民衆こそ王者ー池田大作とその時代 先駆者たち──中南米篇(3) 17 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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  「命の続くかぎり、皆さんを守り抜く」 ①


 「数えきれないほど会合を取材してきましたが、一番心に残っている行事は、なんといってもブラジルのあのリハーサルですよ」。そう語るのは「シナノ企画」の取材班だった渡辺正弘である。四半世紀にわたって池田の「声」を録音してきた。

 渡辺は神奈川の水産高校を卒業した後、松竹の大船撮影所で働いた。渥美清主演の「男はつらいよ」シリーズをはじめ多くの映画で録音助手を務めた。

「初めて先生と会ったのは、撮影所の壮年部先輩に誘われて行った横浜文化体育館の会合でした。いやいや行ったんです」と笑う。

 「でも先生の声を直接聞いてショックを受けた。それまで映画の撮影現場でいろんな役者さんの声を拾ってきたんだけど、あんなに命に響く声、胸を打つ声は一度も聞いたことがなかった。最初は柱に寄っかかって聞いていたんですが、最後は一番前の大きなスピーカーの前まで行って聞きました。『この人の声をいつか録音してみたい』と思ったんです」

 池田の「声」に惚れたという渡辺だが、取材中は「常に心を一歩引くように」心がけてきた。「感動的な場面で心を動かされると、取材が疎かになるから。でも、あのリハーサルだけはそれどころじゃなかった」。


 「会場全体がまるで海のように揺れた」。そう語る参加者もいた。文字通りの「民衆の海」の中を、池田は両手を大きく振り、親指を何度も突き上げながら歩いた。すり鉢状の円形スタンドまで降り、ゆっくりと一周し始めた。

 「君はセンセイの近くに行くべきだ」「もっとそばに」。「サウダソン・ア・センセイ」を作曲したあの青年も、仲間や文化祭のスタッフに促され、池田の近くに歩み寄った。

 「あの日は、私の新しく生まれ変わった日になりました」。

 二万を超える人々のどよめきと、手拍子と、踏み鳴らす足音が、「すり鉢」の底でごうごうと響き合う。一度も体験したことのないすさまじい熱気と音圧にさらされながら、渡辺はブームポール(=マイクを支える棒)を伸ばし、ガンマイクで池田の声を拾い続けた。


 エミコ・サカワは会場の外にいた。婦人部の演目が来るのを待っていた。

「場内からものすごい歓声が聞こえてきて、みんなで飛んでいきました」。やがて地響きが静まった。「・・・・・18年ぶりに、尊い仏の子であるわが友とお会いできて本当にうれしい。最大の敬意と称賛を送りたい・・・・・」。池田の声が聞こえてきた。池田は360度、見回しながら語りかけた。

 「どれほどの労苦と、美しい心と心の連携があったことか・・・・・私は、皆さん方一人ひとりを抱擁し、一人ひとりと握手して、皆さん方の胸中に、強い強いメッセージを贈りたい」。北東のサルヴァドールから、はるかアマゾンから、2000㌔、3000㌔を旅して集った人々もいた。

 「私は命の続くかぎり、皆さん方を守りに守り抜いていくことを、強く申し上げておきたい」。あいさつを終えた池田は、再び起こった地響きに包まれながら階段を上った。先導していたカマタが「明日はあの席に座っていただきます」と指し示した。池田はその椅子に腰をおろし、カマタに告げた。「さあ、リハーサルを始めよう」。この日、最も大きな歓声があがった。

 ジュリオ・コウサカは取材班の一員として、カメラを手に走り回っていた。「サウダソン・ア・センセイ」のメロディーが聞こえてきた。