頼まれた文通 ②
則子は母に連れられ、豊島公会堂や千代田区の家政学院で行われる戸田の御書(=日蓮の遺文集)講義に参加した。豊島公会堂は満員で入れないことが多かった。池田が度々、場外をまわり「ご苦労さまです」と声をかける様子を目にした。
「高校生の時には、学会本部の二階で題目を唱えていると、会長就任前の池田先生が来られて『もう勤行した?』と。先生を中心に、その場にいた人たちで勤行しました」。戸田と池田の息吹を間近に感じながら、田代親子は信仰を深めていった。
「もはや戦後ではない」が流行語になった1956年(昭和31年)、喜久子は同じ地区で信心を始めたばかりの西尾国男から、「兄がドミニカという国に移住することになった」と聞かされた。「向こうに学会の組織はないから、文通でもなんでもいいから関わってやってくれませんか」という。面倒見のいい喜久子を見込んでの相談だった。
西尾国男の兄、順一は福岡に住んでいた。ドミニカに向かう前、東京で喜久子にあいさつしている。しかし、意気揚々と出発した西尾順一からの手紙が、喜久子のもとに届いたのは、じつに8年後のことだった。
ドミニカへの移住は「戦後日本史上、最悪の移民政策」と言われる。
敗戦後、満州(=現在の中国東北部)からの引き揚げ者が戻ってくると、日本の失業者数は激増した。考え出された政策が、戦火を交えなかった中南米への移住である。
だがドミニカへの移民政策は無責任極まりないものだった。2006年(平成18年)、総理大臣の小泉純一郎がドミニカ移民に直接謝罪している。
入植地は「地獄の一丁目」と呼ばれた。約1300人のドミニカ移住者のうち、最終的に8割以上がドミニカを去った。西尾順一は、踏み止まった276人の仲の一人である。