民衆こそ王者ー池田大作とその時代 先駆者たち──中南米篇(3) 9 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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  難病の悲しみから生まれた希望の歌 ②


 サンバを愛するハンセン病の青年もまた、この病院で仏法と巡りあった。

「特殊な病気のせいで、いつも人の陰に隠れ、後ろ向きの生き方でしたが、SGIに入ってから、自分の人生に自信が出てきた」。次第に「私は多くの人と違った環境でも勝つことができる」と思えるようになった。

 「毎週土曜日、あの病院に住むメンバーと唱題会をしていました」。

長年、リオ文化会館の管理者を務めたヴァルケル・ロペスが語る。

「ある日、作曲家である彼に『池田先生への思いを歌にしてみないか。皆が明るくなるような歌を』と頼みました。彼はその日のうちにメロディーをつくり、タンボール(打楽器の一種)を叩きながら披露してくれました。歌詞も彼がつくりました」。

 「ソウダソン・ア・センセイ」の冒頭は<先生、あなたをブラジルに迎えることができて、私たちの夢は叶いました>という呼びかけから始まる。軍事政権が池田の入国を阻んだ「空白の18年」の最中である。「難病に苦しんだ彼は、師匠に来てほしいと願う歌ではなく、仏法を教えてくれた先生に『ありがとう』と伝える歌をつくってくれた。これまでにない歌でした」(エイイチ・サゴウ)。

 小さな地区で生まれたこの歌を、サゴウは「リオデジャネイロの歌」にしようと提案し、やがてこの歌を聞いたシルビア・サイトウが「ブラジル全体で歌おう」と提案した。

 「瞬く間に広がりました。難病によって誰よりも苦しみ、誰よりも祈ったリオのメンバーから生まれた歌です。そのことを私は誇りに思います」(ヴァルケル・ロペス)


 歌をつくったかつての青年は「あの曲は私の音楽的技術よりも、地区の人達の『歌をつくろう』という情熱が生んだものです」と語る。今も同じ病院で公務員として働いている。「私は自分で選びました。私の人生の根っこをつくってくれ、多くの友人がいるこの病院で働き続ける道を」。

 ブラジル各地で「サウダソン・ア・センセイ」が歌われるようになったころ、池田のもとにブラジルの大統領府から一通の便りが届いた。池田を正式にブラジルに迎えたい、というフィゲイレド大統領からの親書である。

 1984年(昭和59年)2月、池田は3度目のブラジル訪問を果たす。SGIの人々がブラジル社会に信頼の根をおろしてきた、なによりの結晶だった。「サウダソン・ア・センセイ」は、池田を迎えて行われた「第一回SGIブラジル大文化祭」のテーマ曲に選ばれ、やがて国境を超えて知られるようになる。