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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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敗戦後、日本からドミニカに移住した人々は水不足など劣悪な環境に絶望し、


8割が去った。


夢を捨てず異郷で奮闘する同志に、池田は「信心の根を張り、自分が大樹に


育つことです」と励まし、1987年2月、同国を初訪問した。


軍隊を廃止した「中米の奇跡」コスタリカでは、平和を志向する。


歴代の大統領と友情を結び、中南米で初となる「核の脅威」展を開催する。


 「カリブの宝石」と呼ばれるドミニカ共和国。九州と沖縄を合わせたほどの面積に1000万人が住む。

 ドミニカSGI(創価学会インターナショナル)男子部長のラモン・オソリオ・シルバは高校時代、家賃が払えず一家でアパートを追い出された。貧しさに苦しむ彼の心の拠り所は、SGIの音楽隊の練習だった。

「服も靴もボロボロで、何をどう頑張ってもうまくいかない私に、SGIの先輩だけは分け隔てなく接してくれた。だから私も題目で乗り越えようと思えた」と語る。去年、テレビの音響システムを開発する会社を立ち上げた。


 日本から遠く離れた地に、創価学会の信仰が根づいている。この発展の陰には、ドミニカを一度も訪ねることなく生涯を終えた日本の「母」たちがいた。


 田代喜久子は東京の市ヶ谷で美容院を営んでいた。目の前に都電の停留場「市ヶ谷見附」があった。その停留場でよく見かける男性二人が、戸田城聖と池田大作であることに気づいたのは、創価学会に入ってしばらく経ってからだった。陽射しの強い夏も、雪の降る冬も、二人の姿を停留場に見つけるとうれしい気持ちになった──田代はそう語り残している。

「美容院の前には新宿から靖国通りの九段下、神保町を抜けて両国に向かう都電が通っていました」と長女の志村則子が語る。

「私は小学生でした。戸田先生のネクタイの先が風に揺れていて、その横で池田先生が戸田先生を支えるようにして都電を待っておられました」。

   「二〇人」の約束 ②


 森原が率いる鼓笛隊は1967年(昭和42年)、日本の皇太子がブラジルを訪問した際、歓迎パレードの出演団体に選ばれた。

「サンパウロ日本文化協会から『パレードができる団体がない。創価学会にお願いしたい』と頼まれたんです。総勢52人で、サンパウロのアニャンガバウ大通りを行進しました」。当時の「日伯毎日新聞」などにもその写真が載っている。パレードを見て「あの鼓笛隊に入りたい」と会館を訪ねてくる人もいた。

 2年後の夏、森原は日本の研修会に参加し、初めて池田と話した。

「懇談の場でいろんな国の人々が演奏しましたが、ブラジルの鼓笛隊は二人しか来ていなかったので演奏できませんでした」。森原はとっさに「私は20人の鼓笛隊を日本に連れてきて演奏します」と言った。池田は「よし!全部見てあげるからがんばれ」と答え、森原の帰国後、フルートやファイフ(横笛)を贈った。

 しかし、勢いよく約束はしたものの、長引くインフレなどで来日する機会は持てなかった。森原は旅行代理店の行政書士として働きながら、鼓笛隊の育成に全力を注いだ。


 それから15年後。1984年(昭和59年)に池田を迎えた大文化祭の時には、鼓笛隊は1000人の堂々たる陣容に育っていた。大文化祭の5年後、森原は家族の事情で広島に戻った。池田との約束が気がかりだった。

「私が生きている間に先生との約束を果たしたい、と祈り続けてきました」。

 「ノーヴァ・エラ鼓笛隊」は昨年(2013年)、26もの都市から「ブラジル独立記念日の祝賀行事に出演してほしい」と要請され、各地でパレードを行った。ブラジルSGIの社会貢献を語るうえで、なくてはならない存在になっている。


 ───昨年9月、71歳の森原のもとに1本の電話が入った。「来月、広島で本部幹部会があるから参加しませんか」という。森原はもともと参加対象ではなかった。当日、会場に着くと、最前列の席に案内された。

 会場に「ノーヴァ・エラ鼓笛隊」が現れた時、森原は思わず椅子から立ち上がっていた。

「故郷の広島で、彼女たちの演奏する『サウダソン・ア・センセイ』を聞けるとは想像もしていませんでした」。この日、森原は自分が「ブラジル鼓笛隊の初代隊長」として全国に紹介されるとも思っていなかった。劇的に紹介してあげてはどうか、という池田の配慮だった。池田は森原に、歴史を語ってくれる人がいてうれしい、とも伝言した。


 一番喜んだのはブラジル鼓笛隊だった。終了後、全員が森原と抱き合った。「私のおばあちゃんは森原さんと一緒に鼓笛隊をしていたんですよ」と言うメンバーもいた。

「彼らはスタッフも入れてちょうど20人でした。孫の世代が約束を叶えてくれました」。(森原意津子)。楽器も満足に揃えられない中、森原が池田と約束を交わした日から、44年経っていた。



  先駆者たち──中南米篇(3)連載終了

  次回から、先駆者たち──中南米篇(4)になります。


   「二〇人」の約束 ①


 この三度目のブラジル訪問の際、池田が「ノーヴァ・エラ」(=新世紀)と命名したグループがある。ブラジルSGIの鼓笛隊である。その土台をつくった森原意津子は広島に住んでいる。

「ブラジルの鼓笛隊は八人でスタートしました。日本では鼓笛隊をやっていた星野玲子さんが、先生に手紙を書いてくれました」。

 森原は中学を卒業してすぐ、広島の葉室潔モダンバレエ研究所に通った。バレリーナを目指していた。18歳の時、家族9人でブラジルに移住した。

「サンパウロ州のガピアラという山の中で、トマトとジャガイモをつくりました。もちろん水道も電気もなくて、トイレもお風呂も自分たちでこしらえました。動物園の中に住んでいるみたいでしたよ」。

座談会場まで歩いて4時間かかった時代である。移住して3年が経ったころ、その座談会場で森原は、日本の鼓笛隊がパレードしている写真を見た。「あなた、音感がいいからやってみない?」と誘われた。


 「アクリマン公園で練習しました。制服も楽器も足りなくて、近くの学校で使わなくなった太鼓をもらったりもしました。結成の翌年、池田は日本からブラジルにピッコロや制服を贈っている。

 「日本の鼓笛隊と比べると、とても鼓笛隊とは言えない」と悩む森原を、シルビア・サイトウが励ました。「『日本の真似をしなくていいんだよ。一ちゃん(=森原)らしい鼓笛隊でいいんだよ』と言われてうれしくて。思い切り練習しました」。

 シルビアは「雨の中、三番目の子どもがお腹の中にいた時、膝まで水につかって、言葉も地理もわからないで、1時間歩いたことがあります」と語り残している。「その時、シルビアさんが訪ねてくれたのが私の姉の家でした。お産を控えた姉を励ますためにわざわざ来てくれたのです。忘れられません」(森原)。

  「命の続くかぎり、皆さんを守り抜く」 ②


 先生、あなたをブラジルに迎えることができて、私たちの夢は叶いました


 会場の最も高いところまで登った。全体の光景を撮るためだった。


 私たちの鼓動は高まりこだましています


 これまで何度も歌ってきた歌が、足場まで響いてくる。


 ムイト・オブリガード、センセイ

 (本当にありがとう、池田先生)

 あなたに真心の花を捧げます


 海原のように、跳ねるように舞い踊る参加者たちにレンズを向けて、コウサカは何度もシャッターを押した。池田は三つほど演目を見学してから、南米五カ国の代表との懇談会場に向かった。文化祭の責任者のカマタは、会場を後にする池田を追いかけて感謝を伝えた。振り返った池田の笑顔を、カマタは「生涯忘れることができない」と語る。エレベーターの扉が閉まる直前、池田は親指を立ててカマタに言った。「大丈夫だ。世界一だよ」。


 大文化祭の当日。運営本部の最後の打ち合わせが終わったのは午後11時過ぎだった。その場に池田から、この日背広につけていた大輪の胸章が届いた。「DAISAKUIKEDA]とサインされたその胸章を見た誰もが、10年前、ペルーから池田が贈ってくれた胸章を思い出した。二つの胸章は、今も大切に保管されている。