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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「よき友がほしい」 ②


 1年後、オオシダは再び池田に手紙を書いた。アルゼンチンの学会員は依然、オオシダ一人だけだった。

「まだ一人も弘教が実らない悩みや、学会員だという理由だけで中傷され、反論できない悔しさ、学歴がないこと、語学の壁に苦しんでいること、思いのたけを書きました」。

 池田からの返信は、便箋3枚の長文だった。

 「大信田君、再度、芳書を受く。若人として大陸に渡りし、日本男子として不撓不屈の精神で自己の使命を成就されん事を祈って居る」

 一字一句、オオシダはむさぼるように読んだ。

 「題目を声高らかにあげ、勇敢に堂々と 生活に 事業に戦い、大陸の大勝利者になり給え。これが折伏であり信心ではなかろうか」

 「学歴が何だ。批判される事が何だ」「最高の人生なのだ」「君は君の所信でゆけば、それで宜しい、大勢は時代が決定する」「君はあくまで君の確信に、男らしく、日本男子らしく 生きる事だ。最後に第一に信心、第二に題目、第三に教学を忘れぬ様に」

 オオシダはこの手紙を上着のポケットに入れて、どこに行くにも持ち歩いた。

 「大勢は時代が決定する」──その「時代」そのものを、池田は自らつくりだそうとしていた。池田が創価学会第三代会長に就任するのは、この手紙を書いた約ひと月後である。

 便箋の日付は「3月26日」だった。池田は、この4日前の22日から発熱し、「気分、悪し」「一日中、身体の具合悪し」(『池田大作全集』同)という状態が続き、24日と25日は自宅で休みをとっている。3月26日(土曜)の日記には、「微熱あり」「皆、身体のことを心配してくれる。すまぬ気持ちであった」「夜遅くまで、種々指導をする」「熱、再び出る。困った」とある。翌27日(日曜)も「午前中休む。身体だるくて仕方なし」というつらい状況だった。

 「学歴が何だ。批判される事が何だ」「大陸の大勝利者になり給え」という火を吐くような励ましは、発熱の苦しみの時間を縫うようにして書かれた。

   「よき友がほしい」 ①


 オオシダの兄は結核を患い、治療費がかさんだ。

「経済苦に悩んだ両親は創価学会に入りましたが、私は無関心でした」(カズオ・オオシダ)。

 定時制高校に通っていた時、アルゼンチンに住む父の親友から「日本人がアルゼンチンで食べていくには陶芸、クリーニング、花の栽培のうち、どれかの腕を磨いてくることだ」と教わった。オオシダは夜学を中退して、神奈川の農園で働きながら花づくりの技術を学んだ。母親が何度か来てくれた。

「暗かった母が、会うたびにはつらつと元気になっていくんですよ。両親の変わっていく姿を見て、親孝行の意味もこめて信心を始めました」。

 入会して一年後の1958年(昭和33年)9月、22歳のオオシダはアルゼンチン行きの船に乗った。

「男子部の先輩が、はなむけに御書を贈ってくれました」。


 ブエノスアイレス近郊の農園で働きながら、オオシダは学会員を探して回った。

「一人も見つかりませんでした。私自身がアルゼンチンに仏法を弘める最初の学会員なのだと自覚したのは、しばらくしてからです」。

 オオシダに対して「ここはカトリックの国だぞ。あんたが創価学会だと知られたら子どもが学校に行けなくなるぞ」と脅す日本人すらいた。

 困ったオオシダは、東京の江戸川に住んでいた姉に手紙を書いた。

 「姉からの返信には、東京の学会本部には池田大作という方がいます、池田総務に手紙を書いて指導を仰ぎなさい、と書かれていました」。

 オオシダはそれまで池田の存在を知らず、もちろん会ったこともなかった。しかし、姉に勧められたとおりにした。

「自分の仕事の状況や、アルゼンチンには相談する相手もいないことを書いて投函しました」。

 しばらくして、オオシダのもとに一通の手紙が届いた。東京からだった。「まさか来るとは思っていなかった」という池田からの返事だった。

 急いで封を切った。「お元気なお手紙拝見致しました」 ── 縦罫15行の便箋二枚に、池田の文字が躍っていた。

 池田はまず、一粒種のオオシダがアルゼンチンで活躍していくこと自体が「世界の黎明を意味して居る」と励ました。そして「職務(仕事)の勝利者になられます事を祈って居ります」「未曾有の世界に 未曽有の信心の人生を 元気一杯に生きられます様祈って居ります」、さらに「希望と 勇気と 確信をもって、堂々たる人生をかっぽ(闊歩)されん事を」と期待を綴った。

 オオシダにとって思いもよらない便りだった。

「初めて読んだ時、胸が震えましてね・・・・。毎朝のように読み返しました」。

 便箋の末尾には「1月7日」と記されていた。この日、池田自身の日記には次のようにある。

 「快晴」「午後3時から──本年初の連合会議」「帰り、老いたる理事長、理事らと焼き鳥を食す。進歩的な話題全くなし。若き、よき友がほしい。未来の清新の友が、側にほしい」(『池田大作全集』第三七巻)

 戸田城聖亡き後、池田はすでに総務として、創価学会の屋台骨を支えていた。「若き、よき友がほしい」と切実な思いを記した同じ日に、池田は「日本から最も遠い国」で一人悩む「若き、よき友」に向けて、励ましの言葉を綴っていたのである。

 皆さん、いつもありがとうございます。<(_ _)>


 今日は珍しく朝から気分も体調もよかったので、洗


濯や掃除、等々片付けものをしてはかどりました。


 久々に一日家事をしました。


 私の家の近くに日本一の池田記念講堂が完成し、


喜びに湧いています。


 2,3日には記念勤行会も行われ、大勢の方々の


行列ができていました。


 明日からは自由に見学できるそうでとても楽しみです。


 

  「昨日はメキシコに行った夢をみたよ」


 池田はルイス岩垂に何を語ったのか。

「あの夜、池田先生は私に『あなたは戸田先生と同い年ですね』と話しかけられたんだ」。岩垂は後年、タナカにそう語り残している。

 岩垂は、戸田城聖と同じ1900年(明治33年)生まれだった。

「池田先生はあの時、岩垂さんに『戸田先生の夢』を話されたのかもしれません」(ツネオ・タナカ)。

 池田の師・戸田城聖は、池田がメキシコを訪れる7年前の春、58年の生涯を閉じた。亡くなる数日前、戸田は池田を枕元に呼んで、


 「大作、きのうはメキシコへ行った夢を見たよ」「待っていた、みんな待っていたよ」


 と語っている。池田に「君の本当の舞台は世界だ」「うんと生きろ」と遺言したのもこの時だった。

 日本人がメキシコへの組織的な移民を始めた時期は、じつはブラジル移民よりも早い19世紀である。そうした歴史もまた、最晩年の戸田がメキシコを夢見たきっかけかもしれない、と池田は綴っている。

 ──二年の獄中生活を強いられた戸田先生は、還暦を迎えることなく命を終えた。このメキシコの地で、還暦を過ぎてから信心を始めた岩垂さんに、戸田先生の夢を叶えてほしい。あなたが40年間、メキシコで体験してきた苦労には、すべて意味があるんです──メキシコシティの宿舎の一室で、池田はこうした思いを岩垂に語った。

 岩垂はこの時、これまで辛酸をなめてきたメキシコの地で、法華経に説かれる「地涌の菩薩」として生きる道を選んだ。


 池田がメキシコを発ったのはその翌日である。ツネオ・タナカは空港まで見送りに行った。池田はタナカの手を握り、「メキシコはまだまだ青年部は少ないが、君が立ち上がればいい」と励ました。

 「すべては一人から始まる」「広宣流布の成否は、先駆者の双肩にかかっている」「どんなにつらいことがあっても、絶対に負けちゃいけないよ」

 タナカは池田の言葉を聞きながら「先生の顔が涙で見えなくなった」と語る。「私は池田先生に会うまで、自分を卑下していました。貧乏で、学歴もない。スペイン語も喋れない。会社も潰れそうで給料も出ない。しかし先生は、そんな私にも『必ず使命がある』と言われた。私の勤め先は翌年倒産しましたが、日本に帰らず踏ん張りました。それが先生との約束だったからです」。

 2年後、タナカは日産自動車の整備会社に就職し、やがて独立。自動車部品の販売会社社長として成功していく。

 「オリンピックまでの三年間、毎日、岩垂さんご夫妻の家で座談会を開きました。話を聞く人がいれば、正月でも座談会を開きました」

 メキシコオリンピックの年───メキシコの学会員の数は、池田が示した500世帯をはるかに超えて、じつに700世帯にまで広がっていた。ルイス岩垂「戸田城聖の夢」をわが夢として生き抜き、メキシコシティで83年の生涯を終えた。

 池田の初訪問から四半世紀が過ぎた1992年(平成4年)、メキシコ憲法が改正された。メキシコSGIは正式に宗教法人として登録された。

「メキシコ全体で36番目の登録でした。ほとんどがカトリックで、仏教団体では初の登録です」(ツネオ・タナカ)。来年の秋には、あの独立記念塔の近くに新しい会館が完成する。


 創価学会が発展するにつれて池田は多忙になり、池田自身が直接会って励ますことのできないメンバーが増えていった。そうした人々に宛てて、池田はペンを執り続けた。中南米の各地にも、池田からの手紙が数多く残されている。

「ブエノスアイレスの家に池田先生からの手紙が届いたのは、1959年1月13日でした」。アルゼンチンSGI名誉理事長のカズオ・オオシダもまた、手紙を通して励まされた一人だ。

 オオシダは1936年(昭和11年)に秋田で生まれ、22歳でアルゼンチンに渡った。

「戦争中は、何度かランドセルを背負ったまま防空壕に逃げ込みました。敗戦の年に9歳でしたが、とにかく食べ物がなくて困ったことを覚えています」。

 父の親友がアルゼンチンで農園を営んでいた。敗戦後の困窮を伝え聞いた親友は、オオシダ家に救援物資を送った。

「きれいなノート、鉛筆、ビスケットにドロップ、当時の秋田にない物ばかりで、輝いて見えました。子ども心に、いつかアルゼンチンに行きたいと思いました」。