パリ、東京、フィレンチェで5度の対話を重ねた。最後の語らいの直前、ペッチェイはアクシデントに見舞われる。空港で荷物をすべて盗まれてしまったのだ。それでも「センセイとの約束に遅れるわけにはいかない」と、着の身着のまま駆け付けた。誠実な人柄を示すエピソードである。
初代会長・牧口常三郎の獄死も、第二代会長・戸田城聖の獄中闘争も『人間革命』で学んだ。創価教育学会(当時)とファシズムの戦いを自ら話題にあげた。
「ペッチェイ博士こそ、獄中の闘士だったではありませんか」。池田の一言に促され、自身の体験を語った。
35歳だった。ナチスに対する抵抗運動に立ち上がった。牢獄で、ひどい拷問が待っていた。
「ペッチェイの口を割らせさえすれば、やつらの計画をつぶせる」
11ヶ月の獄中闘争、「まったく、ひどい暴力でした」と池田に語る。
しかし「絶対に裏切らない友情も結べた。だから、逆説的には、『ファシストからも教えられた』というわけです」。肩をすくめて笑った。「あの11ヶ月は、私にとって、本当に幸運でした」と。
一流の人物は例外なく「逆境」を自分の「力」に変えていく。ペッチェイは、その見事なお手本だった。
池田との対談集を発刊。ドイツ語版が一番早く完成した。そのタイトルは『手遅れにならないうちに』(邦題は『二十一世紀への警鐘』)。「人間革命」の道を模索し続けたペッチェイは、池田に次のようなエールを遺している。
「私は、彼(池田)の本然的な創造性の潜在力に心を打たれ、それがより広大な舞台で生かされる可能性を思って興奮した」
「(池田の)沈着かつ説得力ある、信頼しうる指導力と、彼による人間革命の提唱・・・・・は、この人間の進展を成し遂げる上で強力な要因たりうる。われわれは皆、彼のこの使命を、手伝わねばならない」(1977年=昭和52年5月1日付「聖教新聞」)