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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   頼まれた文通 ③


 西尾順一の故郷は広島だった。1927年(昭和2年)、19歳で満州に渡った。「満鉄」(南満州鉄道)で運転士をした後、機関車修理の工場主となり、奉天で敗戦を迎えた。3歳だった息子のタカシは「『ソ連軍が襲ってくる』と聞いて、夜通しで線路の上を歩いた記憶があります」と語る。

 広島の実家はアメリカが落とした原子爆弾の爆心地に近く、戻るのをあきらめた。福岡に移り住んだ順一は運送業を始めた。数年後、体を動かすとすぐに息があがるようになった。九州大学病院に入院したが、原因不明のまま一カ月が過ぎた。

「父は医師から『家でご家族と過ごされたほうがいいでしょう』と言われ、退院しました。『長くて三カ月』とも告げられたそうです」。

 その時、順一は知人から創価学会の仏法を教わった。「人生の最後だから」と腹を決め、東京や大阪に住む弟、広島や岡山の親戚を訪ね、弘教して回った。

「三カ月後、父から『まだ生きているぞ』と電報が届きました。父は心臓が悪かったのですが、それから15年、寿命を延ばしました」(タカシ・ニシオ)。

 ある日、順一は家に帰るなり「すごい男と会ってきたぞ」と興奮しながら家族に話した。「東京の池田大作という人だ」。池田は1956年(昭和31年)3月、初の九州指導で福岡を訪れている。

「あれ以来、父は『素晴らしい青年だった』と口癖のように言ってイマシタ」(タカシ・ニシオ)。

 同じ頃、順一はタカシに「ドミニカって地球のどこだ」と尋ねている。

「満州で働いていた父は、もう一度海外に雄飛したいと願っていました。西日本新聞に載ったドミニカ移住の記事に心を動かされたようです。まだ、現地の惨状はまったく知らされていませんでした」。

 西尾の家族7人はこの年、ドミニカ移住の第二陣としてコンスタンサという町に入植した。


   頼まれた文通 ②


 則子は母に連れられ、豊島公会堂や千代田区の家政学院で行われる戸田の御書(=日蓮の遺文集)講義に参加した。豊島公会堂は満員で入れないことが多かった。池田が度々、場外をまわり「ご苦労さまです」と声をかける様子を目にした。

「高校生の時には、学会本部の二階で題目を唱えていると、会長就任前の池田先生が来られて『もう勤行した?』と。先生を中心に、その場にいた人たちで勤行しました」。戸田と池田の息吹を間近に感じながら、田代親子は信仰を深めていった。

 「もはや戦後ではない」が流行語になった1956年(昭和31年)、喜久子は同じ地区で信心を始めたばかりの西尾国男から、「兄がドミニカという国に移住することになった」と聞かされた。「向こうに学会の組織はないから、文通でもなんでもいいから関わってやってくれませんか」という。面倒見のいい喜久子を見込んでの相談だった。

 西尾国男の兄、順一は福岡に住んでいた。ドミニカに向かう前、東京で喜久子にあいさつしている。しかし、意気揚々と出発した西尾順一からの手紙が、喜久子のもとに届いたのは、じつに8年後のことだった。

 ドミニカへの移住は「戦後日本史上、最悪の移民政策」と言われる。

 敗戦後、満州(=現在の中国東北部)からの引き揚げ者が戻ってくると、日本の失業者数は激増した。考え出された政策が、戦火を交えなかった中南米への移住である。

 だがドミニカへの移民政策は無責任極まりないものだった。2006年(平成18年)、総理大臣の小泉純一郎がドミニカ移民に直接謝罪している。

 入植地は「地獄の一丁目」と呼ばれた。約1300人のドミニカ移住者のうち、最終的に8割以上がドミニカを去った。西尾順一は、踏み止まった276人の仲の一人である。

   頼まれた文通 ①


 喜久子の夫の春吉は、東京の蔵前で化学工場を経営していた。戦争が激しくなり、家族で伊豆に疎開した。春吉はある日、工場に保管してあった岩塩を持ち帰るため、帰京することになった。

 「漬けものに塩を使いたいと親戚に頼まれたのです。父が東京に戻ったのは、昭和20年3月9日。東京大空襲の前日でした」(志村則子)

 アメリカ軍による東京大空襲は「人類史上最大の空襲」といわれる。一晩で10万人を超える人々が殺された。蔵前一帯も火の海になった。春吉は東京に住む親戚に配ろうと、静岡産のみかんを背負って帰京していた。焼け落ちた春吉の工場跡には焦げたみかんが転がっていた。

 夫を亡くした喜久子は、敗戦の2年後、3人の子を連れて東京へ戻った。

「焼け野原でままごとをして遊んだことを覚えています」(志村則子)。喜久子は美容師の資格をとり、「市ヶ谷美容院」を開く。客の一人に学会員がいた。喜久子は「なぜ悪いことをしていないのに、不幸にならないといけないのか」と敗戦後の苦労を口にした。その客は喜久子を、美容院の数軒先にある「市ヶ谷ビル」に連れていった。当時、学会本部の分室や「聖教新聞」の編集室などが入っていた三階建てのビルである。

 戸田城聖が自ら午後二時から四時過ぎまで、訪ねてくる人々の悩みを聞き、指導していた。戸田は喜久子に、人は皆、過去からの宿縁によって生まれてきたこと、そして宿命は必ず変えられることを語った。喜久子が学会に入ったのは1952年(昭和27年)である。

「いつも愚痴をこぼしていた母が、がらっと変わったんです。明るくなりました。その様子を見て私も祈るようになりました」と則子は振り返る。