飛鳥の古刹寺院を訪ねる その3 ─ 飛鳥寺 ─ | タクヤNote

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元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
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アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

飛鳥の古刹寺院を訪ねる その2 ─ 橘寺 ─からつづきです。

川原寺・橘寺と続いた飛鳥古刹寺院訪問の記事もこれが第三弾。今回取り上げるのは飛鳥寺です。
この日記では、平成23年6月8日に飛鳥を訪れた時に、参拝した飛鳥寺の時のことを中心にして書きます。

『日本で一番古い寺院』
飛鳥寺について語るのに、よくこう言われます。

一番最初に建てられたの日本仏教最初のお寺はどこか。古い時代の話で、歴史書に書かれている記録すら正確かどうかわからないほどです。
歴史書に書かれている仏教公伝の記事は、日本書紀の欽明13(552)年のもので、蘇我馬子の父、稲目が百済の聖明王から献じられた仏像と経巻を、天皇の許しを得て小墾田の向原の家に祀って寺としたというもの。
この一件で蘇我稲目と廃仏派であった物部尾輿との対立が生じるのですが、後に向原寺と呼ばれる寺というのは、自分の家に仏像を祀っただけの、仏教寺院と呼べるほどのものでは無かったものでした。


その後、稲目と尾輿のそれぞれの子である蘇我馬子と物部守屋の時代を迎えると、崇仏派と廃仏派の対立はついに戦争にまで発展、587年4月、聖徳太子の父の用明天皇が崩御すると、その後の日本の運命を決めるための蘇我氏が中心となった崇仏派が、物部氏を討ち滅ぼすために挙兵。世に言う『丁未の乱』が起こり、廃仏派の筆頭であった守屋は敗死。政治の実権を握ることとなった蘇我氏によって、飛鳥に建てられ、推古4(596)年に落慶したと日本書紀に記されているのが飛鳥寺です。
このように、天皇家から公式に仏教を認められるようになるのに合わせて、国の実権を掌握していた蘇我氏が当時の日本の中枢であった飛鳥の地に建立した、飛鳥寺は日本で初めて正式な仏教寺院と歴史書には記録されているのです。それをアピールするかのように、飛鳥寺の漢風寺号は『法興寺』(ほうこうじ)…仏法が興きた寺と命名されているのです。

平成25年11月24日の飛鳥京苑池の現地説明会に訪れた時にも、飛鳥寺は、すぐ北側に見えました。

 

 

 

 

 


飛鳥京遺跡は、大化改新で蘇我入鹿が中大兄皇子に討たれたという、板蓋宮跡でもあります。また蘇我入鹿と蝦夷の邸宅があり、飛鳥寺のすぐ西側の甘樫丘は入鹿の父の蝦夷が自刃した蘇我本宗家最期の地となった所。
歴史書にはいくつもの場所が出て来るのですが、東京で例えれば、大化改新があった板蓋宮が国会議事堂あたりとすると、飛鳥寺は国会図書館あたり、蘇我氏本宗家が滅亡した甘樫丘が麹町あたりと、実は飛鳥京は範囲がかなり狭く、これらの歴史上の出来事も狭い範囲の中で起きているのです。

 

 

 

 

 


飛鳥京地図と、同縮尺の東京の地図

 


そんな飛鳥京から近い飛鳥寺ですが、現在は『真言宗・安居院 飛鳥寺』として、法灯を受け継いでいます。
南北からの門が無く、境内に入るには東西の二カ所の門からとなります。観光客が飛鳥寺を訪れる場合は、バス停や駐車場があり、土産店も設けられている東側の門からが多いようです。

 

 

 

 

 


飛鳥寺 東門 画像参照:
http://nabesan.html.xdomain.jp/sn6asuka.html

 


しかし、小生は周遊歩道を通って飛鳥寺へ来たので、西の門から参拝させていただきました。こちらには鎌倉時代に蘇我入鹿を供養するために立てられた供養塔『入鹿の首塚』があります。

 

 

 

 

 


飛鳥時代にはケヤキの木に囲まれた『槻の木の広場』がこのあたりにあったと日本書紀に複数の記述があり、中大兄皇子が蹴鞠で沓が脱げて、藤原鎌足が拾ったという有名な出会いの場はここだったとされています。
板蓋宮で斬られた入鹿の首がここまで飛んできたという伝承があり、聞いた時にはナンセンスな話と笑ってしまいましたが、でも改めて飛鳥の地図を見ると、飛鳥寺と板蓋宮とは距離が近いのです。飛んできたかどうかはともかく、入鹿の遺骸がここに埋められたとしてもおかしくない場所ではあります。

そして、入鹿の首塚の先には近年の発掘調査で規模が確認された西門跡が、そしてその先に目指す安居院・飛鳥寺が見えました。

 

 

 

 

 


今では全国で7万5千、コンビニよりも数が多い日本の仏教寺院の、ここが始まりの場所です。

 

 

 

 

 


昭和31~32(1956~1957)年の発掘調査で、一塔三金堂という独特の伽藍配置を持つことがわかりました。五重塔を西・東・北の三方向に金堂を取り囲み、その周囲を回廊を巡り、そして北側に講堂と西門・南門という、周囲の田地までが主要伽藍だったのです。

 

 

 

 

 


平城遷都後は左京六条四坊に元興寺として遷されるも、飛鳥の飛鳥寺は元元興寺として官寺の地位を保って来ました。しかし、平安時代の仁和3(887)年と鎌倉時代の建久7(1196)の火災によって、伽藍が失われると一気に衰退。室町時代には堂塔が失われ、本尊の飛鳥大仏は野にむき出しのまま鎮座していたと記録されている程の荒れ方でした。
長谷寺を西の本山とする真言宗豊山派 安居院となった現在の飛鳥寺の伽藍は、江戸時代後期、宝永9(1632)年と文政9(1826)年の二度にわたって再建されたものです。平城京に遷されて建てられた奈良市の元興寺もまた、後の時代に衰退するも、同じ真言系の真言律宗(西大寺を総本山とする)として法灯を今に守っており、蘇我氏の古代寺院はいずれも真言の宗派が引き継ぐという形になっているのです。

現在の本堂は塔の正面に建っていた飛鳥寺の主要伽藍・中金堂跡の上に建てられています。

本堂の前に並ぶ礎石は地下3メートルから発掘された創建時のものを、元の位置に据えられました。飛鳥時代の中金堂が、現在の本堂よりもずっと大きかったことを覗い見ることが出来ます。

 

 

 

 

 


飛鳥が日本の政治の中枢だった時代、その政治の実権を握っていた蘇我氏が日本仏教の主幹として威信をかけて創建した飛鳥寺(法興寺)。今はかつての伽藍のすべてを失い、再興された現在の仏堂は本堂と大師堂、それに鐘楼があるだけ。平安時代や室町時代などの仏像がいくつかあるも、それらを納める収蔵庫すらありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左:聖徳太子考養像[室町時代]  右:阿弥陀如来坐像[平安時代]
飛鳥寺パンフレットより

 

 

 
 

 

 

今の飛鳥寺が他の寺院と一線を画す、最大の特長。それは飛鳥大仏の存在です。
小生も拝観料を払って、本堂の中へ。本尊・飛鳥大仏を拝ませていただきました。江戸時代に再建されたお堂らしく、本尊の前には畳が敷かれ、畳の上に座って古代の大仏にお参りをしました。

 

 

 


ここと東大寺の大仏は自由に写真が撮れる仏さまとして人気があるので、小生も合掌をしてから写真を写しました。

 

 

 

 

 


像高は2.75メートル、重さ推定15トンの銅像です。お堂が小さいのと、横幅の広い坐像なので立像よりは存在感を感じますが、上代の仏像としてはありふれた大きさ。大仏と呼ぶのはちょっと大げさかも知れません。
しかしこの像の偉大さは、大きさではありません。日本書紀や元興寺縁起などには、鞍作鳥(止利仏師)作の飛鳥寺本尊像の記述が見受けられ、飛鳥大仏はその1400年前の仏像そのものであると考えられています。最古の寺院の本尊、それは日本で一番古い仏像であることを意味しています。
自分が目の前にしているのは、日本の仏像の中で一番古い。そう思うと、特別な感慨が生まれますが、しかし、一般的には創建時のものとは言えないとされています。それは、度重なる火災や経年による損傷よって像は壊れ、飛鳥時代当時のものは顔の一部、左耳、右手中指だけと伝えられてるからです。
実際、昭和48(1973)年の奈良文研による調査では、おびただしい修復の痕が確かめられ、表面の加工方法も部位によって違っており、飛鳥時代当初からの部位は少ないと結論付けられてました。
本来なら超国宝に値する歴史的価値を持つ仏像なのですが、指定は重要文化財。その状態の悪さが評価を下げたのでしょう。

しかし、小生がこの仏像を一見した時の率直な感想は、杏仁(アーモンド)型の目、アルカイックスマイルを浮かべる口、細面の面立ち。法隆寺金堂の本尊、釈迦三尊像とそっくりだということでした。

 

 

 

 

 


止利仏師作 法隆寺金堂本尊 釈迦三尊像
画像参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8A%E5%83%8F%E5%85%89%E8%83%8C%E9%8A%98

 


斑鳩で数多くの飛鳥仏を目の当たりにして来た、また奈良などで後世に補修された仏像を見て来た小生の目には、この飛鳥大仏が文化財指定の評価が落ちるほど飛鳥時代の面影を残していないとは思えなかったのです。
「これは飛鳥仏だ…」小生の心の中でそう呼びかけるものがあったのです。

このブログは平成23年6月8日の飛鳥寺参拝の時の話と画像を主に書いているのですが、3年を経てこのブログを書くにあたり、ウィキペディアの飛鳥寺を見てみました。すると、飛鳥大仏について非常に気になる記述があったのです。それは「これは飛鳥仏だ」というその時の心の中の声に応えるかの内容でした。
その記事と合わせて早稲田大学のサイトのリンクがあったので、こちらにも貼ってみます。

http://www.waseda.jp/jp/news12/121020_daibutsu.html

早稲田大学文学学術院の大橋一章教授(文学部)らは、飛鳥時代に造
立されたものの、火事で損傷したために大部分が鎌倉時代や江戸時代に補修されたものとされている飛鳥寺(奈良県明日香村)の本尊・飛鳥大仏(重要文化財)について、Ⅹ線分析調査を行いました。その結果、造立当初の箇所(左鼻梁、右手第二指甲)と鎌倉時代以降に補修したとされる箇所(鼻下、左襟、左膝上)の銅などの金属組成には際立った差異がみられず、仏身のほとんどが飛鳥時代当初のままである可能性が高いことが判明しました。

 

 

 

 

 


調査の様子

 


平成24年7月9日と言いますから、分析調査が行われたのは、小生が飛鳥大仏を参拝してほぼ1年後ですね。調査分析は飛鳥大仏の5カ所と、飛鳥寺に伝わる光背の断片の裏表の2カ所。創建当初の残存部と伝えられる箇所および、後世に鋳造されたとされる部分。創建時の銅である可能性が極めて高い光背の断片と成分を比較するという方法で蛍光X線が、また伝光背断片には並行してⅩ線回折分析が行われました。

 

 

 

 

 


        左:蛍光Ⅹ線分析結果                    右:伝光背断片Ⅹ線回折分析結果

 


その結果、全ての部位の銅の成分に違いは無いことが、また火災によって酸化していることなどが確認されたのです。飛鳥時代のものとされる部位と後世に鋳造された部位の銅の成分が同じであったことから、大橋教授は「飛鳥大仏には鞍作止利の時代に制作された部分がほとんどのこらないという認識には再検討が必要で、今後は補鋳部分が飛鳥当初部分である可能性を含めた議論がなされるべき」と結論付けているのです。

この分析調査結果を読んで、正直言って飛鳥大仏の価値が根本からひっくり返ることになると思いました。日本で最初に造られた仏像が、その当時の形のまま今見ることが出来る。これは驚くべき素晴らしいことなのです。

その飛鳥大仏の前には、三尊仏のイラストが置かれていました。奈良文研(奈良文化財研究所)による、創建時の飛鳥大仏の復元図です。

 

 

 

 

 


飛鳥大仏は石造台座の上に鎮座されています。1970~80年代の調査結果により、この台座も創建当初のもので、飛鳥大仏が創建当初からまったく位置が変わっていないことを示しています。
そしてこの台座には左右の脇侍仏を据えるためのホゾ穴が空いており、『元興寺縁起』に記述されている脇侍の存在を裏付けているのです。光背もあった創建当初の飛鳥大仏の威容を、このイラストからも想像することが出来るのです。

ここまでこのブログを書きまして、一度訪れただけでこれだけの古代ロマンが溢れている。飛鳥寺という場所が特別な空気を改めて知らされたように思います。
今は小さなお堂に安置されている飛鳥大仏。かつて日本仏教の核となっていた聖地だったはずの飛鳥寺が、ここまで衰退してしまったことは残念なことです。その衰退の大きな理由として、ここが蘇我氏の寺院であったことがあります。
すでに日本書紀には自ら天皇と名乗らせるなど、臣下の立場をわきまえない強欲な権力者と、蘇我氏のことを悪逆な氏族と断じています。さらに、明治時代の皇国史観が加わって、蘇我は悪人という観念は極まり、蘇我氏ゆかりの飛鳥寺が信者を集めることは難しいことになったのです。
しかし、蘇我氏に対する歴史観は、近年見直されることが多くなってきました。今の時代に「蘇我は悪」で飛鳥寺を見るのは、遅れていると言えます。
また、たとえ蘇我氏が政治家として悪逆であったとして、仏法を深く帰依し、日本の地に仏教を興したということは、歴史上の事実なのです。日本仏教界はそんな蘇我氏をもっと評価するべきであり、日本仏教発祥の地として、飛鳥寺をもっと隆盛させるべきなのではと思うのです。もしも、飛鳥寺の五重塔が再建されるなんてことになれば、日本人は仏教が始まった飛鳥の地の意義を知ることになるのではと、そんなことを思うのです。

この時、飛鳥寺では参拝の記念に3枚の散華のセットをいただきました。これは推古天皇17(609)年に飛鳥大仏開眼の説を取っている飛鳥寺が、平成20(2008)年が大仏開眼1400年であることを記念して、参拝者に配っているのです。

 

 

 

 

 


飛鳥大仏が飛鳥寺創建時の姿を残しているとすれば、飛鳥大仏は1400年同じ場所で、同じ姿で時代を超越して存在していたことになります。飛鳥には、我々の生きている時間などチリのような悠久の時を刻んできた、そんなとても奥深い場所なのです。

飛鳥の古刹寺院を訪ねる その4につづく。

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