薬師寺 天武忌(後編 10月8~9日) | タクヤNote

タクヤNote

元mixi『東大寺』『南都七大寺』コミュニティ管理人で、
現在は古都奈良の歴史文化の紹介、
アメーバピグや、配信アプリ『RIALITY』で知り合った人の
アバターの絵を描くなどの自作イラスト紹介をしています。

 

 

前回の日記に続き、薬師寺 天武忌レポートの後編です。この日記では8日万燈籠の模様と、平成23(2011)年の飛鳥・天武持統天皇陵での法要の模様を書きます。

不動堂での柴燈大護摩法要を拝した後、午後3時過ぎに薬師寺を一旦後にしました。奈良市内にしばらくいた後、JR奈良駅前からバスで薬師寺へ。バスが薬師寺近くのバス停に到着すると、老外国人夫婦がバスの運転手さんに「ヤクシジー、ヤクシジー」と薬師寺に行きたがる様子。
運転手さんが「ストレート、ライト」とたどたどしい英語で道案内をするものの、なかなか通じなくて困っている様子。自分もちょうど薬師寺に行くということで、声を掛けて「ウィズ・ミー」と、自分が案内すると伝えました。
外国人夫婦もバスの運転手さんも困った様子だったので、皆とてもありがたがっている様子でした。そんなエピソードなどもありながら、すっかり暮れた西ノ京の参道を歩き、夜間開門が行われる午後6時過ぎに薬師寺南門に到着。提灯には灯りが点っていました。

 

 

 


昼間は当然のことながら拝観料がいる薬師寺ですが、この天武忌など特別法要が行われる夜間には無料開放がされます。そのまま南門横の入口から境内に入り、主会場である大講堂へ。天武天皇を偲ぶ参拝者の前を、幽玄の万燈籠が出迎えます。
昼間の大講堂はこんな感じでしたが…

 

 

 

 

 


夜はこのようになります。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 


大講堂の中では本尊の天武天皇像をはじめとする、三尊画を前で天武天皇の遺徳を研鑽する追善法要が営まれていました。堂内は参拝者ですでに満杯、小生は堂外にあふれた状態で一山の僧侶の声明が響き渡っていました。

 

 

 

 

 


南都の寺院ではおなじみの、謡曲を思わせる美しいハーモニーを織り成し、一度聴くと心が洗われる想いがします。
法要に続いて、大講堂では香道志野家元による献香、バリトン歌手 小松英典氏による献歌が行わることとなっていましたが、予定もあって小生は午後7時ごろには薬師寺を後にしたのでした。

 

 

 

 

 

 

 


以上が薬師寺大講堂での天武忌の模様でしたが、8日はあくまでも天武帝御忌日の前日であり、本当の御忌は翌日の9日。そして、御忌法要が営まれるのは薬師寺がある奈良市から南に20キロメートルも離れた、天武天皇と皇后の持統天皇が合葬されている、明日香村の檜隈大内合葬陵なのです。
10月9日の正御忌には明日香村の天武・持統合葬陵まで、薬師寺の一山の僧侶が出向いて御忌法要が営まれるのです。
小生がこの法要に行ったのが2年前、平成23(2011)年のことでした。ここからは2年前の陵前法要の模様を紹介したいと思います。

この日は法要が朝の9時からということで、朝から近鉄電車で飛鳥駅に向かいました。この日は秋晴れの良い天気でした。
明日香村は小生の結婚前の実家に近かったのですが、今住んでいる所からは遠く、2時間近くかかります。しかも天武忌の前日は夜勤で夜明かしで電車に乗ったので、大阪からの急行の中で少し睡眠を取るつもりで…。
それで、目を覚ますとビックリ。下車する予定の飛鳥駅より2駅も寝過ごしてしまったのです。あわてて戻ろうとしたのですが、行かれた方ならご存知かと思いますが、この辺りは電車本数が少なく、1本電車を乗り過ごすと次の電車が来るまでかなり間隔があるのです。
結局20分以上も待ち、天武・持統合葬陵に到着したのは、法要が始まってから30分も過ぎた9時半。参拝所に到着した時にはもう、法要は終わってしまい直接参加することは出来ませんでした(涙) しかし、遠くから望遠レンズで薬師寺の一山の僧侶による法要の様子をカメラで捕らえることは出来ました。

 

 

 

 

 

 

 


ちなみに撮影地点から数百メートルも離れた場所でしたが、薬師寺境内の時と同じ美しい声明はしっかりと聴こえていました。自然豊かでのどかな飛鳥の風景の中で響くお経の唱和は、まるで癒しの音楽のように心地の良いものでした。

法要には間に合いませんでしたが、その後の管長・山田法胤師による法話は聴かせていただくことが出来ました。主に天武・持統天皇の時代と薬師寺建立までのお話。冊子までいただいて、神妙に聞かせて頂きました。
法要には明日香村の村長さんも同席されておられました。

 

 

 

 

 


法話の後は、参拝者にお茶と茶菓子、それに記念の散華も配られました。参拝所には一面シートが敷かれ、薬師寺と縁があったいっぱいの参拝者は所狭しとシートの上に座り、柔らかい秋日和の空の下で、お茶と茶菓子をいただきながら、遙か古代の天武・持統天皇を偲んだのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


薬師寺の開基法要である天武忌は主要法要が二日に亘って行われる、とても規模の大きなものでした。天武忌の期間は小倉遊亀画伯による天武天皇・持統天皇・大津皇子の三尊画像が本尊として大講堂に掛けられます。三尊像は10日まで、3日間大講堂に掛けられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左:大津皇子 中:天武天皇 右:持統天皇 はなこさんブログ『奈良大好き主婦日記』より

この三尊像について、自分の周りではよく議論がありました。薬師寺を発願した天武天皇と、受け継いで落慶を果たした持統天皇の画像はわかりますが、なぜ大津皇子もかということです。
大津皇子は天武天皇の皇子として正史に記録されている人物ですが、皇后であった
鸕野讃良(持統天皇)との間に生まれたのは草壁皇子という人物、この草壁皇子の息子が文武天皇として即位し、薬師寺は文武期に落慶を果たしました。
このように薬師寺の歴史をひも解くと、大津皇子は関わっていないことがわかります。にもかかわらず、なぜ天武忌には大津皇子の肖像が掲げられるのでしょう。
このことは小生にとっても永らく疑問でありましたが、一度確かめようとウェブで調べたところ、小倉遊亀画伯が大津皇子の肖像画を描いた経緯について、
山田法胤管長が天武忌の法話で語られたことがあったそうなのです。その内容は、かなり衝撃的なものでした。
http://blogs.yahoo.co.jp/nonbay55/34770884.html

小倉遊亀画伯が三尊像の中で最初に描き上げたのが、大津皇子像でした。薬師寺側は薬師寺の開祖の肖像を依頼したのですから、おそらく大津皇子の肖像は薬師寺側では無く、画伯が自らの考えで描かれたのです。
なぜ、小倉遊亀画伯は大津皇子を描いたのか。それについて画伯はこう言われたそうです。
薬師寺は大津皇子を御供養申し上げるべきである」

そして、続いて持統天皇像を描かれたのですが、天武天皇については「描けない」と拒まれたのです。しかし、薬師寺が描いてほしいのは天武天皇像。画伯を粘り強く説得をして、やっとの思いで描かれたのです。

小倉遊亀画伯は、なぜ薬師寺は大津皇子を供養するべきと、皇子の像を描かれたのでしょうか。そして、頑なに天武天皇像を描かれるのを拒んだのでしょうか。

 

 


画像参照:http://ekakimushi.exblog.jp/18816750/

 

 

 


小倉遊亀画伯は、明治28(1895)年生まれ。当然、戦前の教育を受けられた方です。だから、考え方に戦前教育の影響が大きいのではと思われまです。
戦前の価値観として、天皇は原則長子継承。天智天皇は長男の大友皇子に跡を継がせたいと望んでいたと思われる以上、天智天皇の正式な跡継ぎは大友皇子としていたのです。そのために日本書紀には記述が無いにもかかわらず、明治政府は大友皇子に『弘文天皇』の諡号を与えて、正式な天皇と認めているのです。
そして、近江大津京で正式に即位した弘文天皇を、弟の大海人皇子は軍事クーデターで死に至らしめ政権を取って代わった。明治政府にとって、これは許されざる謀反であると解釈しました。そのために、戦前教育では朝廷を滅ぼして即位した天武天皇について多くを語らず、壬申の乱についても教科書で語らなかったのです。

 

 


また、大津皇子ですが、父・天武天皇が崩御した直後に、謀反を意思ありとの咎で捕らえられ、飛鳥・磐余池で自ら縊死を命じられて若い命を絶ったと伝えられます。
この大津皇子の不可解な断罪について、漢の呂后の伝記に例えられることが多いのです。漢の皇帝の劉邦の皇后だった呂后は、皇帝が崩御すると、息子の
劉盈のライバルであった劉如意を殺害し、劉如意の母であった戚夫人の手足をバラバラに切り刻んで、人豚にして厠に送ったといいます。
大津皇子が断罪されたのが、天武天皇崩御の直後だったことから、この漢の呂后の故事と重ね合わされ、自分の子である草壁皇子の地位を守るための鸕野皇后の策謀だったと評する歴史家が多いのです。

大津皇子について、姉の大伯皇女が大津皇子を偲ぶ歌を何首も残しておりまして、大津皇子に対しての同情をより世間に広めています。このことも、大津皇子を死に追いやったと評される、鸕野皇后への批判につながっているのです。

 

 

 

 

 

 

 

大伯皇女 歌碑(奈良県・當麻町 万葉集 巻2・165)
うつそみの 人にあるわれや 明日よりは 二上山を弟背と わが見む
画像参照:http://plaza.rakuten.co.jp/YAKAMOCHI35/diary/201003110000/

 


小倉遊亀画伯はこのような天武天皇・持統天皇(鸕野皇后)に対して、決してよい感情を抱いていたようなのです。そして、その感情が持統天皇の息子のライバルであった大津皇子の肖像を描かせ、天武天皇を描くことを拒んだエピソードとなったのです。

天武忌は本来、薬師寺を発願するなどその徳を讃え、御霊を供養するという目的のものです。しかし、大津皇子の肖像を加わったことによって、法要が両天皇の生前の悪行を本人代わって悔い、二人によって無念の最期と遂げた者たちを供養するものと、まったく逆の意味を持つようになってしまったのです。

このブログを書いている小生の考えを言えば、小倉遊亀画伯が考えるような両天皇への評価ほど、歴史の史実は簡単なものでは無かったような気がします。ましてや、歴史上の人物を善悪で評価することは出来るものでは無いと思います。

しかし、天下の薬師寺に対して、ここまでご自身の心情を貫き通した画伯は、大変気骨がある女性であると驚かされました。また、これだけの気骨を貫いた画伯に、法要の意義まで変わるようなことになっても肖像を描いてもらった薬師寺もまた、大変に気骨があると思ったのでした。

 

 

 

 

 

 

アクセスカウンター
コーヒーメーカー通販ホームベーカリー通販デジタルブック