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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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青葉城址にビール瓶を1本、持ってきた会員がいた。「戸田先生に、ぜひ召し上がっていただきたいのですが・・・・・」
遠慮がちに差し出す。ビールがまだ貴重品だった当時である。会長は真心を喜んだ。滞在する宿まで成田がビールを届けることになった。胸にしっかりかかえ、バイクの後部座席に乗って坂道を下る。ちょうど会長車と同じタイミングで宿に着いた。ビール瓶に集中するあまり、降りるときにバランスを崩した。「おーい、大丈夫か」
飛んできた声に成田は元気いっぱい「はい」と答えた。周りから「そうじゃなくて、ビールだよ」の声。
「ビールも大丈夫です!」
笑いがドッと起こる。気楽なものである。
ひとりだけ、身を案じてくれた。
「ビールはいいけど、ケガはなかったかい?」
振り向くと池田室長だった。
三々五々と集ってきた青年が、息を弾ませながら山道を登った。独眼竜・伊達正宗が城を築いた青葉山である。戸田会長と青年部の池田室長の姿がある。 昭和29年4月25日の早朝だった。仙台支部の総会に出席するため、前夜仙台駅に到着した。
総会の前に青年へ大切な指針を授けたい。その場に選んだのは、かつて奥州一帯に覇をとなえた堅城だった。山の頂に、新しい白亜の像があった。直立不動の伊達正宗が、霞たなびく眼下を見下ろしている。戦前までは銅の騎馬像だったが、戦中に供出され、五三年秋に新しく再建したばかりだった。像と向き合う戸田会長。やや甲高い声を投げた。
「伊達君、元気か!」
マッカーサーを「梵天君、やるな」と評し「高杉晋作とは、一度会ってみたかったな」と語っていた戸田会長にかかれば、奥州の覇者も百年の知己である。
呵々と大笑しながら、仙台平野を一望する東の崖に立った。広瀬川が白い帯のように蛇行している。
西は深い原生林、南は渓谷。まさに天然の要塞である。唯一の攻略口だった北側には、堅固な石垣が築かれていた。
「ここに城を築いた伊達正宗は頭がいい。やはり天下の名将だ」
会長は左に付き添う池田室長に語りかけた。女子部の成田レイ子は二人の会話が聞きたくて、人ごみの間を縫って近づいた。会長は崖の縁まで、ずんずん進む。下は切り立った谷底。その動きにぴったりと合わせる室長。一言も聞き漏らすまいと「求める」一方で、身を挺して「護る」姿勢を取っている。
―すごいなあ、すごいなあ。二人の会話に耳をそばだてた。
「どんなに立派な城をつくっても、何百年も過ぎてしまえば、このように荒城となってしまう。戦のための城は、いつか破れる」
会長は苔むす石垣を指差した。「昔の戦は、城が大切だった。いま大事なのは人だ。創価学会は人材をもって城となすのだ。永遠に崩れぬ人材の城を築くのだ」
池田室長のほかに60名ほどの青年部員がいたが、むしろ彼らが舌を巻いたのは、室長の手の打ちようだった。
「総会会場の点検をはじめ、戸田会長の通る道、休む場所まで、すでに綿密に検討され、事前に手が打ってあった。これが師匠に仕える姿勢なのかと驚いた」

 詰襟の学生服を着た佐瀬章が、眠い目をこすりながら仙台駅に急いだのは1951年(昭和26年)7月15日の午前7時だった。改札の外に80人ほどの人だかりができていた。もうすぐ東京からの夜行列車が到着する。

「いっぱいだなぁ。池田さんって、どういう人だろうか」

佐瀬をはじめ、一行にとって未知の人物である。それでも仙台支部の支部長になっていた渋谷の鼻息が、やけに荒い。

「すごい人が仙台に来てくれるぞ」

その勢いに押され、朝からこんなに集まったのである。

あいにくの雨だったが、改札口から出たところで、からりとした声が響いた。

「おはようございます!雨の中、ご苦労さまです!」

 さっと頭をさげた。何人か、東京からの同行者がいるが、それらのけだるい顔とは、えらい違いである。

「お世話になります。青年部の池田と申します」

 日曜日のこの日、午後から座談会が開かれた。仙台駅の東に、戦災をまぬかれた街並みがあり、洋服店を営む熊谷宅が会場だった。

 8名の友人をまじえ、計60名ほどが二間をぶち抜いた部屋に集まった。

東京から来た幹部が何やら小難しい話を得々としゃべり続けている。サッパりわからない。ぽかんと口が開きだしたとき、司会が告げた。

「続いて体験談。池田班長」

 結核を克服した体験である。おもしろい。分かりやすい。理屈ではなく、実感したことを自分の言葉で伝えてくれる。戸田第二代会長の事業を必死で立て直した経済闘争も語ってくれた。

 続く質疑応答では、次々と手が挙がった。やがて友人のほとんどが入会を希望した。

 会場を提供した熊谷よね。

「池田さんと言う青年部の班長さんが、うちに来てくれた。目が鋭くて、素晴らしい方でね。礼儀正しく、ハッキリと話しておられた。折伏が上手で、いっぱい入会したんだよ」

彼女の一生の語り草だった。


 夜は別会場で御書講義。

終了後、池田班長は青年たちと車座になった。4日前に行われた男子部結成式の様子を語る。

「先日、東京で、ついに男子部が結成されました。今日の仙台と同じく雨でした。豪雨でした。戸田先生のもと、青年部が決然と立ち上がる時が来たのです!」

 佐瀬は度肝を抜かれた。すさまじい気迫である。背後の障子までびりびり震えるように感じる。

「青年部の戦いで、戸田先生を必ず東北にお迎えしようじゃないか!」

この春、高校を卒業したが、進路は決まらず浪人。学会の活動にも消極的だったが、心がスパーンを一変した。

「エライことになったなぁ!よーし、オレもやるぞ!」


 4ヵ月後、学会指導部長の柏原ヤスら3人が東京から仙台にきた。

雑然とした”未開の地方組織”を想像していたが、目を見張った。

拡大の意気さかん。各人の信仰への姿勢も、組織の在り方も、真っ直ぐで曲がったところがない。

「いったい、いつの間に・・・・・。東京のA級支部以上に楽しみではないか」

数日後、聖教新聞に「仙台支部ルポルタージュ」が大きく載った。興奮冷めやらぬ見出しが並ぶ。

「整然たる陣容  多数の人材と融和 この支部には実力がある」

誰よりも喜んだのは、戸田会長である。翌52年3月、初めて仙台の地を踏む。池田班長が布石を打ってから半年余りで、東北の会員数は約3倍に達した。

会長は宣言した。

「よし。東京から始まった学会の組織に”右の腕”ができた。この仙台が東日本の出城だ」

以来、戸田会長の東北指導は5年間で15回に及ぶ。




数日前、気分転換をしようと思って東京に行ってきましたニコニコ


赤坂に行ったり、初めてゆりかもめに乗ったりして、いい気分転換になりました電車


赤坂では、美味しいお寿司を食べて、大満足でしたニコニコ


たまには気分転換もいいですねニコニコ

 ここだ・・・・。青年は立ち止まって、頭上の看板をながめた。

「創価学会本部」。白地に黒い文字で書かれている。右手でネクタイの具合を確かめ、右脇の細い路地に入った。

 東京・西神田の旧学会本部。建物には、戸田城聖が営む信用組合の事務所があり、本部機構もここに置かれていた。裏口から階段を上がり、中二階の和室をのぞく。

「いよう、仙台!よく来たなぁ」戸田が、いつものニックネームで呼んでくれた。

渋谷邦彦は生粋の仙台っ子である。戦前、中央大学で学んでいたとき入会した。戦後、生まれ故郷で実家の海産物商を手伝っていたが、インフレの高波に飲み込まれて倒産した。

 職を探しに上京したのは、1950年(昭和25年)の秋である。戸田は、久しぶりに会う東北の青年をねぎらった。

「このご時世だ。男一人でも暮らしを立てるのは、なかなか大変だよ。気長に構えることだ。ところで、こっちに泊まる場所はあるのか?」「いいえ・・・・」

「そうか。心配するな。僕が心から信頼し、右の腕とも頼んでいる青年を紹介しよう。上の仏間でまってなさい」

 待った。しばらくして白い開襟シャツの青年が現れた。目が合った瞬間。

「渋谷さんですね。池田と申します。戸田先生からすべて伺いました。私の部屋でよろしかったら、ご自分の家だと思って、何日でも何ヶ月でも住んでください」

初対面で、しかも突飛な願いなのに、こころよく受け入れてくれる。

「田舎者ですが、よろしくお願いします」歯切れのよい声が返ってきた。

「僕も下町の生まれです。安心してください」


 大田区のアパート「青葉荘」。ここで計5日間、厄介になった。

男の一人暮らし。さぞ殺風景だろうと思っていたが、きれいに掃き清められ、整然としている。部屋を圧する大きな書棚。哲学、文学、政経、科学・・・・。よく読みこまれた本がギッシリと並ぶ。

 池田大作青年は毎朝早く、きちっと身なりを整えて出かけた。帰宅は決まって深夜である。”いったい、この人は・・・・・。朝から晩まで何をしているのか、口にすることはない。ただ布団に身を横たえた顔には疲労の影が濃い。時には熱っぽく見える。それでいて、腹を減らしていると外食券のつづりまで分けてくれた。

「東京は食糧難ですから。これを使ってください」

 帰る日がきた。せめてものお礼に、田舎から持参した米を差し出した。木綿の手ぬぐいで縫い合わせた袋に仙台米が二升つめこんである。

「かえって申し訳ないです」

池田青年は、しきりに恐縮した。あいにく就職先は決まらなかったが、渋谷は心を奮い立たされたような思いで仙台へ戻った。ほどなく大手保険会社に就職することができた。


 後年、渋谷は思いがけない話を聞いた。

あの時の米二升ー。

戸田が語ったというのである。

「大作は『弟子の真心ですから』と言って、そのまま全部オレにくれたんだ」

 当時は事業に敗れ、膨大な負債を抱えていた。そのもとで池田青年は孤軍奮闘。からだを病み、給料を遅配の連続だった。

 渋谷には思いも寄らなかった。

「あんな修羅場で、俺のような田舎者を、温かく迎えてくれたのか」



      参考文献「池田大作の軌跡Ⅳ 第一章より」