「生涯親友として」 ②
オオシダは休日になると、池田からの手紙をポケットに入れ、バスを乗り継ぎ、一日がかりで知人たちのもとを訪ね続けた。
初めての弘教が決まった時、アルゼンチンに移住してから3年が経っていた。初めての座談会は、ブエノスアイレス郊外のエスコバールという町でおこなった。翌年、独立して自分の農園を持つことができた。さらにその翌年にはブエノスアイレス州の品評会で、改良を重ねたカーネーションが1位を勝ちとった。日本で磨いた腕が一気に花開いた。そして26歳の若さで、日本アルゼンチン花卉組合の栽培研究部長に抜擢される。
3年後の1966年(昭和41年)3月。池田はサンパウロにいた。2度目のブラジル訪問である。オオシダもサンパウロまで駆けつけた。3月13日、私立劇場での南米文化祭が終わった後、オオシダは宿舎で池田を待った。
「よく来た!本当によく来てくれた!」。池田は初めて会うオオシダを抱きかかえるようにして部屋に招き入れた。「君に会える日を楽しみにしていたんだよ。それにしても、よく頑張った」。池田は「仕事の調子はどうだ?儲かっているか?」「アルゼンチンの皆は元気か?」と次々に尋ね、オオシダは夢中で答えた。この2年前、アルゼンチンにはすでに二五世帯ほどで支部が誕生していた。
私に代わってアルゼンチンの人たちを幸せにしてほしい──池田は小説『人間革命』の見返しに、
生涯同志として
親友として進まん
と記し、その場でオオシダに贈った。そばにいた妻の香峰子も「アルゼンチンではあまり食べられないのではないかと思いまして」と声をかけ、手作りの焼そばをふるまった。
「あの時にほおばった焼きそばの味は、今でも忘れられませんよ」。オオシダは破顔して振り返る。
後年、オオシダは農園主から花の委託販売に転身。ブエノスアイレスの中心街に移り住み、34年にわたってアルゼンチンSGIの中心者として、法人の理事長を務めた。
「先生の激励に次ぐ激励と、支えてくださった同志の皆さんへの感謝の思いは尽きません」。