EIKOの気まぐれ闘病日記 -27ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

皆さん、明けましておめでとうございますm(__)m

 もう少し早くブログを早く更新するつも

りだったのですが、不覚にも風邪を引いて

しまいました。

 最初は咳から始まり、悪寒で病院にも行

けず、ひどい筋肉痛になってしまいまし

た。

立ち上がれば目眩に襲われトイレに行くの

かやっとです。

息子が今日まで休みでしたが、明日は仕事

でいないので困ってます。

皆さんも風邪にはお気をつけてくださいね!




 皆さん、いつもありがとうございます。<(_ _)>


おそらくブログを更新するのも年内は今日が最後に


なると思います。


 今年一年拙いブログにお付き合いくださってありが


とうございました。 <(_ _)>


 来年もどうぞよろしくお願いします!

  「18年分の空白を埋めさせて頂く」 ③


 両親はサンタカリーナ州のカッサドールという町で、リンゴや桃を作っていました」。娘の赤澤清美が語る。「はじめはひどい荒れ地でした。大人が6,7人手をつないでやっと一周できるほど太い木を、1本ずつ切って開墾しました」。

リンゴの栽培は困難を極めた。三男のキヨタカは「鳥や野ウサギに食われたり、霜やヒョウのせいで全滅したりで、苗木を植えてから初めて収穫するまでに5年もかかりました」と振り返る。

 この日、奥山夫妻は池田に会えるとは思っていなかった。

「あのブラジル訪問では500人を超える親善交流団も来られました。母がお世話になった婦人部の先輩もおられました」(赤澤清美)。老夫妻は、再会した先輩に「ようやくここまで育ちました」とリンゴを渡し、池田への感謝を語った。

 何分も経たないうちに、ロビーで待っている奥山夫妻のもとへ池田から「ありがたいね。お題目を唱えました」と伝言が届いた。さらにその伝言を追いかけるように、池田の口述を書き留めた便箋が届いた。

「今朝は早くから、わざわざおたずね戴き、本当にありがとうございました。また御苦心のたまものの”おりんご”を箱一杯戴きました。今、美しい赤い色のリンゴを目の前にして、遠い旅のつかれも一ぺんに吹き飛んだ様なうれしさです。真心のプレゼントをブラジリアまでもって行きます・・・・・」。

 便箋はもう一枚あった。「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞人の振舞にて候いけるぞ」という一文を含む日蓮の遺文が、丁寧に書き写されていた。「仏」とは、「人」としての振る舞いを示すためにこの世に生まれた───創価学会員としての生き方を示す一節である。あまりに素早い池田の対応に、奥山夫妻は言葉を失った。

 しばらくして池田がロビーを通った。奥山たちを見つけた。「本当によく来られた。ありがとう」。節くれ立った清敏とサナエの両手を、池田は自分の両手で包んだ。「いつまでも長生きしてください。幸せな人生を送ってください」。そう言い残し、大統領の待つブラジリアに向かった。

  「18年分の空白を埋めさせて頂く」 ②


 2月19日。池田はサンパウロの大地を踏んだ。「来たよ!」「うれしいよ」。出迎えた人々に池田は「18年分の空白を全部、埋めさせていただく」と語っている。

 妻の香峰子は、ハンカチで目頭を押さえるシルビア・サイトウに「悦子サン(=シルビア)の顔を見ると私も涙が出るのよ」と微笑み、再会を喜んだ。若き日の「大阪事件」以来、シルビアのことをよく知っていた。ブラジルに渡ってからも励まし続けていた。

「十八年 待ちに待ちたる 君なれば あゝ感激の 歴史光りぬ」。

サンパウロに到着したこの日、池田は色紙にこう記し、サイトウ夫妻に贈っている。「私たちも把握しきれないほど多くの揮毫を書かれ、多くの人と会われた」(エドワルド・タグチ)という11日間が始まった。

 翌20日。池田はブラジル文化会館を初めて訪れた。池田の滞在中、同会館で幾つもの会合や懇談が行われた。ある会合で池田は「懐かしき友とも会え、ほんとうにうれしく思う」と語っている(2月27日)。

 その場に集まったのは、25年前に池田が開いた道を、踏み固め、押し広げた人々である。移民としてブラジルの土と格闘し続け、文字通り「土台」となって生き抜いてきた人々も多かった。

「確信のある信心には、つねに夢がある。蘇生がある。希望がある。無限の力が出る。生命力がわいてくる。ゆえに、人生と社会にあって、行き詰まりは絶対にない」。池田は一言ずつ、確かめるように語った。

 20日夜。池田は宿舎のエレベーター前で、軍部の圧力を受けたコウサカと会った。「全部わかってるよ」。短く声をかけた。「明日、ブラジリアに行って大統領に会う。帰ってきたらすべて解決してあげるから」。

 21日早朝、池田の宿舎のロビーには、風呂敷に包んだリンゴを宝物のように抱えた老夫婦が座っていた。奥山清敏とサナエである。ブラジル訪問中、池田はブラジリアの大統領府前やファリアス公園でも、宿舎の廊下やエレベーターでも、SGIメンバーだとわかるや歩み寄り、声をかけ続けた。奥山夫妻もその中の一組である。

 「18年分の空白を埋めさせて頂く」 ①


 大統領から親書が届いた後も、実際に池田を迎えるまで、ブラジル国内は緊迫した状況が続いた。まだ軍事政権下である。ブラジルSGIの機関誌に載った挿し絵が「軍幹部に批判的である」と問題視された。

 「彼らは『機関誌の責任者をクビにしろ。そうでなければ、さらに圧力をかける』と恫喝してきました。まだまだ軍が大きな権力を握っており、万が一のことがあってはならないと皆で相談しました」。現ブラジルSGI理事長のジュリオ・コウサカが語る。

 コウサカの両親は、父の義郎が青森から、母のカツが札幌から、それぞれブラジルに移住した。サンパウロに近いサントアンドレで知り合い、結婚した。

「家は養鶏場を経営していました。私も手伝いが忙しく、中学校は入学しただけで通えませんでした」とコウサカは振り返る。

 17歳の時、父が脳梗塞で倒れた。兄とともに養鶏場を継いだ。「この信心を始めたのは、若気の至りで商売を広げすぎ、借金を背負って苦労していた時です」。

 第二回ブラジル訪問で、政治警察に監視されていた池田と初めて言葉を交わした。その後、青空市場で卵を売る道が開けた。家業が軌道に乗った後、ブラジルSGI職員になり、機関誌の編集に携わってきた。

 コウサカはブラジル男子部長でもあった。軍政の厄介さは骨身に染みていた。「この身はどうなってもいい」と腹をくくった。ブラジルSGIはやむなく軍幹部の要求を受け入れ、コウサカをはじめリーダー数人を更迭せざるをえなくなる。池田がブラジル入りするわずかひと月前である。激励の渦中、池田を迎えた。