「この御文だけは、忘れてはいけない」 ②
「世界に先駆者たらん」。ブラジルに移り住み、こう書き残した人がいた。林川悦子というその女性は、のちにブラジル国籍を取得し、シルビア・サイトウとして知られるようになる。池田はかつて本部幹部会のスピーチで彼女の生涯を紹介した。
「(1966年から)18年間、私はブラジルに行くことができなかった。ブラジルを訪問する予定が、ビザがおりず、途中で行けなくなったこともあった。そういうなか、耐えに耐え、祈りに祈りぬいて戦った人がいる。それはシルビア・サイトウさん。けなげなる一人の女性である」
「(シルビア・サイトウの)題目が、今日の偉大なるブラジルSGIをつくった原動力だったのである。腹を決めた婦人の祈りは強い。男性は往々にして臆病で、ずるい。策に走る場合が多い」(『池田大作全集』第八七巻)
シルビア・サイトウは京都で生まれた。烏丸三条にほど近い老舗メガネ店の、五人姉弟の四女である。幼いころから日本舞踊、茶道、琴と習い、何不自由なく育った。
「小学四年生の頃から、私の喘息の発作が始まりました」(シルビアの手記)。光華高等女子学園時代には、発作を止めるためのモルヒネが欠かせなくなった。「娘の病気が治るなら」と、母のこうが学会に入ったのは1955年(昭和30年)の二月である。
「『林川眼鏡店の喘息持ちのお嬢さん』と言えば有名でした」。
関西女子部の草創期をシルビアとともに支えた一人、逢坂琴枝は語る。
「座談会に参加した悦ちゃん(=シルビア)は、結核を治した女子部の体験談を聞きました。それが転機になりました」。
シルビアは「私もあの人のようになりたい」と思い、母の後ろに座って祈るようになった。「不思議にもその夜から、ウソのように発作が止まった」(シルビアの手記)病状は一進一退が続いたが、徐々によくなっていく。それからの6年間で、シルビアの弘教は50世帯を超えた。
大阪支部が「一万一一一一世帯」の折伏を成し遂げた「大阪の戦い」(1956年)では、老若男女にまじって池田の早朝講義に通った。大阪中を駆け回る池田の個人指導にも皆と参加した。
「新聞の読み方から社会のこと、人生のこと、結婚のことなど、数々の指導を受けました」(シルビアの手記)。大阪での「50日間の薫陶」が、シルビアの人生の土台になった。
シルビアはその年の夏、日商岩井(当時)に勤めていた斎藤晏弘(のちのロベルト・サイトウ)と結婚する。まもなく晏弘はアルゼンチン行きの辞令を受ける。喘息をかかえた妻を残し、後ろ髪をひかれながらの単身赴任だったが、日本に戻ると妻は見違えるように元気になっていた。その姿に驚き、晏弘もやがて信心を始める。