民衆こそ王者ー池田大作とその時代 先駆者たち──中南米篇(4) 5 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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  「10年後、元気な顔を見せておくれ」 ①


 当時の雰囲気を象徴する新聞の見出しがある。「日本移民を受け入れる/ドミニカ ほくほくの条件で」(『朝日新聞』1956年3月31日付)。抽選で移民に選ばれ「宝くじに当たった」と喜んだ人すらいた。それほどの好条件だった。なにしろ全員に300タアレ(18㌶、東京ドームの4倍の広さ)の土地が無償で譲渡されるという。さらに、自給できるようになるまで給付金ももらえるというのだ。

 だが、国の約束は杜撰(ずさん)だった。7つの入植地にはすべて、土地の所有権など存在しなかった。そもそも水路のない土地が多かった。岩だらけの草むらや、はるか一面に塩の浮いた荒れ地すらあった。

 じつはドミニカ政府は、灌漑の設備が間に合わないため、日本政府に「移民受け入れは延期すべきだ」と伝えていた。しかし日本の外務省は、日本人は乾燥地帯に慣れているとうそぶき、そのまま強行したのだ。「棄民」同然の仕打ちだった。田畑をはじめ全財産を売り払い、新天地を目指した日本人移民たちは、絶望の底に突き落とされた。


 「南部やハイチとの国境近くに入植した方々の苦労は、想像を絶します」。

中部のコンスタンサに入植した私たちはまだ恵まれていた、とタカシ・ニシオは語る。「とにかく雑木林や松林を切り開けば、トマト、じゃがいも、きゃべつ、にんにくなどを栽培できましたから」。それでも土地や水の配分を巡り、日本人同士の争いは絶えなかった。数年間は弘教できる状況ではなかった。勤行と唱題だけは欠かさず続けた。

 「私の兄が結核になり、首都サントドミンゴの病院に入院した時です。クラト・キムラという日本人がお見舞いにやってきました」。聞けばキムラは、西尾たちと同じ日本からの農業移住者だった。

「しかもキムラさんは兄に『信心してみないか』と勧めたのです」。お互いに学会員だとわかり、二人は手を取り合って喜んだ。

 現在87歳のキムラは「西尾さん一家と巡り会えた時は、本当にうれしかった」と語る。