EIKOの気まぐれ闘病日記 -202ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 パリ、東京、フィレンチェで5度の対話を重ねた。最後の語らいの直前、ペッチェイはアクシデントに見舞われる。空港で荷物をすべて盗まれてしまったのだ。それでも「センセイとの約束に遅れるわけにはいかない」と、着の身着のまま駆け付けた。誠実な人柄を示すエピソードである。

 初代会長・牧口常三郎の獄死も、第二代会長・戸田城聖の獄中闘争も『人間革命』で学んだ。創価教育学会(当時)とファシズムの戦いを自ら話題にあげた。

「ペッチェイ博士こそ、獄中の闘士だったではありませんか」。池田の一言に促され、自身の体験を語った。

 35歳だった。ナチスに対する抵抗運動に立ち上がった。牢獄で、ひどい拷問が待っていた。

「ペッチェイの口を割らせさえすれば、やつらの計画をつぶせる」

11ヶ月の獄中闘争、「まったく、ひどい暴力でした」と池田に語る。

 しかし「絶対に裏切らない友情も結べた。だから、逆説的には、『ファシストからも教えられた』というわけです」。肩をすくめて笑った。「あの11ヶ月は、私にとって、本当に幸運でした」と。

 一流の人物は例外なく「逆境」を自分の「力」に変えていく。ペッチェイは、その見事なお手本だった。

 

 池田との対談集を発刊。ドイツ語版が一番早く完成した。そのタイトルは『手遅れにならないうちに』(邦題は『二十一世紀への警鐘』)。「人間革命」の道を模索し続けたペッチェイは、池田に次のようなエールを遺している。

「私は、彼(池田)の本然的な創造性の潜在力に心を打たれ、それがより広大な舞台で生かされる可能性を思って興奮した」

「(池田の)沈着かつ説得力ある、信頼しうる指導力と、彼による人間革命の提唱・・・・・は、この人間の進展を成し遂げる上で強力な要因たりうる。われわれは皆、彼のこの使命を、手伝わねばならない」(1977年=昭和52年5月1日付「聖教新聞」)

  池田とトインビーの出会いは、次々と「新しい出会い」を生んでいった。その一つの象徴が、世界的な民間組織「ローマ・クラブ」の創設者アウレリオ・ペッチェイである。

 ペッチェイとの出会いのキーワードもまた「人間革命」であった。

 

 トインビーは、池田との2年越し40時間にわたる対話を終えた後、何十人かの友人の名前を書いたメモを、通訳の山崎鋭一にそっと渡し、伝言を託している。

「私の親しい友人です。池田会長はお忙しいでしょうが、もし、お時間をとっていただいても、決して時間の無駄にはならないと思います」-そのメモに、ペッチェイの名があった。

 ペッチェイは、イタリアの自動車メーカーであるフィアット社の再建で名を馳せた実業家だった。

「しかし、やがて自分の努力が裏目に出たことを知る。乗用車の過剰が公害をもたらし、開発途上国への企業進出が、それらの国の経済を圧迫していた・・・・・自分もその責任者の一人であるーそんな悔悟の念が、氏をローマ・クラブ設立へと駆り立てていったようである」(『池田大作全集』第21巻)

 そのローマ・クラブの名を一躍知らしめたリポートがある。”近未来の地球はどうなるか”を予測した『成長の限界』(1972年)だ。

 -このまま人口増加と工業の成長が続くと、100年もしないうちに資源の枯渇、環境の汚染、食料の不足などで地球は破局に陥るー

 具体的なデータで世界中に衝撃を与え、900万部を超えるベストセラーになった。日本の首相経験者にも、この書を読んで「頭をガーンと殴られたような」衝撃を覚え、誠治を志した人がいるほどである。


 ペッチェイの活動を支えるキーワードは当初、「人間性革命(ヒューマニスティック・レボリューション)」だtった。人間の外側ではなく、内側を変えなければならない。この信念で動き始めた彼が池田と初めて会ったのは、1975年(昭和50年)5月16日。イタリアからフランスのパリ会館に駆けつけたペッチェイ。その手には小説『人間革命』が握られていた。池田に対して親しみ深く「センセイ」と呼びかけ、

「人間革命と人間性革命との違いは何か?」

「一個人にとって、人間革命にはどれくらいの期間が必要か?」

「集団の場合はどうか?」

等々、2時間半の会談中、熱心に質問を重ねた。「私は今まで人間性革命を唱え行動してきたが、それをさらに深く追求するなら、究極は人間革命(ヒューマン・レボリューション)に帰着するようになった」とも述べた。

 それから3年後に行われた、ローマ・クラブの創立十周年総会。ペッチェイは、自身の演説の全文を池田のもとに届ける、その末尾。「大切なことは・・・・・現代のあらゆる改革の頂点に立つ”人間革命”を成し遂げることである」と綴られていた。


 それは1979年(昭和54年)11月のことだった。会長を辞任した池田は、功労者宅訪問などを地道に続けていた。聖教新聞でもほとんど動向が報道されない日々だった。

 男子部と壮年部の有志が、「池田先生の前で、心を込めて歌を歌おう」と相談した。

幾つもの形、節回しで歌い継がれる「一献歌」が候補にあがった。その何十もの歌詞の中から、自分たちの心に合った歌詞を選び、少し手を加えた。そして、池田の前で歌い上げたのである。

三、木枯らし いつか雪となり

  もの皆   凍てる冬の夜も

  吾等に熱き思ひあり

  弱音を吐くな 男の子なら

  いざ吾が伴よ 先づ一献


四、よしなき愚痴を言ふ勿れ

  なべては空し 人の世ぞ

  消へざる言はず 目に笑みを

  いざ吾が伴よ 先づ一献


五、男の子じゃないか 胸を張れ

  萬策尽きて敗るとも

  天あり 地あり 師匠あり

  君 盃をあげ給へ

  いざ吾が伴よ 先づ一献

  

「いい歌だ!」「もう一度歌おう」「もう一度!」と促す池田。「この歌は、私の気持ちを一番、言い表している」。

宗門の”衣の権威”マスコミの中傷。創価学会の魂である「師弟」の分断を謀る者たち・・・・そんな苦しいときだからこそ、堂々と「胸を張れ」-右の拳を握り締め、男たちは二度、三度と歌い続ける。池田とその弟子たちが、雌伏の日々を過ごした当時。師の思い、弟子の思いを託した「一献歌」は、列島の各地で静かに歌い継がれていった。


 いっぽう福井に隠棲した、国際政治学者の若泉敬は、”一献歌の宴”を忘れなかった。池田に宛てて「極めて有意義な、そしてとても楽しい一夕を過ごさせていただいた」「今日は一日、心の中で先生の御芳情を偲んでおります。先生に対する私の尊敬と信頼は我が生涯を通して変わりません」等と、数度にわたって感謝を綴っている。

 また「何とか、日本の総理にもっと本気に真剣に核軍縮、廃絶へのリーダーシップをとらせる方法はないものでしょうか。手遅れにならない前に・・・・と気が焦ります。この点でも先生の御教導をお願いしたいのでございます」等と、その世界平和の率直な思いも述べた。

 池田は後年、沖縄返還について、「結果論として、もっといいやり方があったという批判はあるだろうが、戦争によって失った領土を戦争によらずして取り戻す事事態が、歴史上、例外に属する」と記している。

長年、福井県長を務めた森岡正昭。「1990年10月、福井市から鯖江市に向かう途中、池田先生が『若泉先生は、お元気だろうか』と尋ねられました。信義で結ばれた友をどこまでも大切にする心を、ひしひしと感じました。



 比較政治学の大家・河合秀和(学習院大学名誉教授)は、1967年に来日したトインビーと種々、意見交換を重ねた。

「トインビーは、戦後日本が進むべき方向を見失っていると考えていた。民主主義と結びついた健全な愛国心が育っているのだろうかーこういう問題意識を持っていた彼は、私に『創価学会はどうか。ナショナリストか、ファシスト、か』と尋ねました」

「私は大要、『創価学会は平和問題にも関心を持ち、自分たちの生活を通して現実を変えようとしている。日本人の精神の空白を埋める役割を果たしていると思う』と答えました。こうした会話を通してトインビーは、『創価学会はファシズムにはつながらない』と判断したようです」

 さらに河合は「トインビーは『賢人』です」と語る。

「『賢人』とは、社会を根底から組み直すような知恵を持った人物のこと。彼に比肩する人は、今はいないでしょう。現代の日本なら、加藤周一がそうだったでしょうか」

「『二十一世紀への対話』が28言語で!それはずごい。この対談集は、創価学会が世界宗教として確立する、一つの画期になったといえるのではないでしょうか」


 3度目の来日で、トインビーが語り合ったのは学者だけではない。

人々から「経営の神様」と言われた松下幸之助。京都でトインビート2時間半、懇談した(1967年11月27日)。この時、松下はトインビーに「創価学会の池田会長に会うべきだ」と勧めている。なぜか。

 1ヶ月前。松下は学会の「東京文化祭」(国立競技場)に招待されている。そして、池田からの心配りに驚き、無名の運営役員たちの誠実さに感動した。

「創価学会の真価というものを認識」「日本の柱ともなる人だと思った」(『人生問答』聖教新聞社)と唸った松下は後年、松下電器産業の幹部が集まる経営研究会でも「学会の池田さんはすごい」と語っている。その松下にトインビーが、「これからの日本にとって一番大切な人は誰か」と尋ねたのである。迷わず池田の名が挙げられた。

 国際政治学者の若泉敬も、池田と会うことをトインビーに熱心に説いた一人である、英訳された学会の書籍などもトインビーに紹介している。

 何人もの”具眼の士”による、「池田大作に会うべきだ」という声が、一歴史家の心を大きく動かしていった。


 トインビーが池田に送った書簡(1969年)は、次のように続く。

「私は、われわれ二人の間で、宗教、科学、宗教と哲学、そして歴史について、お互いの思索を分かち合うことが出来ると考えています。そして私はこのことによって、日英両国民のためだけでなく、人類全体のためにも何か役立てることができるかもしれないと願っております」

 この一言が、『二十一世紀への対話』に至る第一歩となった。

トインビーは英語版『人間革命』序文で、滅び行くローマ帝国と敗戦後の日本を重ね合わせている。そして、混乱のなかで学会が果たした役割を、次のように述べた。約40年前に書かれたこの文章は、「池田大作とその時代」を浮き彫りにする貴重な証言と言える。

「彼(戸田城聖)の指導のもと、そして彼の後継者である池田大作の指導のもと、創価学会は驚異的な戦後の復興を遂げた。それは、経済分野における日本国民の物質的成功に匹敵する、精神的偉業であった」

「戦後の創価学会の興隆は、単に創価学会が創立された国(日本)だけの関心事ではない。池田氏の本書がフランス語や英語に訳されている事実が示すように、創価学会は、既に世界的出来事である」


 

 トインビー史観の集大成ともいえる『図説 歴史の研究』(学習研究社)。その「訳者あとがき」で、フランス文学者の桑原武夫は次のように記している。

「1956年(=昭和31年)、京都で学者たちとの会合がもたれたとき、トインビーが当時目新しかったテープレコーダーを廻しつつ、長時間疲れを見せず意見交換をしたのは壮観であったが、そのさい彼がもっとも熱心に質問をくりかえしたのは大乗仏教についてであった」

 ちなみに桑原は、この一文を書いた翌年、池田とフランス作家アンドレ・マルローの対談集『人間革命と人間の条件』の解説文を執筆。「これは二人の大実践者の対話である」と高く評価している。


 トインビーは晩年まで、「世界宗教」の価値を探り続けた。「西洋一辺倒」の歴史観を排して、「地球そのもの」を視野に入れた彼は、アジア伝来の大乗仏教に注目せざるを得なかった。

 そして、トインビーと桑原が語り合ったこの年。28歳の池田は、戸田の指揮のもと、第4章で触れた「大阪の戦い」を始め、まさに大乗仏教の可能性を開くため、粉骨砕身の日々を過ごしていた。

 

それから11年後の1967年(昭和42年)。トインビーは三度目の来日を果たす。この来日が、池田と出会う”序曲”となった。のちにトインビーが満を持して、池田に対談を要請した書簡(1969年)は、この時の思い出から書き起こされている。

「1967年に私(トインビー)が日本を訪れた時、日本の人達が創価学会について、そして貴方(池田)御自身のことについて、私に話してくれました」

哲学者の梅原猛。当時のトインビーとの出会いを述懐している。

「私が今は亡きトインビーと会った時、トインビーは創価学会について強い関心を表明していた・・・・今のキリスト教にはとてもこんなエネルギーが残っていない。どうして仏教にはこのようなエネルギーが残っているのか、というのがトインビーの疑問であった」(『世界に拓く関西創価学会』1982年刊)

 大乗仏教の精髄である法華経を根底にした、日本最大の宗教団体のリーダー。その大乗仏教の可能性を探っていた歴史学者。二人が出会うのは必然だった、とも言えよう。