今日の連載で、池田大作の軌跡Ⅲの「平和・行動と祈り」は終了しました。
私は両親が戦争体験者であり、母は3月10日の”東京大空襲”の体験者ということ
もあり、幼い頃からテレビや映画などで戦争体験をなるべく見るようにしてきました。
8月9日は”長崎の原爆の日”でしたが、佐賀県出身の父によると、佐賀から長崎の
原爆のきのこ雲が見えたそうです。
池田先生は、少年時代に大変な戦争体験をされました。次回からは「私の履歴書」
から、池田先生の戦争体験を連載したいと思います。
今日の連載で、池田大作の軌跡Ⅲの「平和・行動と祈り」は終了しました。
私は両親が戦争体験者であり、母は3月10日の”東京大空襲”の体験者ということ
もあり、幼い頃からテレビや映画などで戦争体験をなるべく見るようにしてきました。
8月9日は”長崎の原爆の日”でしたが、佐賀県出身の父によると、佐賀から長崎の
原爆のきのこ雲が見えたそうです。
池田先生は、少年時代に大変な戦争体験をされました。次回からは「私の履歴書」
から、池田先生の戦争体験を連載したいと思います。
篠原美保子は広島平和記念公園の片隅で息を殺した。1975年(昭和50年)11月8日の午後である。
原爆慰霊碑までおよそ300メートル。視線の先で、池田会長が歩いている。青年が掲げる花環を先頭に、ゆっくりと慰霊碑に進む。
篠原は胎内被爆者である。
この公園の上空で原爆が投下された時、母の胎内にいた。30年が過ぎたいま、篠原は母になろうとしている。初出産を控え、7ヶ月の身重だった。
胎児がお腹を蹴る。だがーもし自分と同じ後遺症の悲劇が、この子に待ち受けていたら・・・・・。
中学一年の時、歯茎から出血し始めた。全身に赤い斑点。紫斑病だった。
高校2年で再発。不正出血も続く。入院する気にもなれず、家に閉じこもった。 死に場所を求め、自宅近くの三滝山の奥深くをさまよった。絶望して大田川の川辺にも立った。
就職差別。結婚差別。被爆者の苦しみは後遺症だけではない。本心を言えば、学会の行事で被爆者として登壇することも苦痛だった。過去に目をつぶり、口を閉ざしたかった。
11月9日に広島で学会の本部総会が開かれる。その前日、会長が平和公園で献花すると聞き、駆けつけた。こっそり建物の柱の影から会長を見つめ、慰霊碑に手を合わせた。邪魔になっちゃいけん。急いで立ち去り、噴水の前の信号で立っていると車が通った。
「あっ、先生!」窓ガラスを下ろして、会長が手を振っていた。
興奮気味に帰宅すると、姑が仏壇から紙片を持ってきた。「生きんさい」。本部総会の入場整理券だった。姑の分だが、篠原が参加することが一家にとって一番プラスと考えたようだ。
翌日、総会の会長講演。ひときわ胸に突き刺さった言葉がある。
「広島の皆さんには、生きる権利がある。生存の権利がある。生きて生きて、生きぬかなければならない!」
いつも死に引き寄せられがちな、弱い心を断ち切られた。絶対に子供を生もう。それが私の生きている証だ。翌年2月、長男を出産。子宝に恵まれ、元気な二男一女の母になった。
篠原は変わった。「一人でも一言でもいい。しゃべらんといけん」
広島市内の大学で被爆体験を語り始めて10年以上にある。相手は米イリノイ大学からの留学生。アメリカ、中国、シンガポール。国籍は多様である。
日本語しかできないが、もっとストレートに語りかけたい。最近では、英語原稿の全文にカタカナで発音を書き込んでいる。あれほど過去を隠していた自分が、世界に呼びかけようとしている。次は中国語に挑戦する予定だ。
篠原の被爆手記は、アメリカで刊行された大学生向けの教科書にも掲載された。
おや?方向が反対じゃないか・・・・。
衛生兵の吉川三雄は、小さな船窓に顔を押し付けた。南下して日本へ帰還するはずの貨物船なのに、逆に間宮海峡を北上しているではないか。
突然、船内のスピーカーが耳をつんざいた。「日本兵士は捕虜としてソ連に連行する。入国のため直ちに所持品検査を行う。甲板に集合せよ!」
畜生!だまされた。国際法の完全に無視している。ソ連を罵る怒号が渦巻いた。1945年(昭和20年)9月、船はシベリアに碇をおろした。ラーゲリ(強制収容所)で過酷な労働が待ち受けていた。
猛吹雪の日。原始林で伐採作業をしていた吉川は仲間とはぐれた。頼りの焚き木が消えた。ああ、俺は死ぬ・・・・。
気がつくと病院のベットの上にいた。全身凍傷、傷が癒えると、衛生兵の経験を見込まれ、看護士になった。しかし、あっけなく仲間は命を落としていく。厳寒期は一晩に最低一人は死ぬ。
せめて人間らしく野辺送りしてやりたいが、ソ連兵は「死人に着せる服などない!」枯れ木のような裸の骸がシベリアの大地に吹きさらされた。
1年が過ぎた、病室から怒声と野次が聞こえる。
「この帝国主義の手先め!徹底的に自己批判しろ!」
目を血走らせた捕虜が、同じ日本人を吊るし上げている。「大衆裁判」が開かれていた」
共産思想への洗脳。きかけは壁に貼られた「日本新聞」だった。日本政府を批判し、ソ連をたたえる記事が紙面を埋める。編集長はKGB(ソ連国家保安委員会)の中佐コワレンコである。
冷たく凍った目の男も潜入してきた。思想教育のプロ。患者は恐怖におののく。これが病院なのか。
警察官。憲兵。役人。支配階級にあった者を引きずり出す。吊るし上げは2時間、3時間と続く。肉体的に弱ったところへ精神的に辱める。発狂して首を吊る者も出た。
生き地獄そのものだった。
吉川も机の上に立たされ、徹底的に批判された。反抗すれば帰国の道が閉ざされる。歯をくいしばった。同じ祖国の仲間なのに、なぜ!
48年(昭和23年)6月。日本への帰還許可が出た。抑留は実に971日間。ソ連への憎悪は消えようがない。
帰国後、北海道庁に職を得た。再婚した妻のミサヲは学会員で、しぶしぶ入会した。内心、これも洗脳の一種じゃないのかとも疑った。
しかし根は勉強家。池田会長の著作に吸い寄せられる一文があった。
「戦争は人間の生命に巣食う魔の所業である」
シベリアで人間の魔性を嫌というほど見てきた。最も驚いたのは、共産主義者との対話だった。冷戦下、ソ連、中国の首脳をも魅了している。「日本新聞」編集長、コワレンコまで池田会長を深く慕っていた。
あの共産主義の権化が!吉川は悩んだ。自分が小さく思える。ソ連を憎んでいるだけでいいのか。池田会長を見てみろ。自分に何かできないか。そうだ、あの悲惨な体験を後世に残すことができるじゃないか。
思い出すのも嫌だった過去を呼び起こし、原稿用紙に刻み付けた。ラーゲリでの日々、同胞の死。執筆は深夜にまで及んだ。
よし、これでいいだろう。1984年(昭和59年)ペンを置いた。原稿用紙5000枚。憎しみの壁を乗り越えた満足感があった。
この資料をもとにまとめた『971日の慟哭』は96年(平成8年)北海道ノンフィクション賞(特別賞)に選ばれた。
「日本名は鈴木光義さん、鈴木光義さんです。山東省から来られました。中国名は・・・・」
ブラウン管から叫びにも似たアナウンサーの声が響いていた。
1983年(昭和58年)11月。石崎馨はテレビに食い入った。顔面に男性の顔が映し出され、テロップに間違いなく「山東省」の文字が流れている。その上には「中国残留孤児帰国調査」とあった。
目と耳を疑った。山東省に残留孤児?
石崎は、巣鴨とげ抜き地蔵の近くで工務店を営む平凡な職人である。
大戦末期の44年(昭和19年)に召集され、宇都宮第十四師団第二歩兵連隊に入隊した。戦況は悪化の一途である。訓練もそこそこに中国・山東省に派遣された。
翌年8月、終戦。石崎ら山東省駐留の舞台は、粛々と任務を遂行した。最後まで踏みとどまって、山東省に在留する邦人の帰国ルートを確保した。祖国への帰還に全力を注いだ。
テレビを消して考えた。どうして山東省に残留孤児がいるんだ。全員帰国させたはずではないか。大工の石崎は、仕上げた仕事にケチをつけられたようで面白くない。
翌朝、厚生省(当時)に電話し、残留孤児「鈴木光義」の滞在先を教えてもらった。訪ねていって、鈴木に会った。
生い立ちを聞くと、第十四師団の手が届かない地域で、一家は離散していた。そうだったのか。残念で仕方ない。
ここから残留孤児との縁ができる。3年後、鈴木光義の妹・信子が発見された。しかし、お役所の杓子定規の規定にはばまれ、日本の在留が認められない。石崎は家族を集めた。
「俺が身元引き受け人」になる。縁があるんだ。見離せない。さんざん池田先生から『一人を大切に』と教わってきたじゃないか」妻も家族も賛成してくれた。
石崎の店は、学会の戸田記念講堂に近い。幹部会のたびに池田会長を迎えた。出会った一人一人に、とことん面倒を見る姿勢が目に焼きつく。
「日中友好なんて大それたことを思っちゃいなかった。ただ、日本に帰りたい、と言っている人の力になりたくて。それに中国人は、敵国だった日本人の子供を育ててくれた。その恩義に報いたかった」
妻・かなえと共に身元引受人として厚生省に登録。以来、世話した孤児らは24年間で20世帯、100人を超える。
帰国した孤児に池田会長の足跡を語ることもある。日中国交正常化提言。周恩来との出会い。
「あなたたちが、ここにいるのも、日中友好の井戸を掘った人がいるからだ」。孤児たちは、驚きと感謝のまじった顔になる。
伊藤栄子(愛知県新居浜市)の父・喜市、BC級戦犯だった。
軍事裁判にかけられ、4年間、東京の巣鴨プリズンに押し込められた。
もともと平凡な製缶工である。43年(昭和18年)秋。会社から、工場で捕虜を使うように命令された。
新居浜には収容所があり、オランダ、オーストラリア等の捕虜がいた。命令で警戒員を努めた喜市は戦後、捕虜虐待の罪に問われた。
娘の栄子は、一度だけ母に手を引かれ、巣鴨プリズンの父を訪ねた。
48年12月22日。池袋の周辺には闇市がひしめき合い、喧噪がうなっていた。
募金箱を首から提げた傷痍軍人。無表情で丼物をかっこむ女。流行始めた「異国の丘」のメロディーがラジオから流れてくる。刑務所は異界だった。ヘルメット姿の立哨兵。肩にかけた機関銃が鈍く光る。高さ5メートルほどの赤茶けた塀の中へ。万事アメリカ流で運動場も整っている。娯楽施設もある。食事も栄養価の高いメニューだった。
金網越しの父と母
「元気な?」
「元気だったか?」
お互いに言葉を交わしたっきり。嗚咽が続く。30分の面会時間は、たちまち過ぎた。
長い廊下を、うつむきながら歩く女性とすれ違った。ある戦犯の夫人だった。この日の深夜、元首相・東条英機の絞首刑が執行された。伊藤の父は受刑者として、後片付けをさせられた。
仮釈放され、新居浜に戻ってきた父は、すっかり無口になった。何かを忘れるように酒に溺れた。
創価学会で信仰と出会った伊藤だが、誰にも打ち明けられない悩みがあった。
なぜ父は戦犯になったのか。私は犯罪者の娘なのか。問いただせないまま、重く時が流れた。
そんな彼女の心に響いたのが、小説『人間革命』第3巻「宣告」の章だった。物語の舞台は、極東国際軍事裁判(東京裁判)である。
1966年(昭和41年)12月22日から聖教新聞で連載開始。奇しくも、巣鴨プリズンで父と面会した日だった。
東京裁判を真っ向から論じている。勝者が敗者を裁く。そこに正義があるのか。戦勝国なら人を処刑しても罪にならないのか。父も戦争の犠牲者であることを改めて思い知った。
「宣告」の章に背中を押され、戦犯について聞きたい、と父に初めて問う事ができた。学会が戦争証言を集めている時期である。
「ええが。済んだことじゃが」と言っていたが、一つ一つの記憶が鮮明だっだ。捕虜全員の名前すらも。高熱を出した捕虜のため、自ら薬を求めて飲ませたこと。その捕虜の証言で減刑されたこと。決して非人道的な父ではなかった。
貝のように押し黙っていた過去が明かされ、父と娘の長い戦後が終わった。