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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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敗戦―それは私にとって一つの大きな区切りであった。敗戦の感慨は深かった。

戦争は生活の隅々に投影されていた。昭和3年前後に生まれた世代にとっては、それが実感であったと思う。
天皇の名で始まり、天皇の名で遂行された戦争が、玉音放送で終わった。しかし現実には、人々は生きていくのに精一杯であった。荒廃した街に残ったのは、食糧事情の悪化であった。
昭和21年の1月には三番目の兄が、8月には四番目の兄が、9月には二番目の兄が復員してきた。子供たちが復員してくるたびに父も母も明るさを増し、一家は活気づいた。

しかし、長兄の喜一の消息は依然としてわからなかった。


終戦の日から2年近くが過ぎようとしていた、昭和22年5月30日のことであった。大森区森ヶ崎の家に役所の人が訪ねてきた。

年老いた役所の人は気の毒そうな顔で、一通の書状を母に手渡した。長兄の戦死の広報であった。

母は丁重にお礼を言い、それを受け取ると家族に背を向けた。その背が小刻みに震えていた。声を押し殺すようにして、すすり泣く声が聞こえた。


その広報には「昭和20年1月11日 享年26歳 ビルマで戦死」となっていた。この時点では、戦死の状況は何もわからなかった。また長兄は29歳になっているのに、年齢が間違っているところから、家族の誰もが間違いであって欲しいと願った。


間もなく遺骨も帰ってきた。家族のはかない望みは打ち砕かれた。

私はきっと長兄は、自分と分け合った母の鏡の破片を身につけたまま息を引き取ったのだろうと思った。


長兄の喜一は、インパール作戦の際、前線への軍需品の輸送にあたっていた。作戦の中止後は、撤退部隊の援護などのために、ラングーンの北方約六百メートルに位置する、古都マンダレー西方のミンジャン付近で、渡河の輸送を担当した。そしてイラワジ川の輸送任務中に、喜一の乗っていた船が、イギリス軍の戦闘機の攻撃を受け戦死したのである。29歳であった。
明朗快活で責任感と正義感の強い兄であり、弟妹からも慕われていた。

私(池田名誉会長)は、兄たちのなかでも、ことのほか長兄の喜久夫に信頼を寄せていた。この兄とは、いくつもの忘れがたい思い出があった。


その一つが長兄と分け合った一枚の鏡の破片である。この鏡は母が父のもとに嫁いだ時に自参した鏡であった。何かの拍子でその鏡が割れてしまった。

長兄と私は、破片の中から、それぞれ手のひらほどの大きさのものを拾った。それは二人の大切な宝物になった。


長兄は徴兵されると、その鏡の破片を持って出征していった。

私は、兄は戦地にあって、この鏡を取り出しては母をしのび、自分のことも思い出していたにちがいないと思った。私もまた、破片を見ては兄をしのび、空襲の時も鏡の破片をポケットにしのばせて、焼夷弾の下をくぐり抜けてきた。

終戦を迎えると、私が勤めていた新潟鉄工所は閉鎖になった。私は下丸子にある会社に勤め家計を支え、東洋商業の夜学の2年に編入した。

 戦局は日を追って激化し。敗色は濃厚になっていく。蒲田にも空襲が続いた。

昭和19年にすぐ上の兄が軍用列車に乗り込むのを品川で見送って以来、9人の兄弟の中で5男の私が、一家の面倒を見ていくようになった。

 糀谷二丁目の名誉会長の家は、空襲による類焼を防ぐため、強制疎開させられることになった。家は取り壊され、一家は住む場所を失った。やむなく馬込のおばの家に、新しく一棟建て増して、お世話になることになった。強制疎開が始まると、少しずつ分けて荷物を馬込へ運んだ。リヤカーで運ぶには時間がかかり、大変な重労働であった。

 それでもようやく家具などをずべて運び終えた。まがりなりにも家の体裁もととのい、あすからは父母も引っ越すという前夜、5月25日の空襲があった。馬込にも焼夷弾が降って、夜空を赤く焦がした。火の手は随所にあがり、とうとうおばのところも直撃を受けて全焼してしまった。私は噴き上げる火の中を、必死になって荷物を持ち出そうとしたが、大きな長持ちひとつを下の弟と一緒にかろうじて持ち出せたに過ぎなかった。あとはなに一つ残らず、全くの裸同然で焼け出されたのである。


 翌朝、ぼう然としつつ、皆で焼け跡を片付けた。長持ちも開けられた。たった一つ残った財産である。ところが、開けてみて唖然とした。それは雛人形が入った長持ちで、コウモリガサも1本申しわけなさそうにはいっていた。

 必死で持ち出したのが雛人形とは。心の落差は大きかった。あすから、いや今夜からどうすればいいのか、弟も妹もいる。そんなときであった。母はこう言った。

「このおひなさまが飾れるような家に、きっと住めるようになるよ。きっと・・・・・」

母もガッカリしたに違いない。しかし母は努めて明るくこう言ったのである。母の言葉には千鈞の重みがあった。皆はつりこまれるように笑った。笑いの中に希望がうまれていくようであった。

 私たちは急こしらえのバラック小屋に住むことになった。屋根はトタンを打ち付けた代物である。夏の夜、昼間の余熱があって部屋はうだるように暑かった。


 戦争の無残さは、津波のように我が家を襲い、すべてをめちゃくちゃにした。私はいつとはなしに、戦争の無意味さを、問い始めるようになっていた。何のための戦争か。戦争の悲惨さはこの五体に刻み込まれ、その体が戦争の告発へと向かっていったのである。



 真珠湾攻撃の翌年、長兄は再び戦地へ赴いた。次兄も。三番目の兄も。4番目の兄の出征も時間の問題であった。

 やがて、国民学校の卒業が近づいてくると、名誉会長は思い悩んだ。自分も国のために役立ちたいとの強い気持ちから、少年航空兵になることを考えていた。

 ”兄さんがいうように、戦争は残酷かもしれない。しかし、日本の戦争は東亜の平和を守る聖戦なんだ

名誉会長は純粋にそう信じていた。父も母も、少年航空兵になることは反対であったが、志願した。

 志願書をもとに、名誉会長の留守中に海軍の係員が訪ねてきた。

父親は、猛然と言った。「うちは、上の3人とも兵隊に行った。まもなく4番目も行く。そのうえ5番目までもっていく気か。もうたくさんだ!」

父の気迫に、係員は「わかりました」と言って帰っていった。

名誉会長が家に帰ると、父親は名誉会長を怒鳴りつけた。

「俺は、どんなことがあっても、お前を兵隊にはさせんぞ!」常にない父の剣幕であった。

名誉会長は不満を感じた。しかし、長兄が語っていた言葉が、彼の頭をよぎった。

「あとに残って、一家を支えるのは、大作お前だ。親父の力になってあげてくれ。それからお袋を大事にな・・・・。俺の分まで、親孝行するんだぞ」と。耳元でその言葉が反復されて聞こえてくる。事実、私が兵隊に行ったら、父母はどうなるかわからなかった。私は断念した。まもなく、すぐ上の兄が出征した。


名誉会長は、やむなく家の近くの新潟鐵工所に就職した。

会社は軍需工場として艦船部門の一翼を担っていた。社内には、青年学校が設けられ、工場実習。勉強のほか、軍事的な教育、訓練も行われた。

 指導員は、生産性を挙げることが、戦地で戦う兵士を守る力になると強調していた。

それを聞くたびに、名誉会長は長兄の喜久夫をはじめ、戦地にいる兄たちを思い、疲れ果てた体に鞭打って、仕事に全力を注いだ。


 ある時、指導員がネジの切り方に関連して、方程式を黒板に書いて説明した。しかし、大雑把な説明でもあり、名誉会長は十分に理解できなかった。質問すると、指導員は一喝した。

「なに!そんなことはわからんでいい!生意気なことを言うな!」

問答無用の、強圧的な態度である。

 青年学校では、指導教官や上級生による往復ビンタも、日常茶飯事であった。工場、学校も軍隊同様であり、国民は皆、兵士といってよかった。

 この頃から、名誉会長は咳き込み、発熱することが多くなっていった。


 昭和19年の夏、猛烈な太陽が照りつける、昼下がりのことであった。青年学校の軍事教練で、木銃を持ち蒲田駅近くの工場から、多摩川の土手に向かって行進していた時、突然気分が悪くなって倒れかけた。「どうした!」「大丈夫か!」周りにいた友達が支えてくれた。

 苦しかったが、その日はどうにか最後まで教練をもちこたえたが、血痰を吐いた。

名誉会長は結核にかかっていたが、無理を重ねながら、仕事と教練を続けてきたのである。39度の熱を押して仕事をしたこともあった。『健康相談』という雑誌を頼りに、せめて自分で健康に気遣うことしかできなかった。しかし、昭和20年の初め頃には、とうとう医師から、地方の療養所に入るように言われた。もはや病状は絶望的であったようだ。


 この頃になると、日本の敗色は濃厚になっていた。少年航空兵になった友達が、戦死したとの話も耳にはいってきた。国のために戦い死んで行った友人がいるのに、病に侵され何もできずにいる自分を恥じた。やがて蒲田も大空襲に見舞われた。空襲によって、入院の話もいつの間にか立ち消えてしまった。


 




 池田名誉会長は、今の東京・大田区の入り新井に、昭和3年正月2日、九人兄弟の五男として海苔屋の家に生まれた。

 名誉会長が小学2年生の時に、父親がリューマチで寝たきりになってしまい、生活に窮する事となった。

 昭和12年に長兄が中国大陸に出征し、兄という働き手を失い、生活はますます窮していった。小学6年政の頃には、次兄も出征していった。

 高等小学校2年生の時、昭和16年12月8日の”真珠湾攻撃”があった。その頃長兄の喜一は4年ぶりに一時、除隊になって家に帰っていた。

 長兄は憤懣やるかたない様子で、戦争の悲惨さを名誉会長に語った。

「日本軍は残虐だ。あれでは、中国人がかわいそうだ。日本はいい気になっている!平和に暮らしていた人達の生活を脅かす権利なんて、誰にもありはしないはずだ。こんなことは絶対にやめるべきだ」

そして最後に、涙さえ浮かべて言った。

「大作、戦争は、決して美談なんかじゃない。結局、人間が人間を殺す行為でしかない。そんなことが許されるものか。皆、同じ人間じゃないか」

「でも、兄さんは帝国軍人でしょ」

「そうだ。そして、戦地を見てきたからこそ、私はお前にいうのだ」

その長兄の話が、いつまでも名誉会長の心に焼き付いて離れなかった。


 当時、名誉会長は”国民学校”に通っていた。昭和16年の4月から、国民学校令によって、通学していた”羽田高等小学校”から、萩中国民学校に名前が変わった。国民学校令には「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」とあるように、学校は国のために忠義を尽くす、”小国民”を錬成する道場となっていた。

 軍国主義は、幼い魂にも、刷り込まれていったのである。

 名誉会長も国民学校で、国のために戦い、死ぬことが、臣民としてのまことの道であると教えられていた。それだけに長兄から聞いた戦争の話は、衝撃的であった。


            参考文献  池田大作著「私の履歴書」「新・人間革命 第3巻 平和の光」