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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   真面目な人が勝つ ①


 タグチが池田と初めて会ったのは国電(当時)の日暮里駅前だった(1957年8月8日)。

「土屋さんというお宅で座談会が行われました。日暮里駅前まで先生を迎えに行き、タクシーの運転手に道順を伝え、私は歩いて会場に向かうつもりでした」。池田は迎えに来てくれたタグチらに「一緒に行こうよ」と声をかけた。

 19歳のタグチは「人と話すのが何より苦手」だった。だが、池田には話してみたくなった。座談会場までの車中、これまでの母の苦労を必死になって語った。

 「青年は大きな目標を持つんだよ」「将来、日本中を駆け回る人材になりなさい」。狭いタクシーの中で、池田はタグチを励ました。

「青年の財産は、誠実と真剣だよ。真面目な人が最後は勝つ」。

 池田はこの二週間前、大阪拘置所から出獄したばかりだった。「大阪事件」で不当逮捕され、検察の暴力的な取り調べを受け、戸田城聖の身を守るため、やってもいない「罪」をあえて認め、「勝てる確率0.1㌫以下」といわれる絶望的な裁判を闘い始めた直後である(『民衆こそ王者』第五巻で詳述)。

 土屋宅の座談会が始まった。蒸し暑い夜だった。タグチらは、場外まであふれ始めた参加者を整理していた。一人の婦人が座談会場から飛び出し、タグチたちに駆け寄った。赤いシロップのかかったかき氷を二つ手にしていた。

「さっき控室で池田先生にかき氷をお出ししたら、『あの二人の分はあるのですか』と聞かれたのよ」という。タグチたちのことだった。「ありませんと答えたら『私だけいただくわけにはいかない。あの二人にも』とおっしゃって」。

 タグチは心の底から驚いた。なぜ高校を出たばかりの、何の力もない自分に対してここまで心を尽くすのか。なぜ、こんなに大勢が集まっているのに、場外に立っている俺たちにまで気を配れるのか。

「あの日の座談会の熱気と路上でほおばったかき氷の冷たさは忘れられません」。そうタグチは語る。

 この日から一週間、池田は荒川に通った。そして当時の荒川ブロックは、世帯数の一割を超える280世帯もの弘教を実らせている。

   「讒言に阻まれた」 ②


 「あの1974年の悔しさがなかったら、今のブラジルの団結はなかったかもしれません」。そう語るのはブラジルSGI婦人部長を務めたエレーナ・タグチである。東京の墨田で生まれ、学会本部職員として4年近く働いた。

 「先生はよく職場の黒板に『きょうのことは、きょうやろう』と書かれました。何百枚もの色紙に揮毫し、全国の学会員さんに贈られるのですが、私も経理の仕事のかたわら、色紙の墨を乾かす作業を手伝いました」。

家族でブラジルに渡ると時、池田から「何があっても10年頑張れ」と励まされた。

 エレーナの夫エドワルド・タグチ派・43年間にわたってブラジルSGIを支えた柱の一人である。彼もまた池田から「ブラジルで信頼を築くには10年かかるぞ」と念を押されている。タグチは東京の荒川で生まれた。

「父は荒物の雑貨商でしたが、東京大空襲で家も商品も全部灰になりました。埼玉の幸手に疎開していた時には、グラマン戦闘機の低空飛行に遭い、とうもろこし畑の中に飛び込んだこともあります」。

 14歳の時、父の久作が結核で亡くなった。母のみつと7人の子が残された。細々と続けていた雑貨商も行き詰まり、タグチは弟と一緒に新聞や牛乳を配って家計を支えた。

 母のみつは「わたしのたいけん」と題する手記を残している。小学校にまともに通えなかったみつは生涯、ひらがなしか読み書きできなかった。池田に宛てて送る手紙も、みつの書いたひらがなの長文を娘が清書した。


 「冬の凍てついた、まだ真っ暗な朝3時に送り出し、そして配り終えて氷のような手足をしてふるえて戻って来る息子達を迎え入れて抱きしめる度に”ごめんよ、無力な母さんを許して!”と心の中で泣いて息子達に詫びました。相変わらず毎日は借金の返済を迫る問屋の人達に追い詰められた日々でした」

 「いっそ、子ども達を殺して自分も死のうかとの覚悟もいたしました。青酸カリは、どうしたら手に入るのかしらと真剣に考えたこともありました。或る夜、本当に寝ている子ども首に手を回してみたこともありました。だけど、どうしてこの可愛い子ども達を殺すことができましょうか・・・・・」

 みつは幾つもの宗教を渡り歩いた。「もう宗教はたくさん」と思っていた時、亡き夫の病室仲間が訪ねてきた。学会員だった。「『信心をすれば必ず宿命転換する。生活もよくなる』と語る彼の確信に動かされ、母は信心を始めました」(タグチ)。1953年(昭和28年)11月である。まもなく信用貸しで商品を卸してくれる問屋があらわれ、雑貨商も少しずつ好転していく。

   「讒言に阻まれた」 ①


 「これからブラジルがどれほど苦労するか、先生にはわかっていたのだと思います」。フクコ・オダは語る。

 リオの後、池田はサンパウロに赴いた。不自由なスケジュールを縫って懇談を重ねた。

「サンパウロの、10畳もない小さな部屋でした。先生は一人ひとりにブラジル社会の現状を聞き、私に対しては『オダさんだね。全部わかっているよ』と。つらい時には、あの温かい眼と懇談の光景を思いだしました」。

 池田は「もとより、悪いことなど何もしていない。すべては讒言(=人を陥れるためのウソの告げ口)によるものであった」(同)と述懐する。

 「しかも多くは、何人かの日本人や日系人によって、『共産主義者である』とか『暴力主義だ』などとレッテルを張られたのである。警察の監視が厳しく、どうしようもない。最後の会合に出席しようと、ある体育館に行った。そこでも、200人くらいの警官に囲まれた。会場の入り口にも、出口にも警官が立っている。こうした状況のため、サンパウロに三泊四日、滞在しただけで出国せざるをえなかった」(同)


 それから8年後の1974年(昭和49年)3月。池田はアメリカにいた。ブラジルへの入国ビザを待っていた。日本を発つ時には許可がおりず、アメリカで再申請した。3度目のブラジル訪問になるはずだった。だが、とうとうビザはおりなかった。

 前号で触れたとおり、ブラジルの軍事政権が池田の入国を阻んだ。日本の他宗教による中傷も一因だった。

 ブラジルSGI(創価学会インターナショナル)理事長のジュリオ・コウサカは「ブラジル国内というよりも、日本からの悪意に満ちた情報があまりにも多かった」と振り返る。

「日系人社会を通して『学会は危険』というデマが吹聴され、邪魔されました。何度ビザを申請しても発給されず、結局『間に合わなかった』のです」(エドワルド・タグチ、前理事長)。

 サンパウロの南米会館。国際電話が鳴った。池田からだった。「どうしてもいけない」南米本部長ロベルト・サイトウが受話器を握り、池田の声を聞いた。

「必ず意味がある。ここで一歩も退いてはならない。絶対に涙を見せてはいけない。微笑みを浮かべて、堂々とみんなを心から励ましなさい。今に必ず行くから」。

 池田を迎えて行うはずの文化祭が控えていた。アマゾンやパラグアイ南部のエンカルナシオンをはじめ、南米各地のメンバーも貸し切りバスに乗り、数日かけて集まっている。国家の壁によって池田の出席が阻まれた、唯一の文化祭になった。

 武山節子は当時、ブラジル女子部長だった。「一番つらい思い出です」と語る。「当日は先生から『どうか、この広い世界に、皆さん方を誰よりも深く深く見守っている一人の人間がいることを、忘れないでいただきたい』という伝言が届きました」。

 1週間後、池田はペルーで行われた文化祭に出席した。その会場で背広につけた胸章を、サンパウロに送った。

「たとえ行けなくても心はブラジル

と共にある、というメッセージデシタ」(エドワルド・タグチ)。

 ブラジルの「空白の18年」。池田の3度目の訪問予定は、何度か具体化し、立ち消えた。揺れ動く心を励まし合い、乗り越えていった多くの人々がいた。池田の薫陶を受けた弟子たちが、ブラジルSGIの核となり、屋台骨となった。

 その日々を振り返り、池田は「涙にかき暮れたあなたたちの悲しみは/また私の苦しみでもあった」(『池田大作全集』第40巻)と綴っている。彼らを励まし続けた池田の旅路を追う。

 1984年(昭和59年)2月、池田はブラジルへ。

 軍事政権の圧力で入国を阻まれていた

 「18年間の空白」を埋めるように、

 寸暇を惜しんで動き、会い

 語り続けていく。

 大文化祭の前日には

 リハーサル会場を訪問。

 予定外の来場に沸き立つ

 二万余の同志に

 池田は「尊い仏の子であるわが友」と呼びかけ、

 どれほどの労苦と、美しい心と心の連携が

 あったことか・・・・・」と語りかける。


 「今、この木は小さい」。そばにある苗木を見て池田大作は言った。リオデジャネイロの町並みを一望する、コルコバードの丘に立っていた。1966年(昭和41年)3月。「どこへ行っても警察に行動を監視された」(『池田大作全集』第八七巻)という第二回ブラジル訪問である。

 「先生の近くに、小さな苗木が植わっていました」。

池田を案内した河内忠政、美智子夫妻が語り残している。

「先生はその木を見ながら、私たちに『しかし、10年、20年たったら素晴らしい木になる。リオの組織も同じだよ。真剣に題目をあげて皆で力を合わせていけばきっと大樹になるよ』と言われました。


   軍事政権の壁 ②


 池田を迎えた南米文化祭は当初、サンパウロ日本文化協会(当時)の講堂で行う予定だった。江森陽弘は同協会関係者の証言を報じている。その証言によると、同協会は政治警察から会場を変更しろと命じられ、命令に従わなければ「会場を包囲して機関銃で撃つ」とまで恫喝されていた。

 第二回ブラジル訪問は、南米文化祭をはじめ、すべての行事を無事故で終えることができた。しかしこの後、中南米最大のメンバー数を擁するブラジルは、軍事政権の壁に阻まれ、池田を迎えることができない状態が18年間も続く。

 ──1980年(昭和55年)11月。当時、高校生だったある壮年部員は、後頭部の代表として池田との懇談会に招かれた。早めに着いた彼らに、池田は「ちょっと待ってね」と言い、そのまま打ち合わせを続けた。

「先生は、机に大きな世界地図を広げ、来日した北南米の幹部たちに質問していました。おもにブラジルについての質問でした」。

 池田はブラジルの地図に指を置き、「この町の人口は何人?メンバーは何人?」「中心者は誰?」と矢継ぎ早に尋ねた。「彼女のお母さんの病気は治ったかな?」「彼の家族は元気かな?」「ここからここに移動するのは、どれくらいかかる?」「この都市なら文化祭ができるね」・・・・・周りの幹部たちは池田の勢いに食らいつくように、必死で答え続けている。その高等部員たちは目の前の光景に圧倒された。

 「ブラジルに行かれたのは、あの4年後です。先生自ら来るべき日のために、はるか前から一つ一つ手順を詰めておられた。現地のメンバーに二度と悔しい思いをさせたくない、という思いだったのではないでしょうか」


 軍事政権下の日々は、ブラジルSGIの一人ひとりを鍛えた。その苦闘を象徴する「サウダソン・ア・センセイ」という愛唱歌がある。次号では、この歌が生まれた背景に迫りたい。


    本日、先駆者たち──中南米篇(2)連載終了