EIKOの気まぐれ闘病日記 -23ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  「必ずいっぺんに花咲く時が来る」 ①


 1965年(昭和40年)、ドミニカは内戦に突入した。首都のサントドミンゴでは数千人が命を落とした。しかし、海を渡って喜久子から届く便りは絶えることがなかった。

 「母が送る小包や手紙は、一カ月で10回を超えることもありました。春になると桜や桃の押し花も添えました」(志村則子)。

 西尾順一が亡くなった後は息子のタカシが田代との文通を引き継いだ。

「新聞も手紙も、皆でボロボロになるまで回し読みしました。あの時期に小包を送り続けてくれた田代さんの恩は忘れられません」。何の報酬も、見返りも求めない一婦人部員の手紙が、波乱のドミニカ社会に生きる仏法者たちを励まし続けた。

 ドミニカ文化会館の庭には今、田代喜久子の功績を讃える木が植わっている。「キバナノウゼンの木です。春になると、目の覚めるような黄色い花が咲きます」(タカシ・ニシオ)。

 喜久子は生前、こう語り残している。「手紙で励ます──誰でもやっていることではないでしょうか。それに、信心を教えられ、励まされたのは、私たちのほうなんですよ」。


 ドミニカでの弘教は、現地に根づいた日本人移住者の四分の一にまで広がった。西尾順一が折伏した谷岡義一は、「谷岡五号」と呼ばれる米の品種を開発したことで広く知られる。移民一世の子どもたちが大学に通う時代になると、ドミニカ人にも弘教が進んでいった。

「これは俺たちのことじゃないか」。キムラが心を奮い立たせた日蓮の言葉がある。「日蓮一人はじめは南無妙法連華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや」(諸法実相抄)。

 サントドミンゴに初の会館がオープンした際(1976年)には、青年部の有志が、池田の長編詩「民衆}をスペイン語で朗々と読み上げた。キムラはその一節が忘れられないと語る。

 「黙々と労働する君よ

 陽に灼けて逞しい筋骨の君よ

 僕は秘められた君の心臓の

 純なる溌剌たる鼓動を聞く」

 その場に集った日本人の中には、池田の詩に移民としての自らの年月を重ね合わせ、涙を拭う人もいた。

 1966年(昭和41年)、ついにドミニカ支部が誕生した。翌春、クラト・キムラは日本に一時帰国している。母のハツと約束した「10年」が過ぎていた。初めて親子そろって御本尊の前に座り、声を合わせて題目を唱えた。

 その二年後,木村ハツは83歳の天寿をまっとうした。田代喜久子と木村ハツ。一度もドミニカの土を踏むことのなかった二人の「母」が、ドミニカSGIの土台を支えた。


  「10年後、元気な顔を見せておくれ」 ③


 転機は突然だった。キムラは農業だけでは食べていけず、国道沿いにトタン屋根の小屋を建て、食料品店を開いていた。

「ある日、ドミニカ人の紳士がジュースを買いに来ました。彼は少し離れた市の市長でした」。市長はキムラに「稲の苗をつくらないか。水は用意するから」ともちかけた。「私たちの地域は塩分が多くて苗が育たない。他の地域で苗を育ててもらい、稲作をしている」という。これを機にキムラは、水田の多いコツイという町に引っ越すことができた。

 さらにキムラは「お米を使って『あわおこし』のような駄菓子をつくれば売れるのではないか」と考えた。工夫を重ねて出来上がった「おこし」に「コカレイカ」と名づけた。やがてドミニカの子どもたちに広く知られるようになった。

 キムラが西尾順一と出会ったのは、「コカレイカ」を作り始めた翌年(1963年)である。

「二人で励まし合い、毎月一回、ダハボン、ハラバコア、ラベガなどのコロニア(日本人の入植地)を中心に、レンタカーで弘教に走りました。当然のことですが、日本政府に裏切られ、希望を失った人ばかりでした」。

 1964年(昭和39年)三月、東京の田代喜久子のもとに西尾順一から初めての手紙が届いた。

「『やっと弘教が実った』という内容でした」(志村則子)。喜久子は数年前から、「移民でなく棄民」といわれた移住者たちの引き揚げや、軍事クーデターのニュースを知るにつれ、ドミニカの様子がとても他人事とは思えなくなっていた。さっそく数珠や袱紗(数珠などを包む布)、勤行の経典などに手紙を添えて送り始めた。西尾からの返信には「これからは勇気百倍、いっそうがんばります」と書かれていた。

 人が増えれば悩みも増える。ドミニカからの「手紙相談」は多岐にわたっていった。喜久子は「聖教新聞」を送り、月刊誌の「大白蓮華」を送り、池田の書籍を送った。娘の則子も梱包を手伝った。


  「10年後、元気な顔を見せておくれ」 ②


 クラト・キムラはハイチ国境に近いダハボン地区に入植した。「行動の自由すらなく、流刑地のようでした」と振り返る。「絶対的な水不足です。日本人同士で水を奪い合い、罵り合い、情けなかった。ドミニカ移民の苦しさは、他の人には語れません」。ドミニカ政府の給付金も途絶え、ユカ(イモの一種)とプラタノ(食用バナナ)だけで餓死から逃れた時期もある。「私も含め、移住者のほとんどがマラリアに罹りました」。

 山口県佐波郡(当時)の農家に生まれ、12歳で父を亡くした。六男坊のキムラは海外に夢をつないだ。同郷のイソヨと結婚し、ドミニカ移住を決めた。三田尻駅(当時)から旅立つ時、キムラの母ハツは「10年経ったら元気な顔を見せておくれ。それまで待っているから」と言った。ハツはすでに70歳を超えていた。

 ドミニカで二人の娘に恵まれたが、生活は一向によくならなかった。移住から3年目、妻の姉がお産後の大量出血で死んだ。「医療設備が整ってさえいれば助かる命でした」。

 入植から5年目、ドミニカのトルヒーヨ元帥が暗殺され、社会全体が不安定になった。6年目、キムラは母のハツに「私からの手紙が途絶えた時は、命を落としたものと思ってくれ」と手紙を送った。

 母から届いた返信にキムラは驚いた。──つらい生活をしているということはわかります。けれども命を落とすということは考えてはいけない。私は創価学会に入りました。池田大作という立派な方がいます。私はその人の指導を聞いてきました。南無妙法蓮華経を唱えればお前も必ず幸せになれます。つらい生活から必ず立ち直れるから信心しなさい───。


 「最初は宗教なんかで変わるわけないと思いましたよ。でも、どうせ命を落とすなら親孝行のつもりでやってみようと思ったんです」。キムラは朗らかに笑う。「お袋の文面からは、何としても息子を幸せにしてやりたいという思いが伝わってきました」。

 池田は後年、この母と息子のやりとりに触れて綴っている。「(木村ハツからの)便りは二度、三度と続いた。年老いた母親の一途な祈りは遥かな海を越え、わが子の入信へと結実していった」「この無名の母こそ、ドミニカ広布の陰の大功労者と讃えたい」(『SGI]1983年7月号)。

 1962年(昭和37年)、キムラと妻のイソヨは、赤土の目立つダハボンの地で題目を唱え始めた。

  「10年後、元気な顔を見せておくれ」 ①


 当時の雰囲気を象徴する新聞の見出しがある。「日本移民を受け入れる/ドミニカ ほくほくの条件で」(『朝日新聞』1956年3月31日付)。抽選で移民に選ばれ「宝くじに当たった」と喜んだ人すらいた。それほどの好条件だった。なにしろ全員に300タアレ(18㌶、東京ドームの4倍の広さ)の土地が無償で譲渡されるという。さらに、自給できるようになるまで給付金ももらえるというのだ。

 だが、国の約束は杜撰(ずさん)だった。7つの入植地にはすべて、土地の所有権など存在しなかった。そもそも水路のない土地が多かった。岩だらけの草むらや、はるか一面に塩の浮いた荒れ地すらあった。

 じつはドミニカ政府は、灌漑の設備が間に合わないため、日本政府に「移民受け入れは延期すべきだ」と伝えていた。しかし日本の外務省は、日本人は乾燥地帯に慣れているとうそぶき、そのまま強行したのだ。「棄民」同然の仕打ちだった。田畑をはじめ全財産を売り払い、新天地を目指した日本人移民たちは、絶望の底に突き落とされた。


 「南部やハイチとの国境近くに入植した方々の苦労は、想像を絶します」。

中部のコンスタンサに入植した私たちはまだ恵まれていた、とタカシ・ニシオは語る。「とにかく雑木林や松林を切り開けば、トマト、じゃがいも、きゃべつ、にんにくなどを栽培できましたから」。それでも土地や水の配分を巡り、日本人同士の争いは絶えなかった。数年間は弘教できる状況ではなかった。勤行と唱題だけは欠かさず続けた。

 「私の兄が結核になり、首都サントドミンゴの病院に入院した時です。クラト・キムラという日本人がお見舞いにやってきました」。聞けばキムラは、西尾たちと同じ日本からの農業移住者だった。

「しかもキムラさんは兄に『信心してみないか』と勧めたのです」。お互いに学会員だとわかり、二人は手を取り合って喜んだ。

 現在87歳のキムラは「西尾さん一家と巡り会えた時は、本当にうれしかった」と語る。