EIKOの気まぐれ闘病日記 -26ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「命の続くかぎり、皆さんを守り抜く」 ①


 「数えきれないほど会合を取材してきましたが、一番心に残っている行事は、なんといってもブラジルのあのリハーサルですよ」。そう語るのは「シナノ企画」の取材班だった渡辺正弘である。四半世紀にわたって池田の「声」を録音してきた。

 渡辺は神奈川の水産高校を卒業した後、松竹の大船撮影所で働いた。渥美清主演の「男はつらいよ」シリーズをはじめ多くの映画で録音助手を務めた。

「初めて先生と会ったのは、撮影所の壮年部先輩に誘われて行った横浜文化体育館の会合でした。いやいや行ったんです」と笑う。

 「でも先生の声を直接聞いてショックを受けた。それまで映画の撮影現場でいろんな役者さんの声を拾ってきたんだけど、あんなに命に響く声、胸を打つ声は一度も聞いたことがなかった。最初は柱に寄っかかって聞いていたんですが、最後は一番前の大きなスピーカーの前まで行って聞きました。『この人の声をいつか録音してみたい』と思ったんです」

 池田の「声」に惚れたという渡辺だが、取材中は「常に心を一歩引くように」心がけてきた。「感動的な場面で心を動かされると、取材が疎かになるから。でも、あのリハーサルだけはそれどころじゃなかった」。


 「会場全体がまるで海のように揺れた」。そう語る参加者もいた。文字通りの「民衆の海」の中を、池田は両手を大きく振り、親指を何度も突き上げながら歩いた。すり鉢状の円形スタンドまで降り、ゆっくりと一周し始めた。

 「君はセンセイの近くに行くべきだ」「もっとそばに」。「サウダソン・ア・センセイ」を作曲したあの青年も、仲間や文化祭のスタッフに促され、池田の近くに歩み寄った。

 「あの日は、私の新しく生まれ変わった日になりました」。

 二万を超える人々のどよめきと、手拍子と、踏み鳴らす足音が、「すり鉢」の底でごうごうと響き合う。一度も体験したことのないすさまじい熱気と音圧にさらされながら、渡辺はブームポール(=マイクを支える棒)を伸ばし、ガンマイクで池田の声を拾い続けた。


 エミコ・サカワは会場の外にいた。婦人部の演目が来るのを待っていた。

「場内からものすごい歓声が聞こえてきて、みんなで飛んでいきました」。やがて地響きが静まった。「・・・・・18年ぶりに、尊い仏の子であるわが友とお会いできて本当にうれしい。最大の敬意と称賛を送りたい・・・・・」。池田の声が聞こえてきた。池田は360度、見回しながら語りかけた。

 「どれほどの労苦と、美しい心と心の連携があったことか・・・・・私は、皆さん方一人ひとりを抱擁し、一人ひとりと握手して、皆さん方の胸中に、強い強いメッセージを贈りたい」。北東のサルヴァドールから、はるかアマゾンから、2000㌔、3000㌔を旅して集った人々もいた。

 「私は命の続くかぎり、皆さん方を守りに守り抜いていくことを、強く申し上げておきたい」。あいさつを終えた池田は、再び起こった地響きに包まれながら階段を上った。先導していたカマタが「明日はあの席に座っていただきます」と指し示した。池田はその椅子に腰をおろし、カマタに告げた。「さあ、リハーサルを始めよう」。この日、最も大きな歓声があがった。

 ジュリオ・コウサカは取材班の一員として、カメラを手に走り回っていた。「サウダソン・ア・センセイ」のメロディーが聞こえてきた。

  「二度と会えない人がいるから」 ②


 州立総合スポーツセンターには、二万を超える人々が集まっていた。公開リハーサルだったため、正確な人数はわからない。

 この文化祭の運営委員長はケンスケ・カマタである。池田が入国を阻まれた74年当時、ブラジル男子部長として辛酸をなめた。

 カマタは1937年(昭和12年)、樺太で生まれた。日本の敗戦の時は7歳だった。

「父は漁師でしたが、敗戦の前年に病気で亡くなり、一番上の兄は徴兵されていました」。

 戦争が終わり、カマタの母は子ども4人を連れて南樺太の大泊という港に向かった。

「北海道へ帰る引き揚げ船に乗る予定でした。しかし満員になってしまい、私たちは乗れなかった。乗れなかったから、命拾いしたんです」と振り返る。

 45年(同20年)8月20日。大泊から三隻の引き揚げ船(小笠原丸、第二新興丸,泰東丸)が出港した。戦争は終わっていたにもかかわらず、三隻ともソ連軍の潜水艦から攻撃され、1700以上が殺された。「三船殉難事件」として知られる惨劇である。

 カマタの家族は樺太で2年過ごした後、北海道を転々とし、釧路に落ち着く。母は釧路で折伏を41受け、学会に入った。

 「宗教に関心はなかった」というカマタも、北海道の教育大学を出た後、東京の杉並で信心を始める。

 「昭和41年、台東体育館で行われた会合に参加したんです。その時初めて池田先生と会いました。うまく言えませんが、強烈な信頼感を感じたというか、学会に対する考えが一変しました。ブラジルに来てもうすぐ50年ですが、信心を貫けたはあの出会いがあったからです」。

 7000人の出場者たちと「世界一の文化祭にしよう」と約束し合い、三カ月の猛練習をまとめあげてきた。「まさかリハーサルに来られるとは思いませんでした」。

  「二度と会えない人がいるから」 ①


 サンパウロでは多くの行事が組まれた。池田はその合間を縫うように、2月24日には南米5ヵ国の代表200人とカメラに納まった。

 また、ブラジル婦人部の代表と記念撮影した時のことである。武山節子は列の一番端に立っていた。10年前、池田が入国を阻まれた時はブラジル女子部長だった。同世代の女子部の中で最も悔しい思いをし、責任も感じていた。

「到着された先生は、私の肩を押して『真ん中に入りなさい』と。その時の写真を見ると、私が立っていた端っこに先生が立っておられます。そういう心配りをされる方が池田先生です」。

 2月25日。池田は予定にない行動をとった。この日は文化祭の前日だった。イビラプエラの州立総合スポーツセンターで、大詰めの最終リハーサルが行われている。ナオト・ヨシカワは一連の行事の運営本部に詰めていた。池田がリハーサル会場に向かった、と聞いて耳を疑った。

「前日まで全く予定されていませんでした。文化祭のリハーサルに参加されるなんて、後にも先にもあの一度きりではないでしょうか」。

 ヨシカワは、コウサカに替わってブラジル男子部長になったばかりだった。

「前の年の夏、ブラジル青年部の代表38人が、九州の霧島で行われた研修会に参加しました。私はその時、初めて池田先生に会いました」。

 地球の反対側から来日した彼らに、池田は「ブラジルに必ず行きたいな。それが私の課題であり、望みなんだから」と語り、連日励ました。全員で池田と懇談した時、祖国に師匠を迎えられない悔しさで、多くのメンバーが涙を見せた。「泣くんじゃない」。池田は厳しく諭した。「また必ず会うんだから、泣くんじゃない。私は一生、旅を続けるから、必ずどこかで会えるんだよ」。また『感動は一瞬のものだ。すぐに消え去っていく。しかし決意は永遠でなければならない」とも語った。

 「一瞬」の感動を「永遠」の決意に変える機会を、池田は一人でも多くの人々と分かち合いたかった。

 リハーサル会場に向かう前、池田は「みんなが呼んでいるから行ってくるよ」「二度と会えない人がいるから」と言って宿舎を出た。同行スタッフが慌ただしく準備に走った。

 じつはこの日は、池田の滞在中、ブラジルSGIのメンバーが一つの会場に最も多く集まる日だった。大文化祭の当日は来賓も多く、参加できない人が多い。そのかわりに前日の総合リハーサルを公開し、見学できるようにしていた。

 最終リハーサルは午後六時から始まる予定だった。脱いだ背広をスタッフに渡し、ワイシャツの両袖を腕まくりした池田が場内に入った。

   大統領と会う条件 ②


 「やはりトップ同士が会うことが大事だ。どんな国でも同じだね」。フィゲイレドとの会見を終えた池田は、同席した幹部に語っている。「大統領は賢明な方だった」。その後、池田はアブレウ文官長と会見した。『生の選択』を手にしたアブレウが、笑顔で池田と握手する映像が残っている。愛読してきた対談集を机に置き、アブレウは「この本の著者と意見交換できることは私の生涯の思い出です」と語った。池田と大統領の会見はNHKトップニュースでも報道された。

 池田はブラジリア総合大学での図書贈呈、教育文化大臣や外務大臣との会見を終え、23日、サンパウロに戻った。コウサカたちに難癖をつけた軍幹部らとも会い、「更迭されたメンバーがSGIの会合に出席してもよい」という約束をとりつけた。さらにコウサカは「日本から来た取材班を手伝ってほしい」と頼まれた。

「悔しい思いをしていた私が自由に動けるように心を砕いてくださった。あの時ばかりは涙をこらえられなかった」とコウサカは語る。

 サンパウロに住む大滝葵はこの日、宿舎で池田とバッタリ会った。親善交流団の受け入れをはじめ、さまざまな雑務を手伝っていた。

「当時、夫が建設会社のブラジル駐在員でした。いつまでブラジルに滞在するかわからず、2歳の娘をどう育てればいいか悩んでいました」。

 「娘さんに何かあげたいな」。大滝の話を聞いた池田は、日本から持参した童話『少年とさくら』の表紙を開き、サインペンを手に少し考えた。

 「おかあさんのいうことをよくききなさい。おおきくなったならばにほんのがっこうにいらっしゃいね。せんせいより まさこちゃんに」

 すべてひらがなで書き、紙風船と一緒に手渡した。母である大滝には「ここ(=ブラジル)で闘ったら必ず境涯が開けるよ」と励ました。「先生から『題目をあげて、あげ抜いていくんだ。唱えた題目は全部、自分のものだよ』と言われ、もやもやしていた悩みが吹っ切れました」。

 池田から『少年とさくら』をもらった大滝正子は、のちに関西創価高校、創価大学を卒業。京都の私立大学で国際関係学の博士号をとり、「経済と環境」をテーマに研究を続けている。

   大統領と会う条件 ①


 ブラジリアの大統領府には、池田の到着を心待ちにしている政府高官がいた。文官長のジョアン・レイタン・デ・アヴレウである。文官長は日本でいえば「官房長官」にあたる。名門私立大学の法学部長や最高裁の判事などを歴任してきた、ブラジルを代表する法学者でもあった。

 そのアブレウとSGI側のスタッフが、池田のブラジルでのスケジュールを交渉した時のことである。

「ダイサク・イケダはこんなに若いのですか?」そう言ったアブレウは、自分の一冊の本を持ってきた。『生の選択』──日本語版のタイトルは『二十一世紀への選択』。歴史学者のアーノルド・トインビーと池田の対談集である。かつて

ニューヨークで買った愛読書だという。いくつものページに線が引かれていた。

「この対話の内容から考えて、てっきりトインビーの同年代だと思っていた」と驚いた様子である。

 アブレウは「池田会長が大統領と会うために、一つだけ条件がある」ともちかけた。18年も阻まれ続けたブラジル訪問である。身構えるSGI側にアブレウは言った。

「大統領と会見した後、短時間でいいので、私とも会っていただきたい」。

 交渉にあたったSGIスタッフは「文官長のもとには、それまで学会に浴びせられてきた非難中傷が山ほど報告されていました。彼はそれらが信頼に値しないということを理解してくれた」と振り返る。