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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 「オリンピックまでに五百世帯を目指す」 ②


 1965年(昭和40年)8月17日、池田はメキシコを訪れた。翌18日の座談会に参加したタナカは、池田が示した目標に度肝を抜かれた。

 メキシコは3年後にオリンピックを開く。その時までに五百世帯を目指そう───タナカはその場でメキシコ男子部の中心者に任命されている。

「当時のメキシコは26世帯です。『3年で500世帯』は、途方もない目標に思えました」。

 さらに驚くことがあった。座談会を終えた後、タナカは岩垂夫妻に連れられ、池田の泊まっているホテルに向かった。

「時間も遅かったので、私はロビーで待っていました」。

 池田と岩垂夫妻の懇談は1時間近く続いた。岩垂と妻のまち子がロビーに戻ってきたのは、午後11時近くだった。その姿を目にしてタナカは絶句した。

「泣いている岩垂さんを見たのは初めてでした」。

 戦前移民のルイス岩垂は、タナカにとって「頑固な明治の日本人」という印象が強かった。

「でも、あの日を境に、岩垂さんの振る舞いも、性格も、まるで変わりました。たった一度の出会いで、人はこんなにも変わることができるのか、と心底驚きました」。


 目を赤くした岩垂を先頭に、3人は黙ったまま、雨で濡れた深夜のレフォルマ大通りを歩いた。岩垂はメキシコのシンボルである『独立記念塔」の前で立ち止まった。孫ほど年の離れたタナカの両手を握った。

 「『ツネオ君、ぼくはメキシコの広宣流布に命を懸ける。君も一緒に闘ってくれますか』と言われました。私は『やりましょう』と答えました」

 「オリンピックまでに五百世帯を目指す」 ①


 中南米諸国のうち、池田はまずブラジルを訪れた。次に選んだ訪問先はメキシコである。(1965年8月)。

 前号の冒頭、アマゾンの中心者だった中尾久侍の人生に触れた。あの中尾と同じように、池田の綴った「青年よ世界の指導者たれ」の一文を読んで海を渡った若者がいた。メキシコSGI副理事長のツネオ・タナカである。

「先生の文章を読んで海外に行くぞと決めたのは、19歳の時でした」。

 タナカは大阪の城東区で育った。父親が重い胃潰瘍を患っていた。窮状を見かねた叔父の紹介で1954年(昭和29年)、家族そろって学会に入る。定職につけない父のかわりに、中学を卒業した兄は働きに出て、弟のタナカ自身も小学五年生から靴屋の下働きを始めた。中学時代も働き続け、夏休みも冬休みもなかった。高校進学もあきらめた。

「いくつか転職した後、臨時工で松下電器に入り、資材管理の仕事をしていました」。

 タナカが19歳の秋、関西で初めての文化祭が兵庫の甲子園球場で行われた。(1963年11月)。その練習の合間、男子部の仲間数人と「青年よ世界の指導者たれ」を読み合わせた。

「大阪城の公園でした。何度も読みました。これから広がる仏法を、世界のどこでもいいから俺も弘めたい。強烈にそう思ったんです」。


 「メキシコの家電製造会社で働いてみないか」。父の知人から誘われたのは21歳の時だった。

「英語もスペイン語もわかりませんでしたが、『お願いします』と即答しました」。

 意気揚々と海を渡った。しかし、すぐ壁にぶちあたった。

「私が移住した時、メキシコシティには日本人の学会員が数人いましたが、勤行を最後までできる人は一人もいませんでした」。

 彼らの信仰の教えは、日本から届く3カ月遅れの「聖教新聞」だけだった。それも郵送費が高額のため、一部だけ購読し、ボロボロになるまで読み回し読みしていた。

 組織は無きに等しい。大阪の男子部で鍛えられていたタナカだが、「日本では、すでにできあがった組織しか知らなかった」と痛感した。言葉もわからない国で、一から「創価学会」をつくらねばならない。

 さらに、父の友人から紹介された勤め先は倒産寸前だった。移住して早々、すべてが想像と違っていた。「日本に帰ろうか」と思った。

 この時メキシコには、人生の再起を賭けて創価学会の信仰を選んだ、初老のの男性がいた。メキシコ初代支部長のルイス岩垂である。

「私がメキシコに移住した時、岩垂さんはすでに還暦を過ぎていました」とタナカが語る。「メキシコに住む日本人のなかでも、屈指の成功を収めた実業家です」。

 岩垂がメキシコに来たのは、関東大震災の起こった1923年(大正12年)である。路上で果物を売るところから商売を始め、やがて農場や硫黄の鉱山まで手に入れ、社員数は500人を超えた。

 しかし、第二次世界大戦で日系人の財産は凍結された。店に放火されたこともある。戦後は虎の子の土地をだまし取られた。頑丈だった体も弱り、進退窮まった時、日本の親戚が送ってくれた聖教新聞を読み、2年前に入会したばかりだった。

 タナカは、その岩垂から「ツネオ君、3ヶ月後、池田先生がメキシコに来られるよ」と告げられた。



    最高の遺産


 「池田先生が初めてブラジルに来られた年に、じつは私の父も、日本から来た移民の方から仏法の話を聞いていたんです」。

ブラジル最大の製薬会社で営業部長を務めるダンテ・ランディが語る。

 当時、ダンテの父ジョゼはサンパウロで工場を経営し、母のマダレナは高級ブティックを三店舗も営んでいた。何不自由ない生活を送っていたジョゼは、貧しい日本人移民の話を歯牙にもかけなかった。

 しかし4年後、国のかたちが一変する。ブラジルの首都ブラジリアは斬新な都市計画で知られる。現在、その町並みは世界遺産に登録されているが、建設費がふくれあがった当時、ブラジルは年間50㌫超もの急激なインフレに見舞われた。国民の信頼を失った政府は軍に乗っ取られ、21年間に及ぶ軍事独裁政権が始まったのである。

 ジョゼの工場は50万㌦の負債を抱えた。一家は長距離バスの運転手に頼み込み、サンパウロからリオデジャネイロへ移り住んだ。

「リオのアパートにはベットが一台、コンロ一台しかありませんでした。私たち兄弟四人は床に寝そべるしかありませんでした」(ダンテ・ランディ)。

 父のジョセフはタクシー運転手などで食いつなぎ、なんとか衣服の小売店を開業した。母のマダレナも洗濯を請け負って日銭を稼いだ。

 少し儲けては景気の波にさらわれる繰り返しで、経済的な満足は「いつも砂の城のように崩れ去った」とダンテは振り返る。さらに、母のマダレナは右足がむくみ、黒ずんで硬くなる象皮病を患った。

「右足を切断しなければ命にかかわる」と医師に告げられた。

「両親の関係も悪かった。そんな時でした。父が再び仏法の話を聞いたのは」。

 未払い手形の催促でジョゼの会社を訪れた男性が学会員だった。彼は夫妻の状況を見かねて仏法の話を切り出した。二人にとって「一度聞いたことのある話」だった。「この足が治ったら、広宣流布のために命を捧げます」。

マダレナはそう決めて祈り始めた。1978年(昭和53年)、ランディ一家は創価学会に入った。


 マダレナは、弘教に歩くと「貧乏で象足の人間が何を言っているんだ」と何度もバカにされた。しかし象皮病は徐々に快方に向かい、やがて完治した。ジョゼの小売店も繁盛し始めた。

「私もあきらめていた大学に復学できました。母は懸命に弘教を重ねました。『仏法を教えてくれた池田先生にお礼を言うこと』が母の願いでした」(ダンテ・ランディ)。その願いは2002年(平成14年)、東京の本部幹部会で実現した。

 ブラジルを代表して、マダレナとダンテの弟エンリケが訪日することになった。マダレナは長旅に備えて健康診断を受けた。その時の医師二人にも仏法を語り、二人とも入会をしている。

 「きょうは、遠くブラジルからも、偉大な『広宣流布のお母さん』が見えておられる」──池田は本部幹部会の席上、マダレナの半生を紹介した。70歳を過ぎたマダレナは、微笑みながら立ち上がった。

 「マダレナさんは入信してより、じつに485世帯の個人折伏を成し遂げた方である」。並みいる幹部の集まった会場から、驚嘆などよめきが起こった。「3年前に亡くなられたご主人、またお子さま方と合わせると、折伏の数は、ご一家で、730世帯を超えるという」。割れるような拍手の波のなかで、池田はマダレナに「オブリガード!(ポルトガル語で『ありがとう』)」と伝え、さらに語った。

 「日本中、世界中、あの地にも、この地にも、こうした”公布の宝”の方々がおられる。それを決して忘れてはならない」「大功労者である。いかなる世間の功績よりも尊い」

 父のジョゼ・ランディは、その生涯で191世帯に仏法を広げた。母のマダレナは池田との出会いの後、さらに250世帯を超える人々に弘教。昨年、85歳の長寿をまっとうした。

 「母は749世帯の弘教を実らせました。いつも『御本尊の扉を開くことは、勝利の扉を開くことなんだよ』『題目を唱えるなら、誰かのために唱えなさい。そうすればすべてがうまくいくから』『池田先生とともに進みなさい。そうすれば何も恐れるものはないのよ』と語っていました。両親が残してくれた最高の遺産を、家族全員で引き継いでいます」(ダンテ・ランディ)

  ブラジルの恩を忘れてはいけない ②


 門馬重夫の長男サトシは、シャー・フローラの座談会から帰ってきた父と母のやりとりを鮮明に覚えている。母のトミが「お父ちゃん、どうだった?」と聞くと、重夫は何度も「すごい人だった」と繰り返した。池田のことだった。そして「俺はきょう、すごい人から班長の任命を受けたんだ」と胸を張った。「母が『班長って何をするの?』と聞くと、父は『それが俺もよくわからん』と言っていました。一からのスタートでした」。

 門馬夫妻は翌年、農場から独立し、切り花で生計を立てるようになる。やがてクリスマス用のヒバの木や芝生の栽培に切り替え、事業を発展させた。後年、サトシは父の夢を継いで、グアルーリョスに150席の仏間を擁する個人会館を建てた。

 松浦夫妻も2年後に独立。ミナスジュライスでジャガイモ農場を経営した。二人の娘であるヤスコ・ヒライの夫、リョウスケは「サンパウロから帰ってきてからの二人の真剣な姿を見て、私は池田先生のすごさを知りました。先生の勢いがそのまま両親に移ったようでした」と語る。

 「家には車がなかったので、畑を耕すトラクトール(=トラクター)に乗って折伏に行きました。ポソス・デ・カルダスに住んでいた日本人で、両親が対話していない人は一人もいないと思います」


 松浦嘉明と君子は、ともに90歳近くまで長寿をまっとうした。

「両親には孫の家族が全部で140人ほどいますが、全員信心しています」(ヤスコ・ヒライ)。松浦の孫の一人、ネウソン・マツウラは、1984年(昭和59年)に行われた「ブラジル文化祭」で、男子部が挑んだ「五段円塔」の頂上に立った。また、孫のウィルソン・ヒライとロベルトの兄弟は音楽隊の指揮を執った。

 「先生は、北米で体調を崩したにもかかわらず、無理をしてブラジルまで来られて、一つの支部と三つの地区をつくられました。あの時『種』が植えられなかったら、今のブラジルSGIはありませんでした」(エミコ・サカワ)

  ブラジルの恩を忘れてはいけない ①


 「あの日から、私の本当の信仰が始まりました」と語るのは、ブラジルSGI参議のフクコ・オダである。今年85歳を迎える。

「先生を空港で出迎えた時の憔悴された様子と、翌日からの座談会での見違えるような生命力と、『本当に同じ人なのか?』と疑いました」。

 池田はコンゴニアス空港で歓迎を受けた後、宿舎の鏡で自分の顔を見て「しまった」と思っている。体調を崩し、時差もあり、ひげもそれないほど疲れていた。出迎えた人たちを心配させてしまったのではと悔やんだ。

 「それが、座談会での一問一答の力強さは『輝いている』と表現したいくらいでした。私はあの姿を目の当たりにして、『この信心ってすごいんだ』と実感したんです」(フクコ・オダ)

 オダは1929年(昭和4年)、東京で生まれた。

「父は当時の下谷区(現在の台東区)に住み、時計や宝石の箱をつくる職人でしたが、関東大震災で家を焼け出されました。震災以来の苦労がたたったのか、両親ともに私が9歳の時に病気で亡くなりました」。

 兄夫婦のもとに身を寄せ、大森区(現在の大田区)の鵜の木に住んだ。兄は戦争で徴兵された。アメリカ軍による東京大空襲では九死に一生を得た。

「兄嫁と二人で、近くに掘ってあった防空壕に逃げ込みました」。

 オダは防空壕の中でうずくまり、大人たちの足の間から見た外の景色が今も忘れられないという。

「焼夷弾が、きれいな等間隔でどんどん落ちてきました。私たちのいた防空壕は逸れてくれて、助かりました」。

 結婚後の1955年(昭和30年)、兄夫婦のすすめで信心を始めた。サンパウロに移住したのはその4年後だった。


 シャー・フローラでは池田を囲んだ質問会が続いている。手を上げたのは壮年だけではなかった。家庭の悩みを打ち明ける母親もいた。夫が早世し、生きる意味を失ったという女性もいた。

「一人のお母さんの質問を覚えています」(フクコ・オダ)。

サンパウロの学校には、必然的にキリスト教の影響が色濃い。その母親は自分の子どもを通わせるのに不安を感じていた。

 「先生は、まず『私たちはブラジルにお世話になっている、その恩を忘れてはいけないよ』と確かめられました。そのうえで、学校の行事で祈るような時には『心の中で題目を唱えればいい』『なにかあれば、私は仏教徒です、と堂々と言いなさい』と。そのお母さんもすっきりされていました」

 この座談会の後、代表メンバーとの懇談で池田は「幹部のあり方」を丁寧に確かめている。──ブラジルはこれから、間違いなく発展するだろう。皆さんは自分が「花」や「実」になろうとしてはならない。どうか後に続く人々のために、ブラジルの「土」になってほしい──そう訴えた。