軍事政権の壁 ②
池田を迎えた南米文化祭は当初、サンパウロ日本文化協会(当時)の講堂で行う予定だった。江森陽弘は同協会関係者の証言を報じている。その証言によると、同協会は政治警察から会場を変更しろと命じられ、命令に従わなければ「会場を包囲して機関銃で撃つ」とまで恫喝されていた。
第二回ブラジル訪問は、南米文化祭をはじめ、すべての行事を無事故で終えることができた。しかしこの後、中南米最大のメンバー数を擁するブラジルは、軍事政権の壁に阻まれ、池田を迎えることができない状態が18年間も続く。
──1980年(昭和55年)11月。当時、高校生だったある壮年部員は、後頭部の代表として池田との懇談会に招かれた。早めに着いた彼らに、池田は「ちょっと待ってね」と言い、そのまま打ち合わせを続けた。
「先生は、机に大きな世界地図を広げ、来日した北南米の幹部たちに質問していました。おもにブラジルについての質問でした」。
池田はブラジルの地図に指を置き、「この町の人口は何人?メンバーは何人?」「中心者は誰?」と矢継ぎ早に尋ねた。「彼女のお母さんの病気は治ったかな?」「彼の家族は元気かな?」「ここからここに移動するのは、どれくらいかかる?」「この都市なら文化祭ができるね」・・・・・周りの幹部たちは池田の勢いに食らいつくように、必死で答え続けている。その高等部員たちは目の前の光景に圧倒された。
「ブラジルに行かれたのは、あの4年後です。先生自ら来るべき日のために、はるか前から一つ一つ手順を詰めておられた。現地のメンバーに二度と悔しい思いをさせたくない、という思いだったのではないでしょうか」
軍事政権下の日々は、ブラジルSGIの一人ひとりを鍛えた。その苦闘を象徴する「サウダソン・ア・センセイ」という愛唱歌がある。次号では、この歌が生まれた背景に迫りたい。
本日、先駆者たち──中南米篇(2)連載終了