EIKOの気まぐれ闘病日記 -30ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  軍事政権の壁 ①


 池田がオオシダと初めて会った、この第二回ブラジル訪問は、初訪問の時と比べ、けた違いにブラジル社会の注目を集めた。「週刊朝日」記者だった江森陽弘は、当時の経緯をくわしく取材している。

「2年前にできた軍事政権は、創価学会がブラジルに政党をつくるのでは、とあらぬ偏見を持っていたんです。『ドップス』と呼ばれる政治警察が、池田会長の動きを徹底的に監視しました。ブラジル陸軍も動いていました」。

 政治警察に監視された、不自由なスケジュールである。ブラジル婦人部の中心者だったシルビア・サイトウは、池田に「申し訳ありません」と謝った。池田は「私は大丈夫だよ。広布の途上で銃に撃たれるなら本望じゃないか」と答えた。ブラジルの現地メンバーに危害が及ばないよう心を砕き続けた。

 江森の記事は緊迫した空気を伝えている(1974年1月18日号)。

「ブラジルのドップスは160人の警官を動員、うち40人の日系警官を私服にし、学会のバッチをつけさせて学会員になりすまし・・・・・文化祭に出た来賓や運転手までもリストアップした。このほか、関係者130人がドップスのシントラ警視長に呼ばれ、事情聴取されたという」。

 しかし「いくら聞かれても、調査されても、政治の一かけらも出てこない。誤解されたのだった」。「他宗教から『創価学会はファッショだ』という中傷がはいった」ことも弾圧の要因だった。


 池田は各メディアからの取材要請に自ら応じ、誤解を解く努力を続けた。UPI通信社や地元紙、週刊誌の取材を受け、日系社会に影響力のある「バウリスタ新聞」にもインタビューが載った。有力週刊誌「マンシェッテ」の記者は、池田の姿勢を高く評価し、「我々、キリスト教徒(=記者)と仏教徒(=池田)の二人は、ごく自然に融け合ったのである」とインタビュー記事を結んでいる。

 前から考えていたのですが、アメンバーの方で全く


アメーバから離れてしまった方が多くおられます。


残念なのですが、一度アメンバーを解除することに


しましたのでお知らせします。


宜しくお願いします <(_ _)>

  「生涯親友として」 ②


 オオシダは休日になると、池田からの手紙をポケットに入れ、バスを乗り継ぎ、一日がかりで知人たちのもとを訪ね続けた。

 初めての弘教が決まった時、アルゼンチンに移住してから3年が経っていた。初めての座談会は、ブエノスアイレス郊外のエスコバールという町でおこなった。翌年、独立して自分の農園を持つことができた。さらにその翌年にはブエノスアイレス州の品評会で、改良を重ねたカーネーションが1位を勝ちとった。日本で磨いた腕が一気に花開いた。そして26歳の若さで、日本アルゼンチン花卉組合の栽培研究部長に抜擢される。

 3年後の1966年(昭和41年)3月。池田はサンパウロにいた。2度目のブラジル訪問である。オオシダもサンパウロまで駆けつけた。3月13日、私立劇場での南米文化祭が終わった後、オオシダは宿舎で池田を待った。

 「よく来た!本当によく来てくれた!」。池田は初めて会うオオシダを抱きかかえるようにして部屋に招き入れた。「君に会える日を楽しみにしていたんだよ。それにしても、よく頑張った」。池田は「仕事の調子はどうだ?儲かっているか?」「アルゼンチンの皆は元気か?」と次々に尋ね、オオシダは夢中で答えた。この2年前、アルゼンチンにはすでに二五世帯ほどで支部が誕生していた。

 私に代わってアルゼンチンの人たちを幸せにしてほしい──池田は小説『人間革命』の見返しに、


  生涯同志として


  親友として進まん


 と記し、その場でオオシダに贈った。そばにいた妻の香峰子も「アルゼンチンではあまり食べられないのではないかと思いまして」と声をかけ、手作りの焼そばをふるまった。

「あの時にほおばった焼きそばの味は、今でも忘れられませんよ」。オオシダは破顔して振り返る。

 後年、オオシダは農園主から花の委託販売に転身。ブエノスアイレスの中心街に移り住み、34年にわたってアルゼンチンSGIの中心者として、法人の理事長を務めた。

「先生の激励に次ぐ激励と、支えてくださった同志の皆さんへの感謝の思いは尽きません」。

  「生涯 親友として」 ①


 ほどなくオオシダは、池田が会長になったことを知り、さらにアメリカとブラジルを訪れることを知った。アルゼンチン在住の学会員は、未だオオシダ一人だった。「矢も楯もたまらず、自分の仕事の状況と、『ブエノスアイレスにも来ていただきたい。せめて空港で一目だけでもお会いしたい』というお願いを書いて送りました」。

 これに対しても池田は丁寧にペンをとり、三通目の手紙を送っている。池田がオオシダに宛てたこれら三通の文面には、「仏法を弘めよ」「会員数を増やせ」などという命令は、ただの一言も書かれていなかった。池田はまだ見ぬ友に、ただただ「あなたが幸福になることが大切だ」「あなた自身が信仰を貫くことこそ大切なのだ」と訴え続けた。

 「お手紙拝見しました。お元気の由、自分の如くうれしいですよ。

 私は全世界に居る同志の幸福のみを願って居ります。折角ですが、ブエノスアイレスには日程の都合上どうしてもゆけません故御諒承下さい。もし飛行機でもお会い出来得れば、どれ程私の方がうれしい事でしょう。

 しかし、貴君も忙しい身体故 決して無理はせぬように。弥々強情なる信心に励み,大功徳をうけ、有意義な一生をお互いに送ろうよ」

 ───もしも会えれば、どれほど私の方がうれしいことか。だが無理はしないように──この時オオシダはどうしても農業を休む都合がつかず、サンパウロには行けなかったが、懇切を極めた池田の心遣いに胸を熱くした。

 池田の手紙はさらにこう続く。

 「誰人が批判しようが、三障四魔があろうが、ゆめゆめ疑わず信心に精進する事です。佛の金言にうそのあるはずがないのです。願はくば妙法に照らされ、大陸の学会の先駆者として大勝利の人となられん事を祈るものです」

 そして末尾には「御書にいわく南無妙法連華経は獅子吼の如し。いかなる病さわりをなすべきや」──この題目は「獅子吼」(=仏の最強の教え)である。どんな病も妨げになることはない──という日蓮の言葉が記されていた。