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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  難病の悲しみから生まれた希望の歌 ②


 サンバを愛するハンセン病の青年もまた、この病院で仏法と巡りあった。

「特殊な病気のせいで、いつも人の陰に隠れ、後ろ向きの生き方でしたが、SGIに入ってから、自分の人生に自信が出てきた」。次第に「私は多くの人と違った環境でも勝つことができる」と思えるようになった。

 「毎週土曜日、あの病院に住むメンバーと唱題会をしていました」。

長年、リオ文化会館の管理者を務めたヴァルケル・ロペスが語る。

「ある日、作曲家である彼に『池田先生への思いを歌にしてみないか。皆が明るくなるような歌を』と頼みました。彼はその日のうちにメロディーをつくり、タンボール(打楽器の一種)を叩きながら披露してくれました。歌詞も彼がつくりました」。

 「ソウダソン・ア・センセイ」の冒頭は<先生、あなたをブラジルに迎えることができて、私たちの夢は叶いました>という呼びかけから始まる。軍事政権が池田の入国を阻んだ「空白の18年」の最中である。「難病に苦しんだ彼は、師匠に来てほしいと願う歌ではなく、仏法を教えてくれた先生に『ありがとう』と伝える歌をつくってくれた。これまでにない歌でした」(エイイチ・サゴウ)。

 小さな地区で生まれたこの歌を、サゴウは「リオデジャネイロの歌」にしようと提案し、やがてこの歌を聞いたシルビア・サイトウが「ブラジル全体で歌おう」と提案した。

 「瞬く間に広がりました。難病によって誰よりも苦しみ、誰よりも祈ったリオのメンバーから生まれた歌です。そのことを私は誇りに思います」(ヴァルケル・ロペス)


 歌をつくったかつての青年は「あの曲は私の音楽的技術よりも、地区の人達の『歌をつくろう』という情熱が生んだものです」と語る。今も同じ病院で公務員として働いている。「私は自分で選びました。私の人生の根っこをつくってくれ、多くの友人がいるこの病院で働き続ける道を」。

 ブラジル各地で「サウダソン・ア・センセイ」が歌われるようになったころ、池田のもとにブラジルの大統領府から一通の便りが届いた。池田を正式にブラジルに迎えたい、というフィゲイレド大統領からの親書である。

 1984年(昭和59年)2月、池田は3度目のブラジル訪問を果たす。SGIの人々がブラジル社会に信頼の根をおろしてきた、なによりの結晶だった。「サウダソン・ア・センセイ」は、池田を迎えて行われた「第一回SGIブラジル大文化祭」のテーマ曲に選ばれ、やがて国境を超えて知られるようになる。

 難病の悲しみから生まれた希望の歌 ①


 作曲した青年は今年、70歳を迎えた。「『サウダソン・ア・センセイ』は、もともと『フロール・デ・ロートゥス」』(=蓮華)というタイトルでした。南無妙法蓮華経の蓮華です。蓮華は泥沼に咲くでしょう?」彼はこう続ける。

「病院の中で、改善する見込みのない病に苦しみ、悲しみに暮れ、希望を持てない多くの人々と一緒に暮らしていました。SGIに入ってから『泥の中で咲く蓮華って、難病で苦しんでいる私たちのことじゃないか』と感じていたのです」。

 リオで生まれ、リオで育った。ブラジル各地で行われるサンバの教室や作曲コンクールに携わってきた。生粋の「サンビスタ」(=サンバを愛する者)である。レコードも売れ、いくつかのコンクールで賞も受けた。30歳を過ぎたころ、体のあちこちに斑点があらわれた。ハンセン病だとわかり、その日のうちに強制入院させられた。

「病院で、足や指のない人、顔の形が変わってしまった人たちを見てショックを受けました。毎日泣いて、逃げ出すことばかり考えていました」。

今は後遺症もなく完治したが、病状が悪化した時は,体の痛みに耐えられず、呻き続けた。

 リオの中心者を務めてきたエイイチ・サゴウ。「当時、彼の入院していた施設の一角は、SGIメンバーがたくさんおり、『仏の館』と呼ばれていました。私も何度も通いました」と振り返る。

 「ハンセン病患者を隔離するための病院です。周辺一帯がそのための町になっており、学校も商店街も映画館もありました。そこで生まれ、一度も外へ出ずに亡くなる人もいました」。その町に仏法が少しずつ広まり、やがて班ができ、地区ができた。



 「この御文だけは、忘れてはいけない」 ②


 1957年(昭和32年)の「大阪事件」では、シルビアは仲間とともに連日、池田が勾留されている大阪拘置所に差し入れを届けた。

 「母は特に、池田先生から教わった開目抄の一節を大切にしていました」。シルビアの長女みどりが振り返る。「ここは大事だよ」。池田から教わったページに、シルビアは赤鉛筆で線を引いた。

 開目抄は、流罪地の佐渡から日蓮が弟子たちに宛てた手紙である。池田が講義したのは「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」から始まる有名な一節だった。こう続く。

 ───たとえ諸天が護らなくとも、この人生が安穏でなくとも、嘆いてはならないと、わが弟子に朝な夕な教えてきたが、皆、疑いを起こして退転してしまったようだ────

 さらに続く厳しい一言を読み、池田はシルビアたちに「この御文だけは、決して忘れてはいけない」と諭した。それは、

 「つた(拙)なき者のならひは

 約束せし事を・

 まことの時はわするるなるべし」

 ───愚か者は、師との約束を「いざという時」に忘れてしまう───という         一言である。


 池田が第三代会長を辞任した79年(昭和54年)前後、全国の学会員たちはこの「我並びに我が弟子」から始まる開目抄の一節を読み合い、理不尽な現実を耐え忍んだ。28歳でブラジルに移り住んだシルビアは、すでにブラジル婦人部長の重職を担っていた。軍事政権下の「18年の空白」を耐え抜く根っこに、この一節を据えた。池田から教わったこの一節の意味を、中学生や小学生にもかみ砕いて語り続けた。

 前出の渡辺雅子はこう指摘する。

「サイトウ夫妻がブラジルに渡った1965年からの数年間で、ブラジルSGIは2000世帯から1万2000世帯に増え、現在の基盤ができました。ブラジル人になじみの薄い『師弟』という考えを歌えた点が重要です」。

 「大阪の戦い」、そして「大阪事件」の迫害を通じて池田から受けた薫陶を、シルビアはブラジルの人々に根づかせていった。

 1960年代、シルビアは「ブラジルの場合は歩く以外に方法はないのです。電話や車もありませんから。世界中で一番よく歩くと思います。歩いたからこれだけ伸びたのだと思います」と語り残している。

 「電話や車がたくさんあったら、発展の仕方が違ったのではないでしょうか。というのは、あまり便利すぎると人の心が粗雑になります。何回も遠い所から足を運ぶと自然と気持ちが通じ合うのですね」。


 シルビアがリオデジャネイロに行った時のことである。耳慣れない歌を聞いた。「サウダソン・ア・センセイ」(=ようこそ池田先生)というタイトルのサンバである。差出陽子は夫の仕事の関係で1982年(昭和57年)までリオに住んでいた。「会合に集ったカリオカ(=リオっこ)たちと一緒に、サンバのリズムに合わせて踊り、踊りながら歌っていました」と語る。

 作曲したのは、リオ郊外の病院に住む30代の男性だという。その青年は、ハンセン病を患っていた。


  「この御文だけは、忘れてはいけない」 ②


 「世界に先駆者たらん」。ブラジルに移り住み、こう書き残した人がいた。林川悦子というその女性は、のちにブラジル国籍を取得し、シルビア・サイトウとして知られるようになる。池田はかつて本部幹部会のスピーチで彼女の生涯を紹介した。

 「(1966年から)18年間、私はブラジルに行くことができなかった。ブラジルを訪問する予定が、ビザがおりず、途中で行けなくなったこともあった。そういうなか、耐えに耐え、祈りに祈りぬいて戦った人がいる。それはシルビア・サイトウさん。けなげなる一人の女性である」

 「(シルビア・サイトウの)題目が、今日の偉大なるブラジルSGIをつくった原動力だったのである。腹を決めた婦人の祈りは強い。男性は往々にして臆病で、ずるい。策に走る場合が多い」(『池田大作全集』第八七巻)

 シルビア・サイトウは京都で生まれた。烏丸三条にほど近い老舗メガネ店の、五人姉弟の四女である。幼いころから日本舞踊、茶道、琴と習い、何不自由なく育った。

 「小学四年生の頃から、私の喘息の発作が始まりました」(シルビアの手記)。光華高等女子学園時代には、発作を止めるためのモルヒネが欠かせなくなった。「娘の病気が治るなら」と、母のこうが学会に入ったのは1955年(昭和30年)の二月である。


 「『林川眼鏡店の喘息持ちのお嬢さん』と言えば有名でした」。

関西女子部の草創期をシルビアとともに支えた一人、逢坂琴枝は語る。

「座談会に参加した悦ちゃん(=シルビア)は、結核を治した女子部の体験談を聞きました。それが転機になりました」。

 シルビアは「私もあの人のようになりたい」と思い、母の後ろに座って祈るようになった。「不思議にもその夜から、ウソのように発作が止まった」(シルビアの手記)病状は一進一退が続いたが、徐々によくなっていく。それからの6年間で、シルビアの弘教は50世帯を超えた。

 大阪支部が「一万一一一一世帯」の折伏を成し遂げた「大阪の戦い」(1956年)では、老若男女にまじって池田の早朝講義に通った。大阪中を駆け回る池田の個人指導にも皆と参加した。

「新聞の読み方から社会のこと、人生のこと、結婚のことなど、数々の指導を受けました」(シルビアの手記)。大阪での「50日間の薫陶」が、シルビアの人生の土台になった。


 シルビアはその年の夏、日商岩井(当時)に勤めていた斎藤晏弘(のちのロベルト・サイトウ)と結婚する。まもなく晏弘はアルゼンチン行きの辞令を受ける。喘息をかかえた妻を残し、後ろ髪をひかれながらの単身赴任だったが、日本に戻ると妻は見違えるように元気になっていた。その姿に驚き、晏弘もやがて信心を始める。

  真面目な人が最後は勝つ ②


 「ブラジル日系人社会の大きな問題は、世代間の意識の違いでした」。

宗教社会学者の渡辺雅子(明治学院大学教授)は「日本の宗教が異文化でどう受容されてきたか」をテーマに研究を重ねてきた。ブラジルで何度もフィールドワークを続けるうちに浮かび上がったことがあるという。

 「ブラジルSGIの歴史は戦後から始まります。彼らは戦前移民の一世たちを折伏し、そこから言葉や世代の壁を超えて、移民二世にも信仰が伝わった。これが、日系人の枠を超えて、早く、しかもスムーズに創価学会が広がった理由です」

 戦前移民たちの偏見と闘い続け、信頼を勝ち取った一人にイサム・オノザトがいる。ブラジル南部・パラナ州の一粒種である。

 「私がロンドリーナに来た1960年代は『新来』と『創価学会』はひどく差別されていました」。「新来」とは、日本の敗戦後、ブラジルに渡った移民のことである。

 戦争が終わって間もなく、ブラジルの日系人社会は「日本は戦争に勝った」と信じる「勝ち組」と、「日本は負けた」と認識する「負け組」に分裂してしまい、何度も殺人事件が起きた。日本の敗戦を伝えた新聞社の幹部が「勝ち組」によって殺された。正しい情報が行き渡らなかったために起きた惨劇だった。

 「勝ち組」「負け組」の悲しい経験を経た年配者たちと、戦後の日本を知る「新来」移民との間には、大きな意識の差が生まれていた。


オノザトが単身、ブラジルの地を踏み、ファゼンタ(大農場)で働き始めたのは20歳の時だった。現在は家族でコーヒー園と牧畜を営むが、独立を果たした直後、詐欺に遭い、全財産を失ったこともある。

 「諸君は狭い日本だけにとらわれず、あらゆる立場で全世界に雄飛してほしい」。日本を発つ前に知った池田の言葉に励まされた。

「ロンドリーナでは何度も『学会は暴力宗教だ』と聞かされました。学会員は私一人だけで、妻も学会員を見たことがなかったのにね」とオノザトは笑う。


 日系人の組合の集まりで、ある邦字新聞の記者が偏見まみれの学会批判を語っていた。オノザトはその記者に話した。「もし私に個人的に至らないいことがあれば、それを取材して新聞に書くことは一切かまわない。だが創価学会と池田先生のことを書くなら、徹底的に本当のことを調べて事実を書いてほしい」。

 その記者は非を認め、謝罪した。話の根拠はなかったのである。

「彼はその後、SGIの会合に何度も足を運ぶようになりました」。

 オノザトたちが初めてパラナ州で座談会を開いてから41年後、ブラジル屈指の総合大学であるパラナ州立ロンドリーナ大学は、池田に対して東洋人初となる名誉博士号を授与した(2004年4月)。

 その際、同大学総長のリジア・ルミナ・プパトは池田に「私の学生時代は、軍事政権のまっただ中でした。池田会長をブラジルに入国させないという、理不尽なことを行ったのも、この政権です。私は、深い深い憤りを感じています」と語っている。