ブラジルの恩を忘れてはいけない ①
「あの日から、私の本当の信仰が始まりました」と語るのは、ブラジルSGI参議のフクコ・オダである。今年85歳を迎える。
「先生を空港で出迎えた時の憔悴された様子と、翌日からの座談会での見違えるような生命力と、『本当に同じ人なのか?』と疑いました」。
池田はコンゴニアス空港で歓迎を受けた後、宿舎の鏡で自分の顔を見て「しまった」と思っている。体調を崩し、時差もあり、ひげもそれないほど疲れていた。出迎えた人たちを心配させてしまったのではと悔やんだ。
「それが、座談会での一問一答の力強さは『輝いている』と表現したいくらいでした。私はあの姿を目の当たりにして、『この信心ってすごいんだ』と実感したんです」(フクコ・オダ)
オダは1929年(昭和4年)、東京で生まれた。
「父は当時の下谷区(現在の台東区)に住み、時計や宝石の箱をつくる職人でしたが、関東大震災で家を焼け出されました。震災以来の苦労がたたったのか、両親ともに私が9歳の時に病気で亡くなりました」。
兄夫婦のもとに身を寄せ、大森区(現在の大田区)の鵜の木に住んだ。兄は戦争で徴兵された。アメリカ軍による東京大空襲では九死に一生を得た。
「兄嫁と二人で、近くに掘ってあった防空壕に逃げ込みました」。
オダは防空壕の中でうずくまり、大人たちの足の間から見た外の景色が今も忘れられないという。
「焼夷弾が、きれいな等間隔でどんどん落ちてきました。私たちのいた防空壕は逸れてくれて、助かりました」。
結婚後の1955年(昭和30年)、兄夫婦のすすめで信心を始めた。サンパウロに移住したのはその4年後だった。
シャー・フローラでは池田を囲んだ質問会が続いている。手を上げたのは壮年だけではなかった。家庭の悩みを打ち明ける母親もいた。夫が早世し、生きる意味を失ったという女性もいた。
「一人のお母さんの質問を覚えています」(フクコ・オダ)。
サンパウロの学校には、必然的にキリスト教の影響が色濃い。その母親は自分の子どもを通わせるのに不安を感じていた。
「先生は、まず『私たちはブラジルにお世話になっている、その恩を忘れてはいけないよ』と確かめられました。そのうえで、学校の行事で祈るような時には『心の中で題目を唱えればいい』『なにかあれば、私は仏教徒です、と堂々と言いなさい』と。そのお母さんもすっきりされていました」
この座談会の後、代表メンバーとの懇談で池田は「幹部のあり方」を丁寧に確かめている。──ブラジルはこれから、間違いなく発展するだろう。皆さんは自分が「花」や「実」になろうとしてはならない。どうか後に続く人々のために、ブラジルの「土」になってほしい──そう訴えた。