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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 パールがこよなく愛し、自らの文明論で繰り返し引用した、一人の歴史学者がいる。「二十世紀最大の歴史家、文明評論家」と称される、アーノルド・ジョーゼフ・トインビーである。

 それまでの「ヨーロッパ中心の価値論」に異議を唱え、まったく独自の歴史論を創りあげたトインビー。@パールをはじめ、彼の思想に影響を受けた人物は数多い。

 トインビーと池田との対談集(邦題『二十一世紀への対話』)は28言語で出版され、池田の著作のなかで最も有名な一冊になっている。

 しかしー。トインビーが創価学会に言及したのは、池田との対談集が初めてではない。

 じつはトインビーには、『二十一世紀への対話』を発刊する前に、池田について言及した文章があった。それは、英語版『人間革命』の第一巻(1972年、ウェザヒル社版)に寄せた「序文」である。


 『人間革命』の序文で、トインビーは次のように綴っている。

「日蓮の地平(視野)と関心は、日本の海岸線に限定されるものではなかった。日蓮は、自分の思い描く仏教は、すべての場所の人間仲間を救済する手段であると考えた。創価学会は、人間革命の活動を通し、その日蓮の遺命を実行しているのである」

 なぜトインビーは、創価学会に対する理解を深めていったのか。

その理由は、主に二つ。

一つ目は、トインビーが持っていた「大乗仏教」への関心である。

二つ目は、1967年(昭和42年)の来日時の出来事である。

 なぜ、あえて東京裁判を論じたのか。池田は端的に述べている。

「あのような未曾有の惨禍を生んだ世界大戦の後始末が、どのように行われたかに思いを致したかったからである」(「宣告」の章)と。

 それは、青春時代を戦争の灰色で塗り込められた池田にとって、極めて自然な問題意識だった。池田自身も、東京裁判について「人智を尽くした拙劣な一つの決算書」(同章)等と、厳しい評価を下している。

 また「宣告」の章には、戸田城聖が「あの裁判には、二つの間違いがある」と述べた印象的な場面がある。「第一に死刑は絶対によくない。無期が妥当だろう。もう一つは、原子爆弾を落としたものも、同罪であるべきだ」

 この言葉は、のちに戸田が「第一の遺訓」として発表する「原水爆禁止宣言」(1957年=昭和32年)の萌芽ともいえよう。パール判決書には、戸田の指摘や池田の平和観と強く響き合うものがあった。


 「彼(=パール)は被告たちの『無罪』を主張したが、それは日本の太平洋戦争を、いささかも肯定しているものではない」(同章)

 1952年(昭和27年)、53年と再来日したパールは、日本の再軍備を強く非難。平和憲法を守り抜けと説いている。

「碩学の法学者(=パール)は、太平洋戦争の真因を、冷徹に追及し、なにが真実で、なにが正解か、錯雑きわまりない国際戦争のすべての経緯を識別し、誇りと自信に満ちた判決書のために、畢生の情熱を傾けた」-この『人間革命』の一文が聖教新聞に載った日付は、1967年(昭和42年)1月10日。

まさにこの日、パールはカルカッタ(現コルカタ)で80歳の生涯を閉じた。

「私は感無量の思いに襲われ、一面識もなかったが、あえて博士の功労をしのび、弔電を打たせていただいた」と、池田は同感の「あとがき」に記している。


 8年後。パールの子息であるプロサント・パールが、池田のもとを訪れた(1975年4月25日、聖教新聞社)

「今回の訪日で最大の出来事は、池田先生とお会いできたことであり、まるで夢のようです」

「偉大なお父様の姿を偲びながら、ゆっくりくつろぎながら語り継ぎましょう」-「非暴力主義」や「国連の役割」などを巡り、会見は2時間に及んだ。プロサント・パールは、孤高の父の業績を大きく取り上げた池田に、深い感謝を込めて伝えた。

「私は、池田先生の弟だと思っております。また私は、1000万の創価学会員の、1000万1人目のメンバーであると思っています」

 現在、インド創価学会では、小説『人間革命』『新・人間革命』を学ぶことも、主な活動の柱となっている。




 ヒラタの原点となった、グアムでのSGI発足。その席上、インドから1通の祝電が届いた。

「人間が、今後、生存しうるとするならば、それは人間自身の思想の変革によらなければなりません・・・世界平和のための唯一の方途は、仏法の原理、そして非暴力の理論であるべきです。私は、この会議の大成功を祈ります」

 送り主の名はプロサント・パール。敗戦後の日本で、2年半にわたって行われた極東国際軍事裁判ーいわゆる東京裁判ーの裁判官として名高い、パール判事の長男である。パール判事は東京裁判で、被告全員の無罪を訴え、原爆投下は戦争犯罪であるとの反対意見書を提出した。アメリカ占領下の日本での、勇気ある発言である

 パールの子息とSGIを結びつけたきっかけは、小説『人間革命』だった。


 1969年(昭和44年)3月8日。広島で4つの大学会が結成された(山口大学、島根大学、広島商科大学、<現・広島修道大学>、下関市立大学)。その折、池田は30人ほどの学生部員との懇談会で、「学生の指名」について語っている。

「歴史の上に今まで現れていない人で、功績のあった人を発掘して、その偉大さを証明するのが学徒の使命ではないか。私が小説『人間革命』の中でパール博士のことを書いたのも、こういう理由からです」

参加した学生たちは、「歴史の闇に埋もれそうな人物に光を当てようという執念が伝わってきた」と回想する。

 池田は続けた。「私は20歳すぎの頃、軍事裁判で、彼(パール)が最も公平であったと感じた。だから、いつか宣揚したいと考えていた」。


 しかし、「パール判決書」の全容が日本で公開されたのは、裁判終了から18年も経った、1966年(昭和41年)6月である。池田はその「時」を逃さなかった。

わずか半年後の同年12月、『人間革命』第3巻「宣告」の章を連載開始。同章の大部分を使って、東京裁判の意義を論じた。

「パール半月書」は、国際法を逸脱して裁判を「復讐の道具」にした戦勝国を批判。文明に名を借りて、勝者が敗者を裁く事は、公正な裁判とは言えないという、当然の道理を訴えた。同時に日本軍の「残虐行為」の数々も断罪している。

『人間革命』では、その論旨を全面的に紹介し、パールの言論戦を「人類史上に、永久に記憶されるべき正義の戦い」(第3巻「あとがき」)と讃えたのである。


 2008年(平成20年)5月1日朝。アメリカ海軍横須賀基地の一室。マーリン・ヒラタは、やや緊張していた。

 ヒラタは横須賀基地で、通訳、翻訳に従事している。ハワイ出身の学会二世。地元のポート支部では支部長を務める。米軍関係者の多い同支部。本部幹部会などの衛星中継では、ヒラタたち有志が日本語から英語への同時通訳を手がける、基地内でも、月に2回ほど学会の会合を開く。しばしば未入会の友人も参加する。

 そうした地道な活動を知った基地のスタッフが、ある日、ヒラタに声をかけた。

「ミスター・ヒラタ。あなたは仏教者ですね?」

「ええ、そうですが、なにか・・・・・」

アメリカには、「ナショナルデー・オブ・プレヤー」(国民の祈りの日)という記念日がある。毎年5月の第一木曜日に、宗派を超え、国のため、社会のために祈りを捧げる日だ。

 基地のスタッフは言った。「今年のナショナルデー・オブ・プレヤーに、仏教を代表して参加してくれませんか」。具体的には、「その宗教の経典から、教えの趣旨を表す祈りの言葉などを紹介してほしい」という。

「もちろん!やりましょう!」ヒラタは即答した。


 しかし、軍人たちの前で、いったいどんな言葉を紹介すればいいのか?真の祈りとは何か?通じるのか?・・・・・何人かの先輩とも話し合い、頭を悩ませた。

「祈りの言葉といって、題目や法華経の一節を読み上げても、残念ながら理解してもらえないだろう」

一つの答えに行き着いた。

「やっぱり、国境を超えて通じるのは、『あの言葉』だと考えたんです」

式典当日。米軍の仕官クラスを含めて数十人。基地司令官も列席している。

キリスト教やユダヤ教等の人々とともに仏教者が祈りの場に立つー横須賀基地始まって以来のことだ。

「彼は何を言うのだろう」。集まる視線の中、ヒラタは淡々と語った。

「1200万人の仏教徒のリーダーである池田大作は、語っています。『一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の転換をも可能にする』と」

ヒラタが選んだのは、小説『人間革命』の主題だった。

式典が終わった、キリスト教の聖職者が、興奮した面持ちでヒラタのもとに駆け寄った。

「仏教徒が参加するなんて、初めてのことだ。しかも、あのイケダという人の言葉は素晴らしい。初めて聞いたよ、ベリー・リフレッシング(とても清清しい)!」


 ヒラタには人生の原点がある。

1975年(昭和50年)1月26日。ハワイ大学の学生だったヒラタは、グアムで行われたSGI発足の場に駆けつけている。運営役員として参加者の荷物運びなどを手伝った。

51カ国・地域ー世界中から集まった参加者の荷物の山、次々に雑用をこなす。目の回る忙しさで、ついに会場に入れなかった。池田会長にも会えず、声すら聞けなかった。

「でも」とヒラタは言う。「池田先生を求めて駆けつけた、何十という国々のメンバーの笑顔!あの素晴らしい笑顔を、私は忘れることができない。あの日、私は『池田先生とともに生きよう』と誓ったんです」。

 2009年、2010年、2011年と引き続き要請を受け、基地内の祈りの場に立った。

「本当に信頼を深めていくことができるかどうか。これからです」。


 「私の人生に、戸田城聖という、恩師がなかったとしたら、今日の私は、無にひとしい存在であったに違いない」(『人生の恩師』大和書房)

 

192カ国・地域に広がったSGI。その信望を一身に集める池田大作が、「恩師」と呼ぶ人物。戸田城聖ー創価学会第二代会長である。

 

小説『人間革命』は、第1巻の「はじめに」で明記されているように、弟子である池田が、恩師・戸田城聖の生涯を描いた伝記小説である。

 

1965年(昭和40年)の連載開始から、幾多の波風を乗り越え、28年の歳月を経て完結した池田の『人間革命』。その「師弟の物語」の影響は、日本国内の止まるものではなかった。

 

7章にわたって続けてきた「『人間革命』の奔流」篇。本章では、「人間革命」の思想を巡って生まれた、「人間」と「人間」の力強い交流の一篇を追う。