EIKOの気まぐれ闘病日記 -33ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 皆さん、いつもありがとうございます <(_ _)>


早いものでもう10月になり、10日が過ぎました。


 実家を売却することになって、実家に残っていた私


と息子の荷物が予想以上にあって、結局引っ越し屋


さんを頼むことになりました。


 6月の引っ越しの時の段ボールがやっと片付いた


のに、またまた段ボールが沢山です。(-_-;)


 最近は毎日片付けものに追われる毎日で、連載


が中断してしまい、申し訳なく思っています。


 朝晩涼しくなりましたね。お体ご自愛くださいね!

 「この信心さえすれば豊作になる」は大間違いだ


 彼らが集まった座談会場はガルボン・ブエノ通りのレストラン「シャー・フローラ」(お茶の花)である。

 かつて日本人移民が集まっていたコンデ街は、第二次世界大戦によって廃れてしまった。戦後はサンパウロの中心部、セー広場の南に広がる「リベルダーデ地区」が「世界最大の日本人街」と呼ばれるようになる。

 日本の敗戦から8年後、1953年(昭和28年)に誕生した映画館「シネ・ニテロイ」を中心に、日本人街が広がっていった。

 「シャー・フローラはシネ・ニテロイの隣にありました。レストラン兼集会所のようなお店です。日本人街のど真ん中に池田先生を迎えました」(エイイチ・サゴウ)

 シャー・フローラにたどり着いた松浦嘉明は、ある壮年の顔を見て思わず「おまん、どうでよ(あんた、元気だったか)!」と声をかけた。

「高知で隣村に住んでいた、父の顔見知りだったそうです」(ヤスコ・ヒライ)。お互いにブラジルへ移住したことは知っていたが、その壮年も移住先で創価学会に入っており、お互いに「彼を折伏しよう」と思っていたことがその場でわかり、大笑いした。集まった60人ほどのなかには、交通の便が悪く、三日三晩かけてたどり着いた人もいた。午後一時前、池田がシャー・フローラに到着した。


 12歳だったエミコ・サカワは、その場で池田から「グアラナ」という炭酸飲料をもらったことを鮮明に覚えている。

「ブラジル人なら誰でも知っているジュースです。参加者全員にふるまわれました」。

 「私はまだ子どもだったので、会合の中身は覚えていません。でも、参加した人たちが先生に真剣にぶつかっていくあの緊張感、たくさんの質問に対して懸命に応じる先生、そして、あとからあとから人が集まってきたことが印象に残っています」と振り返る。

 北米で池田を迎えた人々には婦人部が多かった。日本の敗戦後、占領軍のアメリカ人と結婚して渡米した「戦争花嫁」と呼ばれる女性たちである。いっぽう、農業移民が大半のブラジルでは壮年部が多かった。日焼けした男たちは節くれ立った手でコップをつかみ、池田の心尽くしのグアラナを口に運んだ。

 「形式は抜きにして、いろいろ話し合いましょう」「自由になんでも聞いてください。私はそのために来たのですから」。池田は時間のほとんどを質問会にあてた。

 「最初に質問したのは私でした」。キゾウ・サクラモトが語り残している。サクラモトは真っ先に手を上げ、「自分の仕事は農業であります」と話し始めた。新しい種類の野菜を作り始めたが、不作で借金を増やしてしまった、どうすればいいか、という質問だった。

 池田は逆に尋ねた。不作の原因は何だったのか?同じ野菜を育てて成功した人を知っているか?肥料に問題はないか?手入れに問題はないか?いま耕している土壌と、育てている品種の関係はどうか?

 「どの質問にも、夫はまともに答えられなかったそうです」。妻のサキコは語る。「農業を甘く見ていたんです。先生はその甘さを見抜かれました」。

信心さえしていれば豊作になるなどと思っているなら、それは大間違いですよ──池田はこんこんと諭した。

 仕事で同じ失敗を繰り返さないためには、なぜ失敗したのか、徹底的に調べ尽くすことだ。私たちの祈りは「棚からぼた餅」のおすがり信仰ではない。誰かに祈ってもらう他人任せの宗教でもない──異国の地で、大地を耕しながら闘い続けてきた人々に池田は、信仰とは何よりも「自らの心を耕す闘い」「自分自身との闘い」なのだと教えた。

 キゾウ・とサキコはその後、半世紀を超える日々を、シャー・フローラで聞いた「私に代わってブラジルに道を開いてほしい」という池田の言葉を抱きしめるようにして生きた。

 サンパウロから300㌔ほど離れたイタペバ市に住み、SGI(創価学会インターナショナル)の地区を支部に広げた。SGIメンバー以外のブラジル人からも「ジイチャン」「バアチャン」と呼びかけられ、現地に立つSGIの会館もまた「カイカン」と呼ばれるようになり、地域友好の場として親しまれている。

 

  サンパウロ新聞で知った座談会 ②


 門馬重夫とトミの夫妻は、サンパウロ市の近郊グアルーリョスに住んでいた。1955年(昭和30年)の年末、仙台で学会に入った。

 翌年ブラジルに渡るが、その直前、戸田城聖にブラジル行きを報告した。その際、眼を細めた戸田から聞かされた言葉が忘れられない、と重夫は語り残している。

 「ブラジルにはまだ創価学会はない。しかし将来、必ずできる!だからそれまで決して退転せず、しっかり御本尊を受持していくんだぞ」

 門馬夫妻は最初、サンパウロ州奥地のコーヒー農場に入植した。環境が劣悪で、いくつか働き先を替えた。戸田の言葉を支えに、信仰だけは手放さなかった。

 その重夫がサンパウロ市内に出かけた時のことである。ラジオから昼のニュースが流れていた。耳を疑った。「日本の創価学会の一行が、もうすぐサンパウロに来る」という。

 いつ来るのか。自分の周りに学会員はいないか。数日間、あてもなく探し回ったが見つからない。

 「がっかりしていた門馬さんと会ったのは、サンパウロでたまたま乗り合わせたバスでした」とタケシ・コジマは語る。


 福岡で生まれ育ったコジマは、1558年(昭和33年)、家族とともにブラジルに移住し、花卉栽培に携わっていた。

「私は学会の小さなバッジを背広の襟につけていたんです。バスの中で門馬さんから『もしかして学会員ですか』と尋ねられて、手を取り合って喜びました」。

門馬はコジマとともに、池田の座談会に参加することができた。

 タケシ・コジマの父、満作はこの数日後、池田からアルジャ地区の初代地区部長に任命される。

「父は日本で花を育てていたので、ブラジルでも花づくりに取り組みました」。

 やがて満作は、植木の苗木づくりや盆栽の栽培も手がけるようになる。

「周りの人たちからは、うまくいくものかと笑われましたが、父は後年、専門誌に『ブラジル最大の盆栽材料の生産者』として紹介されるまでになりました」。

  サンパウロ新聞で知った座談会 ①


 松浦嘉明と君子は、ともに高知で生まれ、結婚した。

「父はトラック運転手で、貧しい家でした。いくつもの宗教を遍歴して、最後に創価学会を選びました。昭和29年の9月です」(ヤスコ・ヒライ)。

 トマトを入れる木箱を仏壇がわりにして、扉のかわりに布をかけた。翌年、君子は戸田城聖(創価学会第二代会長)が来県して行われた「高知地区総会」参加している。同年11月、一家でブラジルに渡った。

 毎日、太陽の昇る前から農場に出て、星空を見ながら家路についた。

「電気もランプもない家で、皆で題目をあげました」(ヤスコ・ヒライ)。

──その日、君子はいつものように町へ出て、ひと月分の食料や雑貨を買い込んだ。買い物の包み紙には「サンパウロ新聞」が使われていた。日系人のための新聞である。

 包み紙を開くと、求人や貸家をはじめ多彩な広告が載っていた。下のほうに、新聞の二段分を使った、少し大きな縦長の広告があった。君子の目が釘付けになった。

 「・・・・・創價學會員に告ぐ/會長来泊決定/十月十八日午后十時四十五分空港着、座談會を左記の如く行います/十九日 午后五時より/二十日 午后一時より/聖ルア・ガルボン・ブエノ八一九・・・・・」(1960年十月8日付)


 聖はサンパウロの略である。君子はあわてて日付を確かめた。きょうは10月19日だった。この広告どおりの日程なら、すでに昨日、一行はサンパウロに到着し、今ごろ日本人街のガルボン・ブエノ通りで初めての座談会が開かれているはずだ。幸い明日も開かれるようだ───「家に戻ってきた母は大急ぎで父に伝え、二人であくる朝早く、バスを乗り継いでサンパウロに向かいました」(ヤスコ・ヒライ)。


 この日、池田のもとに集まった人々の多くが新聞広告で座談会を知った。戸田城聖が亡くなったことや、池田が第三代会長になったことを、この座談会で初めて知ったメンバーもいた。電話のない家も多く、まともな連絡網すらなく、無理もなかった。

「あの頃はナザレ・パウリスタの山の中にある農場で、朝の5時から夜の8時まで働いていました」とエミコ・サカワは語る。「私は12歳でした。両親ときょうだい5人、家族総出です。『カマラーダ』と呼ばれる日雇いの仕事でした」。

 サカワは静岡の御殿場で生まれた。

「父は大工でしたが、お酒好きで、家は貧乏で。母は耳が不自由でした。生活がにっちもさっちもいかなくなった時、鶴見支部の池田孫太郎さんに折伏されました」。1955年(昭和30年)のことだった。4年後、家族でブラジルに渡った。

 「日本ではとにかく食べ物に苦労しました。父はブラジルのバナナとパパイヤにつられて移住を決めたんですよ」とサカワは笑う。ナザレ・パウリスタの農場ではレタスやイチゴを育てた。

「畑仕事の最中に猛毒のガラガラヘビが出て大変でした。咬まれると死んでしまうので」。

 農園の経営者が「これはもしかして君たちの宗教じゃないか」とサンパウロ新聞の広告を教えてくれた。そのおかげでサカワたちは初日のコンゴニアス空港にも、座談会にも駆けつけることができた。