「讒言に阻まれた」 ②
「あの1974年の悔しさがなかったら、今のブラジルの団結はなかったかもしれません」。そう語るのはブラジルSGI婦人部長を務めたエレーナ・タグチである。東京の墨田で生まれ、学会本部職員として4年近く働いた。
「先生はよく職場の黒板に『きょうのことは、きょうやろう』と書かれました。何百枚もの色紙に揮毫し、全国の学会員さんに贈られるのですが、私も経理の仕事のかたわら、色紙の墨を乾かす作業を手伝いました」。
家族でブラジルに渡ると時、池田から「何があっても10年頑張れ」と励まされた。
エレーナの夫エドワルド・タグチ派・43年間にわたってブラジルSGIを支えた柱の一人である。彼もまた池田から「ブラジルで信頼を築くには10年かかるぞ」と念を押されている。タグチは東京の荒川で生まれた。
「父は荒物の雑貨商でしたが、東京大空襲で家も商品も全部灰になりました。埼玉の幸手に疎開していた時には、グラマン戦闘機の低空飛行に遭い、とうもろこし畑の中に飛び込んだこともあります」。
14歳の時、父の久作が結核で亡くなった。母のみつと7人の子が残された。細々と続けていた雑貨商も行き詰まり、タグチは弟と一緒に新聞や牛乳を配って家計を支えた。
母のみつは「わたしのたいけん」と題する手記を残している。小学校にまともに通えなかったみつは生涯、ひらがなしか読み書きできなかった。池田に宛てて送る手紙も、みつの書いたひらがなの長文を娘が清書した。
「冬の凍てついた、まだ真っ暗な朝3時に送り出し、そして配り終えて氷のような手足をしてふるえて戻って来る息子達を迎え入れて抱きしめる度に”ごめんよ、無力な母さんを許して!”と心の中で泣いて息子達に詫びました。相変わらず毎日は借金の返済を迫る問屋の人達に追い詰められた日々でした」
「いっそ、子ども達を殺して自分も死のうかとの覚悟もいたしました。青酸カリは、どうしたら手に入るのかしらと真剣に考えたこともありました。或る夜、本当に寝ている子ども首に手を回してみたこともありました。だけど、どうしてこの可愛い子ども達を殺すことができましょうか・・・・・」
みつは幾つもの宗教を渡り歩いた。「もう宗教はたくさん」と思っていた時、亡き夫の病室仲間が訪ねてきた。学会員だった。「『信心をすれば必ず宿命転換する。生活もよくなる』と語る彼の確信に動かされ、母は信心を始めました」(タグチ)。1953年(昭和28年)11月である。まもなく信用貸しで商品を卸してくれる問屋があらわれ、雑貨商も少しずつ好転していく。