
しかし、その後、何度かお会いしているうちに、その人柄が分かり、今では僕が気を遣わないで話が出来る大切な存在になっています。
地蔵十福さんブログ『古都の寺院の隠された真実を求めて』より ⇒http://ameblo.jp/tf5efqy/entry-11364493268.html


川原寺弘福寺のことは小生はかつてmixiでも紹介をしていまして、地蔵十福さんはそのmixiにアップした記事から扇谷住職のことを知って、最初は不安いっぱいでお会いしたそうです。しかし、その後はとても昵懇にされておられるというお話で、本当の人柄を知るとその魅力がわかる、扇谷住職とはそういう方なのです。

古代の川原寺は室町時代に一度絶えているので、今の弘福寺は江戸時代創建の決して古い歴史の寺院ではありません。しかし、かつての川原寺も真言宗の寺、それも真言宗開祖の空海との関わりも深い重要な場所でありました。
元は朝廷が国家安泰の寺院だったのですが、平城遷都後、飛鳥に取り残された川原寺は奈良時代以後急速に衰退し、官寺としての権威も領地であった墾田も失われてしまいました。官寺として維持しきれない時代を迎えるのです。そのような時代を迎えて川原寺が取った道は、平安初期に台頭した真言宗の寺院として再生することでした。

川原寺はその後、京都東寺の末寺となり、旧都飛鳥においての真言宗の拠点となるのです。その時代の飛鳥京は、京都と高野山とを結ぶ交通の拠点であり、弘法大師空海も、京都と高野山との道中で、川原寺を宿所にしたことが記録にあります。
現在の弘福寺は古代の川原寺とは直接のつながりが無い寺院です。
しかしこのような貴重な仏像が安置されているあたり、やはり旧京飛鳥の真言宗の拠点であったという重要性を物語っていると思われます
中世と同じ真言宗の寺院であることは、当時の信仰を信徒と共に受け継いでいたのかも知れません。

本堂の諸仏を拝観し、扇谷住職の爆笑法話を聞かせていただいた後、本堂を出た小生はここでもう一つの楽しみにしていた目的を果たしに向かいました。この弘福寺の中にはある、お食事処『花つばき』で食事をすることです。

 


この花つばきはガイド本などにも載っている飛鳥の名物の一つで、土日祝のみの営業。6月に行った時も楽しみにしていたのですが、ガラス戸が締まっていて、入ることも出来なかったのです。

 

 


この時のことが残念で、花つばきで食事することは、川原寺へ10月に行き直した大きな理由の一つでありました。
中に入るとさっそく、名物の麦とろ御膳を注文しました。

 


卵を落とした麦とろの他、川魚の甘露煮、野菜の炊き合わせ、きゅうりの酢の物、お味噌汁と野菜たっぷりの御膳となっていました。いわゆる精進料理系のご飯でした。

 


しかし、食事より何よりも贅沢と感じたのは、窓の外に広がる、講堂跡の光景でした。こんな風景を眺めながらの食事は、ここでないと出来ません。1400年もの昔の風を肌で感じられる、どんな高級店でも得られないリッチさがそこにはあったのです。

 

 

よく知っていたようで、初めて知ることの多かったのが、この時の川原寺跡でした。京都や奈良の市街地の寺院には無い、そっけなさの中に深さがある、それが飛鳥の寺院だったのだと思います。

飛鳥の古刹寺院を訪ねる その2につづく。


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