EIKOの気まぐれ闘病日記 -198ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 今日で池田先生の戦争体験の連載は終了しました。


皆さん、いかがだったでしょうか。


つたない文章ですみません。


 次回は、池田大作の軌跡から、あまり知られていないエピソードを書いていきたい


と思っています。


 あと、このブログは闘病ブログなので、私の病気のことも書いていきたいと思います。


これからも宜しくお願いします。


2回目の終戦記念日を迎えようとしていた蒸し暑い真夏のよるである。

小学校時代の友だちが訪ねてきて「生命哲学について」の会があるからこないかという。生命の内的自発性を強調したベルグソンの「生の哲学」のことかと思って尋ねてみたが、そうではないという。

私は興味をもった。約束の8月14日、読書サークルの二人の友人と連れ立って、その「生命哲学」なるものを聞きに向かった。

目指す家の玄関をはいると、20人くらいの人びとがいたが、ややしゃがれた声でしゃべっている40代の人が目に入った。度の強い眼鏡の奥が光る。

戸田先生は微笑しながら「いくつになったね」と訪ねられた。
私は「教えていただきたいことがあるのですが・・・」と質問をした。「正しい人生とは」「本当の愛国者とは」「天皇をどう考えるか」の3点であった。

直截簡明な、しかも誠実な答えが返ってきた。少しの迷いもなく、理論をもてあそぶこともない。「これだ!」と思った。この人の言っていることは本当だ!私は、この人なら信じられる、と思った。何も信じられない、といったような心とともに、しかし、何かを探し求めていたのである。

さらに話を聞くと、戸田先生という人物は、戦時中あの無謀な戦争に反対し、軍部独裁の国家権力の弾圧にもかかわらず毅然として節を曲げずに、昭和18年治安維持法ならびに不敬罪で検挙され、投獄されながらも己の信念を貫き通したというではないか。これは決定的な要素であった。2年間の獄中生活に耐え、軍国主義思想と戦った人物には、信念に生きる人間の崇高さと輝きがある。
思想上の"安眠"から精神的な"不眠"へと進む危機一髪のときに、私は人生の師に会うことができたのである。

10日後の8月24日の日曜日、私は創価学会の一員として出発することになった。

世の中の変わりようは激しかった。真実とは、人間とは・・・・。敗戦により従来の価値観はひっくり返ったように思われた。何を支柱に生きていくべきか、若者たちは悩んだにちがいない。私もその一人であった。

無性に勉強がしたくなった。戦争という異常事態下にあっては、好きな読書も満足にはできなかった。そうだともかく学校へ行こう。それも昼間の学校へ行くことは、経済的にとても余裕がない。

終戦の秋にはまだ出征した兄たち4人とも家に帰っていなかったし、私は家の家計を支えることが不可欠であった。

そして終戦の年の9月から神田の東洋商業に中途編入することになった。

生活に疲れた人びとは、溜め息と吐息の連続。皆その日をしのぐのに精一杯であった。消沈、焦りの渦。生活の様式が大きく変わり、既成の価値観が逆転し、あわただしく変動する時代に、いかに生きていくかは難しい問題であった。
戦後の荒廃と虚脱が、思考力まで喪失してしまった人間を生み出す。このような世には、何かしら抵抗せざるをえない。家の付近に住む20歳から30歳までの学生、技術者、工員、公務員など20人ほどの青年たちが集まって、読書サークルを作っていたが、私もメンバーに加わり人生の指標を探していた。

終戦当時の母は、我が子の復員のみが希望だった。特に長兄・喜一のことは気がかりのようであった。中国大陸から南方へ向かって以降、音信が途絶している。

長兄の話になると、母はこう言うのが常であった。
「大丈夫、大丈夫。きっと元気で帰ってきますよ。だって『必ず生きて帰ってくる』と言って出ていったんだもの」

しかし、長兄の戦死の広報が届き、間もなく遺骨も帰ってきた。母はいつまでも、長兄の遺骨を抱き抱え、いつまでも背中を震わせて、泣き濡れていた。

母はどんな時でも気丈であった。その母が打ち沈んでいる姿に、私の胸は痛んだ。

私は遺骨を抱き抱え、いつまでも背中を震わせて泣いていた母の姿を忘れることができなかった。以来父も母も、めっきりふけこんてしまった。

戦争の無残さは、津波のように我が家を襲い、すべてをめちゃくちゃにした。私はいつとはなしに戦争の無意味さを問い始めるようになっていた。

何のための戦争か。戦争の悲惨さはこの五体に刻みこまれ、その体が戦争の告発へと向かっていったのである。

私の反戦平和への心の軌跡をたどるとき、こうした原体験から発しているのは明らかである。
心が戦争を生み、人をして戦争に走らせ、やがて、やがて戦争を憎む。

兄たちが復員してくる前の敗戦の年の9月、私(池田名誉会長)は17歳であった。私は大きなリュックサックを背に、幕張の駅に降り立った。

戦争で焼け野原になった東京には、満足な食糧はなく、一家の食べ物を手に入れるために、幕張の農家まで買い出しに来た。
すし詰めの列車からホームに降りると、私はめまいを覚えた。買い出しといっても、訪ねるあてはなかった。
麦わら帽子を被った一人の農家の主婦らしい人のところに近づいていった。

婦人は私の方を見て言った。
「あんた、どこから来たんだね」素朴だが温かみのある声であった。
「東京の蒲田です」
「そう。いやに顔色が青いね。疲れているのかい」
「・・・・結核なんです」
「まあ・・・・少しうちで休んでいきなさい」
「兄弟はいなさるの」
「はい。兄たちは兵隊に行ったままです」
「それで、あんたが買い出しにきているんだね」

婦人は私の家の様子を聞いた。私は、家は空襲による類焼を防ぐために強制疎開させられたことなどを話した。

「今うちには余分なものは何もないけど、サツマイモがあるから持っていきなさい」
「またいつでもいらっしゃい。あんたのことは覚えておくからね」

私は一貫12円で、六貫ほど分けてもらった。婦人の親切がありがたかった。

その月のうちに、私はまた幕張にやってきた。婦人は約束通りに、喜んで私を迎え、カマスいっぱいの芋を譲ってくれた。

食糧難で人の心も殺伐としていた時代であっただけに、婦人の素朴な真心は、私の胸に深く染みた。

それ以来、その婦人と会うことはなかった。しかし、毎年サツマイモが出回る季節になると、私はあの婦人の優しい笑顔を思い出すのであった。



参考文献「新・人間革命 勇舞の章」