EIKOの気まぐれ闘病日記 -201ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 橋本トヨミは、冷や汗をかきながら成田発パンナム16便の座席にたどりつき、シートベルトを巻いた。1982年(昭和57年)5月31日の夕方である。

 初めて搭乗する国際便。まったく勝手がわからない。しかも目的地はアメリカ。1945年(昭和20年)夏、長崎にいた自分の頭上で炸裂した原爆を製造した国である。

 ニューヨークで開かれる第二回「国連軍縮特別総会」。一連の行事の中で、被爆者代表として、苦渋の半生を発表する予定だった。

 -45年8月9日。爆心から1、2キロの自宅にいた。一瞬の閃光と地響き、三才の長男と崩れた家の下敷きに。息子は救出されたが、自分の上には重い梁。動けない、火の手が迫ってきた。逃げんば!

 飛び出た釘が横腹を切り裂く。痛みをこらえ、渾身の力を込めた。辛うじて脱出できた。

 全身を刺したガラス片。”ピカ”を直視した長男の右目には光が戻らなかった。戦後も家族の入退院に明け暮れた。補償も不足し、長く暗い地獄が続いた。


 6月1日。アメリカの科学者グループと懇談した。原爆を開発した「マンハッタン計画」に関わった人もいる。そのひとり、マサチューセッツ工科大学教授のバーナード・フェルドが握手を求めてきた。学究らしく

穏やかで知的な風貌だが、目の奥に何かわだかまりがある。

当たり障りのない話が続いたが、ふと言葉が途切れた時、フェルドが低い声で切り出した。

「あなたはアメリカを恨みますか?」ひやりとした空気が流れる。あまりにもストレートな問いである。極めて微妙な問いでもある。しかし橋本は、何の迷いもなく答え始めた。

「最初は憎くて、たまらんやった。原爆は、たった一発で、我が家の、多くの市民の幸せば奪いよったけん」

 橋本と通訳を交互に見ながら、科学者たちは険しい顔で聞いている。

「ばってん、今は、アメリカでも、世界の誰に対しても、私らが受けた苦しみを、二度と絶対に味あわせたくなかと。そいだけです」

思いもかけない発言だった。

「私は日本で仏教の団体に入っています。創価学会です。会長の池田先生に教わりました。

『愚かな指導者の生命にある魔性が一番悪か』って」

フェルドの顔に驚嘆の色が広がった。




 毎日暑い日が続いてますが、お元気でお過ごしでしょうか?


新しい連載についてですが、8月は6日が広島の原爆の日であり、9日は長崎の原


爆の日、15日は終戦記念日と、戦争と平和を考える月であると思います。


そこで新しい連載は、池田大作の軌跡Ⅲ、第6章「平和・行動と祈り」より、記事を


抜粋したいと思いますので、宜しくお願いします。


 「その時、ライオンのような険しい顔をしたアタイデさんが、満面に笑みを浮かべたんです」(和田栄一、当時のSGI理事長)

 池田が到着したと一報がはいった。普段は両脇を秘書に抱えられて歩くアタイデが、ソファから一人で立ち上がり、ドアへ向かって歩き出した。周りの全員が驚いた。

 ドアが開いた。両手を大きく広げる池田。二人は固い抱擁を交わした。池田は素早く、アタイデの両腕を支えた。「今日は、わが恩師に、再びお会いするような気持ちでまいりました」

1900年(明治33年)生まれだった戸田。アタイデは、2歳違いの1898年生まれである。

「会いたい人に、やっと会えました」とアタイデ。彼は、池田のリオ訪問中も連日コラムを書いた。

「我々は人類の運命の行方を決める一人、池田大作氏を迎えることができた」

翌日も、その翌日も、アタイデのコラムが新聞を飾った。

「氏(=池田)は『武力』を『対話』に変え、相互理解と連帯の力が、すべての悪の脅威に打ち勝つことを教えた」「創価学会の使命をわが使命とし、平和のメッセージを世界中の人々に送り続けている」


 これまで池田は、自分の胸中に生きる戸田と対話しながら、『人間革命』の執筆に取り組んできた。すでに本文は書き終えた。そして単行本の「あとがき」を、”地球の反対側”のブラジルで書くことになった。

 その地で、恩師の戸田と同世代の人物が、これ以上ないほどの歓待で迎えてくれたのである。

 アタイデと別れた直後、池田はしみじみと語った。

「不思議な方だ。アタイデさんの身に、戸田先生が入って、迎えてくれたような気がした」

 アタイデと会った2日後、池田は小説『人間革命』全12巻の「あとがき」を綴る。

「創価桜の大道を行く私の胸のなかに、先生は今も生き続けている。とともに、同志の心のなかにも、先生が永遠に生き続けることを念じてやまない」

そして、こう締めくくった。

「1993年2月11日 恩師の生誕の日に ブラジル・リオデジャネイロにて」


 その数ヶ月前。池田のブラジル訪問に向け、アタイデは準備を重ねていた。打ち合わせのためにアタイデのもとを訪問した吉郷らSGIのスタッフに対して、「私には、池田会長の偉大さがわかる。君たちには、わからんだろう」と笑ったことがある。この時点でアタイデは、池田に会っていない。

スタッフは驚いた。また、心外にも思った。池田のもとで信仰を貫いてきた。師の行動を何度も目の当たりにし、薫陶を受けてきた自負もある。

 しかし、数十年にわたって命がけの人権闘争に身を投じてきたアタイデは、彼らの思いや努力も知った上で、厳しい表情で語った。

「民衆のために戦い、苦しみ抜いた者にしか、彼と、彼を支えてきた香峰子夫人の心はわからない」

「迫害を受けた者だけが、池田会長の価値を知るのだ」



                                                連載終了

  『人間革命』執筆のドラマの最終章は、ブラジルである。そこには、94歳の老雄が待っていた。アウストレジェジロ・デ・アタイデ。1898年(明治31年)生まれ、ブラジル代表として、国連の「世界人権宣言」の起草に尽力。ブラジルの独裁政権に抵抗し続けた。文字通り「人権の闘士」である。

 1993年(平成5年)2月9日、午後9時。リオデジャネイロ・ガレオン国際空港(当時)。アタイデは2時間も前から、待合室のソファに身を沈めていた。池田の到着を待っていた。アタイデの健康を心配するSGIスタッフ、しかし、一笑に付した。

「私はもう100年近くも生きているのです。94年も池田会長を待っていたのです。1時間や2時間は、何でもありません」


 アタイデは独裁政権に抵抗し、獄中生活を重ね、3年間亡命した。ジャーナリストとして書いた記事は、コラムだけで5万本。「70年間、毎日2本」書き続けた計算になる。

 アタイデが池田を知ったきっかけ。それは、ともに「世界人権宣言」に携わった友人の家族から聞いた話だった。ブラジルSGIのメンバーとも交流を深めた。そして決断した。池田に、自身が総裁を努める「ブラジル文学アカデミー」の在外会員就任を要請したのだ。

 終身制の同アカデミー。40人の国内会員と20人の在外(海外)会員で構成される。在外会員には、ロシアのトルストイ、フランスのゾラ、マルロー、イギリスの社会学者で牧口常三郎も影響を受けたスペンサーなどが名を連ねてきた。池田はアジア人初の就任となる。