最高の遺産
「池田先生が初めてブラジルに来られた年に、じつは私の父も、日本から来た移民の方から仏法の話を聞いていたんです」。
ブラジル最大の製薬会社で営業部長を務めるダンテ・ランディが語る。
当時、ダンテの父ジョゼはサンパウロで工場を経営し、母のマダレナは高級ブティックを三店舗も営んでいた。何不自由ない生活を送っていたジョゼは、貧しい日本人移民の話を歯牙にもかけなかった。
しかし4年後、国のかたちが一変する。ブラジルの首都ブラジリアは斬新な都市計画で知られる。現在、その町並みは世界遺産に登録されているが、建設費がふくれあがった当時、ブラジルは年間50㌫超もの急激なインフレに見舞われた。国民の信頼を失った政府は軍に乗っ取られ、21年間に及ぶ軍事独裁政権が始まったのである。
ジョゼの工場は50万㌦の負債を抱えた。一家は長距離バスの運転手に頼み込み、サンパウロからリオデジャネイロへ移り住んだ。
「リオのアパートにはベットが一台、コンロ一台しかありませんでした。私たち兄弟四人は床に寝そべるしかありませんでした」(ダンテ・ランディ)。
父のジョセフはタクシー運転手などで食いつなぎ、なんとか衣服の小売店を開業した。母のマダレナも洗濯を請け負って日銭を稼いだ。
少し儲けては景気の波にさらわれる繰り返しで、経済的な満足は「いつも砂の城のように崩れ去った」とダンテは振り返る。さらに、母のマダレナは右足がむくみ、黒ずんで硬くなる象皮病を患った。
「右足を切断しなければ命にかかわる」と医師に告げられた。
「両親の関係も悪かった。そんな時でした。父が再び仏法の話を聞いたのは」。
未払い手形の催促でジョゼの会社を訪れた男性が学会員だった。彼は夫妻の状況を見かねて仏法の話を切り出した。二人にとって「一度聞いたことのある話」だった。「この足が治ったら、広宣流布のために命を捧げます」。
マダレナはそう決めて祈り始めた。1978年(昭和53年)、ランディ一家は創価学会に入った。
マダレナは、弘教に歩くと「貧乏で象足の人間が何を言っているんだ」と何度もバカにされた。しかし象皮病は徐々に快方に向かい、やがて完治した。ジョゼの小売店も繁盛し始めた。
「私もあきらめていた大学に復学できました。母は懸命に弘教を重ねました。『仏法を教えてくれた池田先生にお礼を言うこと』が母の願いでした」(ダンテ・ランディ)。その願いは2002年(平成14年)、東京の本部幹部会で実現した。
ブラジルを代表して、マダレナとダンテの弟エンリケが訪日することになった。マダレナは長旅に備えて健康診断を受けた。その時の医師二人にも仏法を語り、二人とも入会をしている。
「きょうは、遠くブラジルからも、偉大な『広宣流布のお母さん』が見えておられる」──池田は本部幹部会の席上、マダレナの半生を紹介した。70歳を過ぎたマダレナは、微笑みながら立ち上がった。
「マダレナさんは入信してより、じつに485世帯の個人折伏を成し遂げた方である」。並みいる幹部の集まった会場から、驚嘆などよめきが起こった。「3年前に亡くなられたご主人、またお子さま方と合わせると、折伏の数は、ご一家で、730世帯を超えるという」。割れるような拍手の波のなかで、池田はマダレナに「オブリガード!(ポルトガル語で『ありがとう』)」と伝え、さらに語った。
「日本中、世界中、あの地にも、この地にも、こうした”公布の宝”の方々がおられる。それを決して忘れてはならない」「大功労者である。いかなる世間の功績よりも尊い」
父のジョゼ・ランディは、その生涯で191世帯に仏法を広げた。母のマダレナは池田との出会いの後、さらに250世帯を超える人々に弘教。昨年、85歳の長寿をまっとうした。
「母は749世帯の弘教を実らせました。いつも『御本尊の扉を開くことは、勝利の扉を開くことなんだよ』『題目を唱えるなら、誰かのために唱えなさい。そうすればすべてがうまくいくから』『池田先生とともに進みなさい。そうすれば何も恐れるものはないのよ』と語っていました。両親が残してくれた最高の遺産を、家族全員で引き継いでいます」(ダンテ・ランディ)