飛鳥の古刹寺院を訪ねる その2 ─ 橘寺 ─ | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
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飛鳥の古刹寺院を訪ねる その1 ─ 川原寺 弘福寺 ─からつづきです。

 

 

今回は23日から書き始めました『飛鳥の古刹寺院を訪ねる』のつづき、第二弾は橘寺です。
最初に取り上げたのは川原寺でしたが、その川原寺跡に立って南方向に目を向けると…

 

 

 


目の前に、まるで砦のように岡の上に伽藍を構えているのが、今回紹介する橘寺です。橘寺は川原寺のすぐ南側に位置する寺院で、飛鳥時代に確実に歴史をさかのぼれる由緒ある古刹です。

 

 

 

 

 


今回の日記で紹介する橘寺ですが、小生が参拝したのは11月24日。このブログで11月28日の日記で紹介しました『飛鳥京跡苑池』の発掘遺跡の現地説明会に飛鳥に出掛けた折に、現地説明会の合間に、遺跡とは目と鼻の先の橘寺にちょこっと足を運んだのです。
東西にわたっている橘寺は、入口も東門と西門の二カ所となっています。小生は飛鳥京苑池の発掘遺跡から行ったので、飛鳥川と県道188号線とが交差するあたりから南向きに橘寺に向かう道がある、東門から橘寺に参拝しました。
門をくぐると、境内の中を奥まで貫けている参道が、西の端の本堂まで見渡せました。11月の境内の中は、鮮やかな秋色にすっかり染まっていました。

 

 

 

 

 


参道を進むと、すぐ右側に境内図の看板がありました。現在の橘寺だけではなく、古代の橘寺の伽藍配置も赤で描いていて、一目でわかる図となっていました。

 

 

 

 

 


橘寺は昭和28年から繰り返し行われた発掘調査によって、その伽藍配置が確かめられました。旧主要伽藍は、今の橘寺の境内ほぼいっぱいにあったと確認され、東から中門・塔・金堂・講堂と東西一列に並んでおり、回廊が巡らされていたのです。
この看板では回廊が講堂と横でつながっているように描かれていて、この伽藍配置は『四天王寺式』と言われるものですが、実は回廊が講堂まで達していたのか、それとも講堂前で塔と金堂だけを囲う形で閉じていたのか、未だにはっきりしていないとのこと。
もしも講堂が回廊の外側に位置していたのであれば、『山田寺式』と言われる伽藍配置だったことになります。

 

 

 

 

 

 

 

 


飛鳥資料館ジオラマ 画像参照:
http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/asukakyoato.htm

 


看板の伽藍図で赤で塔があったと示されている場所には、若草伽藍の塔の心礎が創建当時の遺構として今に残されています。飛鳥時代にはここに五重塔がそびえ立っていたのです。

 

 

 

 

 


前に紹介しました川原寺が創建の記録が正史に無いのと同様に、この橘寺についてもいつ誰がどのように創建したかまったく記録がありません。正史に橘寺について最初に見られるのは、日本書紀・天武天皇9(680)年4月の記事で「橘寺尼房失火、以焚十房」という火災に関するもの。この記事から天武天皇の時代には尼寺であったことがうかがえます。
このことから川原寺創建時に、尼寺として併設されたのではという説も有力ですが、しかし四天王寺式や山田寺式の伽藍配置は6世紀後半から7世紀前半の古い寺院に見られる伽藍形式。金堂が伽藍の中心にある川原寺よりも古い時代ではないかと思われます。
それを裏付けるように、発掘調査によって出土した瓦は、そのほとんどが川原寺と同じ7世紀後半なのですが、天智・天武天皇以前の7世紀前半の瓦も出土しているのです。川原寺創建前に前身となる寺院が存在し、川原寺が建立された時に橘寺は尼寺として整備し直されたと見るのが妥当ではないかと思われます。

以上が正史から見る橘寺の由緒ですが、ここ、橘寺に伝わる寺伝は正史に書かれているものとはかなり違う由緒となっています。そして、そちらの方が正史に書かれている由緒より間違いなく広く知られているのです。

 

 

 

 

 


当寺は、聖徳太子のお生まれになった所で、当時ここには、橘の宮という欽明天皇の別宮があった。太子は、その第四皇子の橘豊日命(後の31代用明天皇)と穴穂部間人皇女を父母とされて、西暦572年この地にお生まれになり、幼名を厩戸皇子、豊聡耳皇子などと申し上げた。(橘寺冊子、冒頭部分より引用)

『聖徳太子誕生の地』これが世間で広く知られる、橘寺のイメージであります。
橘寺の冊子は、さらに続きます。
推古14(606)年7月、聖徳太子が経を研鑽したおりに、橘の宮に蓮の花が積もったり、南の山に千の仏頭が現れたり、太子の冠から日月星の光が輝くなどの数々の奇譚が書かれいました。この不思議な出来事に驚いた推古天皇が、橘の宮に寺を建てるように命じたのが橘寺の始まりだったとされます。
橘寺の冊子は、天武9年の火災の記事のことにも触れていますが、あくまでも上記創建にまつわる後世談となっています。

実際、橘寺の中を歩くと、右を見ても左を見ても『聖徳太子』『聖徳太子』その境内は聖徳太子一色となっているというのが印象でした。
本坊の西隣に、三光石・阿字池と書かれた立札が並んでいます。三光石は橘寺創建のエピソードとなった日月星の光が輝いたという故事にちなんだもの。その隣の阿字池は梵字の阿を象ったもので、これも聖徳太子が造ったという伝説が。

 

 

 

 

 


さらに、橘寺創建の伝説で降り積もったという蓮の花を埋めたという『蓮華塚』という名所も。こうやって橘寺の境内を歩いてみると、ここが聖徳太子という歴史上の人物の史跡であるというよりも、聖人として神や仏のように信仰の対象となった太子を崇める場所として存在しているのだと感じました。

重ねて言いますが、橘寺が聖徳太子誕生地であるという伝承は、橘寺だけのものです。文献史学や考古学による見地から言えば、橘寺は飛鳥京南側の一寺院で、白鳳時代ごろに川原寺の尼寺として整備された官寺であったと考えられます。
それがいつから、聖徳太子誕生の地として今のように聖地となったのか。室町時代編纂の護国寺本・諸寺縁起集という古書を見ると、創建時の橘寺の本尊は救世観音であると記されています。救世観音と言えば法隆寺夢殿本尊で聖徳太子の等身御影像と伝えられるくらい、聖徳太子とは縁の深い仏。日本書紀には書かれていませんが、橘寺が聖徳太子と何らかのかかわりがあったこともうかがわせます。
しかし、今のような『聖徳太子のお寺』となったのは、むしろ中世以後と考えられます。

飛鳥時代の五重塔は平安時代後期の久安4(1148)年に落雷で焼失してしまいましたが、鎌倉時代初期の文治年間(1185~9)に三重塔が再建されました。これが中世の橘寺復興の時期と思われますが、その時代こそ、日本で太子信仰が広まった時期と重なるのです。
平安末期から鎌倉時代初期に入ると、日本では様々な新しい宗派が興され、仏法がそれまでとは違った形で隆盛を見せます。
そして、仏教再興の機運が高まった中世は、日本仏教界の聖人である聖徳太子が再評価される時代でもあったのです。現在の日本ではいたるところで太子信仰の寺院がありますが、このような信仰はこの時代に一気に広まったのです。
浄土真宗を開いた親鸞などは、浄土思想を広めるのに人の成仏した姿として、観音菩薩を解くにあたって観音信仰を説いた聖徳太子を取り上げたそうです。
橘寺が本当に聖徳太子誕生の地と、元から認められていたのかどうか、今となっては定かではありません。ただ、聖徳太子が生まれ青年時代を過ごした飛鳥の地に、この時代に聖徳太子誕生の聖地を求められてのは確か。キリスト教の聖地であるベツレヘムの生誕教会のように、時代の求めによって橘寺は太子信仰の聖地となったの思います。

さて、その鎌倉時代以後も太子信仰の聖地として多くの信仰を集めた橘寺でしたが、室町時代・興福寺一乗院と大乗院の二大筆頭塔頭の対立から大和国全体に拡大した『大和永享の乱』の戦乱あおりを受けて、全山ほぼ全焼してしまい、事実上の廃寺となってしまいます。
その後は大きな再興の動きも行われること無く数百年の年月が流れ、江戸時代には橘寺は天台宗となったものの、僧舎が一軒だけという本当に小さな小さなお寺であったそうです。しかしそれでも『聖徳太子誕生の地』という聖地として、橘寺は時代を超えて信仰を受け継いで来たそうです。

橘寺が再興されて今の伽藍となったのは、元治元(1864)年と言いますから、江戸時代幕末の幕末、明治維新の時代になってからです。

 

 

 

 

 


平成23(2011)年6月8日撮影

 


外から望むと西側、川原寺側から見て右端の本堂以上に大きく見えるのが、伽藍中央(上写真左)の観音堂です。

 

 

 

 

 


観音堂の本尊は『六臂如意輪観世音菩薩像』[平安時代・重文]です。像高170cm

 

 

 

 

 

 

 

 

絵はがきより

 


観音像の中でも最も美しい姿と言われる如意輪観音。このお堂の如意輪観音も他と違わぬ見事なプロポーション。観音信仰が篤かったとされる聖徳太子の、信仰の聖地であるこのお寺にふさわしい素晴らしい仏さまであります。

そして観音堂を右手に、参道の突き当りに建つのが、橘寺本堂です。飛鳥太子信仰の中心を担う場所です。

 

 

 

 

 


本尊は『聖徳太子勝鬘経講讃像』[室町時代・重文]。像高55cm、奈良慶派の分派・椿井仏所の仏師・椿井舜慶の作と伝えられます。

 

 

 

 

 

 


画像参照:
http://narabungei.blog4.fc2.com/blog-entry-171.html

 


太子信仰の寺院は数多く、それらの多くには太子像が安置されていますが、別に太子堂を建てるのならともかく、本堂の本尊が仏像以外というお寺は、小生は他に記憶がありません。仏教寺院は仏像を本尊とするものであり、聖人であったとしても人物像を本尊とする橘寺は異色だと言えます。
この異色な本尊について、実際に橘寺の本堂に上がって太子像を拝した小生のインスピレーションで語らせていただきますと、ここは仏教寺院というより、まるで聖徳太子を祀る神社の神殿のようだということです。
一般的に仏堂は南向きに建てられるものですが、橘寺の本堂は東向きなのです。これは橘寺創建時の金堂や講堂もそうであり、この珍しい伽藍の向きは昔から橘寺の謎と言われてました。神社のことが思い浮かんだのは、仏殿は南向きが一般的なのに対して、神殿は東向きに正面が向けられているのが一般的だからです。
聞くと橘寺の創建時の本尊は救世観音だったそうで、聖徳太子の御影と言われる救世観音が神像のように東を向けられていた。あるいは橘寺は創建時から聖徳太子を神のように祀り崇めるための施設だったのではと、そんな憶測をしてしまいました。

その本堂の南側、裏山である仏頭山のすそ野に置かれているのが、橘寺で一番の名所『二面石』です。

 

 

 

 

 


高さ1.24メートル。飛鳥地区ではよく見かけるユーモラスな石造物の一つ。そばに立てられている看板には「右善面、左悪面と呼ばれ、我々の心の心の持ち方を現わしたもので、飛鳥時代の石像物の一つである」という説明文が。天台宗のお寺ということで、この奇石を前の説法などをされたのでしょうか。
この二面石は手塚治虫のコミック『三つ目がとおる』の中でも、超古代文明の遺産として紹介されたこともあって、そのミステリーさも合わせて人気があります。

 

 

 

 

 

 


この時、小生はさらに、新しく建立された往生院の方へもお参りしました。念仏写経道場として平成9年に建てられた新しい道場で、畳敷きの大広間は多目的道場として活用されています。

 

 

 

 

 


ここの本尊は阿弥陀三尊ですが、往生院の一番のみどころは天井画です。

 

 

 

 

 


往生院建立にあたって、日本全国の著名な画家の方々から献納された、総数260枚の絵が天井を覆い尽くしているのです。ここの畳の上に寝そべれば、天上の仏の世界にいざなわれるような、橘寺を訪れたらぜひ立ち寄るべきすばらしい場所であります。

往生院の向かい側に建てられているのが、寺宝が収められた、鉄筋コンクリート造りの収蔵庫である『聖倉殿』です。秋に1ヶ月間だけ寺宝が公開されます。小生が訪れた11月24日は、残念ながら少しだけこの公開の期間からずれてしまっていて、聖倉殿の扉は閉ざされてしまって残念でした。

 

 

 

 

 


もし公開中に訪れていれば、平安時代の重要文化財『伝日羅像』『地蔵菩薩立像』などを拝観することが出来ました。今年(平成24年)の聖倉殿の公開期間は10月4日(土)~11月3日(月・祝)で、まさに今これから公開されるのです。橘寺はこれからの時期がみごろなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伝日羅像                              地蔵菩薩立像
絵はがきより

 

 


橘寺は聖徳太子のお寺ではありますが、法隆寺など斑鳩の寺院のように、聖徳太子の時代からの物はありません。ここは聖徳太子そのものに触れるというよりも、聖徳太子を崇めて来た信者の信仰の歴史に触れるお寺と言えます。
京がここから去り、忘れ去られてしまわれうはずだった飛鳥から、仏教の聖跡が人々の心をつなぎ続けた。橘寺という場所は飛鳥にとってとても意義のある場所だったと言えます。

 

 

 

 

 


飛鳥の古刹寺院を訪ねる その3につづく。

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