民衆こそ王者ー池田大作とその時代 先駆者たち──中南米篇(2) 4 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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 「この信心さえすれば豊作になる」は大間違いだ


 彼らが集まった座談会場はガルボン・ブエノ通りのレストラン「シャー・フローラ」(お茶の花)である。

 かつて日本人移民が集まっていたコンデ街は、第二次世界大戦によって廃れてしまった。戦後はサンパウロの中心部、セー広場の南に広がる「リベルダーデ地区」が「世界最大の日本人街」と呼ばれるようになる。

 日本の敗戦から8年後、1953年(昭和28年)に誕生した映画館「シネ・ニテロイ」を中心に、日本人街が広がっていった。

 「シャー・フローラはシネ・ニテロイの隣にありました。レストラン兼集会所のようなお店です。日本人街のど真ん中に池田先生を迎えました」(エイイチ・サゴウ)

 シャー・フローラにたどり着いた松浦嘉明は、ある壮年の顔を見て思わず「おまん、どうでよ(あんた、元気だったか)!」と声をかけた。

「高知で隣村に住んでいた、父の顔見知りだったそうです」(ヤスコ・ヒライ)。お互いにブラジルへ移住したことは知っていたが、その壮年も移住先で創価学会に入っており、お互いに「彼を折伏しよう」と思っていたことがその場でわかり、大笑いした。集まった60人ほどのなかには、交通の便が悪く、三日三晩かけてたどり着いた人もいた。午後一時前、池田がシャー・フローラに到着した。


 12歳だったエミコ・サカワは、その場で池田から「グアラナ」という炭酸飲料をもらったことを鮮明に覚えている。

「ブラジル人なら誰でも知っているジュースです。参加者全員にふるまわれました」。

 「私はまだ子どもだったので、会合の中身は覚えていません。でも、参加した人たちが先生に真剣にぶつかっていくあの緊張感、たくさんの質問に対して懸命に応じる先生、そして、あとからあとから人が集まってきたことが印象に残っています」と振り返る。

 北米で池田を迎えた人々には婦人部が多かった。日本の敗戦後、占領軍のアメリカ人と結婚して渡米した「戦争花嫁」と呼ばれる女性たちである。いっぽう、農業移民が大半のブラジルでは壮年部が多かった。日焼けした男たちは節くれ立った手でコップをつかみ、池田の心尽くしのグアラナを口に運んだ。

 「形式は抜きにして、いろいろ話し合いましょう」「自由になんでも聞いてください。私はそのために来たのですから」。池田は時間のほとんどを質問会にあてた。

 「最初に質問したのは私でした」。キゾウ・サクラモトが語り残している。サクラモトは真っ先に手を上げ、「自分の仕事は農業であります」と話し始めた。新しい種類の野菜を作り始めたが、不作で借金を増やしてしまった、どうすればいいか、という質問だった。

 池田は逆に尋ねた。不作の原因は何だったのか?同じ野菜を育てて成功した人を知っているか?肥料に問題はないか?手入れに問題はないか?いま耕している土壌と、育てている品種の関係はどうか?

 「どの質問にも、夫はまともに答えられなかったそうです」。妻のサキコは語る。「農業を甘く見ていたんです。先生はその甘さを見抜かれました」。

信心さえしていれば豊作になるなどと思っているなら、それは大間違いですよ──池田はこんこんと諭した。

 仕事で同じ失敗を繰り返さないためには、なぜ失敗したのか、徹底的に調べ尽くすことだ。私たちの祈りは「棚からぼた餅」のおすがり信仰ではない。誰かに祈ってもらう他人任せの宗教でもない──異国の地で、大地を耕しながら闘い続けてきた人々に池田は、信仰とは何よりも「自らの心を耕す闘い」「自分自身との闘い」なのだと教えた。

 キゾウ・とサキコはその後、半世紀を超える日々を、シャー・フローラで聞いた「私に代わってブラジルに道を開いてほしい」という池田の言葉を抱きしめるようにして生きた。

 サンパウロから300㌔ほど離れたイタペバ市に住み、SGI(創価学会インターナショナル)の地区を支部に広げた。SGIメンバー以外のブラジル人からも「ジイチャン」「バアチャン」と呼びかけられ、現地に立つSGIの会館もまた「カイカン」と呼ばれるようになり、地域友好の場として親しまれている。