EIKOの気まぐれ闘病日記 -196ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 函館の岸壁を離れた青函連絡船「羊蹄丸」は、船首を津軽海峡に向けた。

昭和46年6月12日。北海道指導を終えた池田会長が、船内の一室で本を積み上げ、ペンを握っている。青森まで約4時間の船旅。揺れる船上で、本の見返しに東北の会員への贈言を揮毫し続けた。


 翌13日の日曜日。記念撮影会が青森山田高校で行われた。地元の青森市内はもとより、八戸や弘前、下北からも続々と来る。バスは数十台も連なっている。

「すごいことになってるなあ」

 高校側の受け入れ担当者だった教頭の木村隆文は驚いた。大人数なのに混乱がない。すみずみまで配慮が行き届いている。校舎を汚さないように仮設トイレも用意していた。池田会長自身からも丁重な挨拶を受けた。

 体育館の一隅。ぺらぺらのベニヤ板で仕切られた一角が会長の”控え室”だった。撮影の合間に、戻り、冷たいおしぼりで顔をぬぐう。準備が整うと「よし!」と膝を叩いて立ち上がる。1グループ200人以上が待つ撮影台に向かった。

 居合わせた読売新聞の記者。後日、聖教新聞に寄稿している。

「体中に生気がみなぎってまるで真剣勝負に向かう王者のように見えた。あるとき、そのことを会長に聞いてみた。『記念撮影は同志との無言の誓いですからね。いい加減な気持ちでは一緒に座れません』。キリリと答えが返ってきた」

シャッターが下りるとサッと立ち上がり、マイクを握る。

「一番遠くから来た人は?」「一番年配の方は?」

「のびのびとした信仰をやりましょう。信心は悠々と楽しくなければいけません」

明るい返事が返ってきた。

「田植えのほうは、心配ございませんね。冷害はどうでしょうか。大丈夫ですか」生活を慮る。

「呼吸を合わせて仲良くやれば、何でもできる。百人の力が千人の力になる。それが団結の力。それで学会はここまできたんです」

総勢3000人の参加者の姿から、読売の記者は感じた。

「さまざまな生活環境の中で、病も、失業も、差別も襲ってきたろうし、孤独と不安の淵を歩いた日もあったろう。しかし、この人達は、若き非凡な指導者と、仏法に機縁して、いま、幸福な人生を生きていることを、生き抜けることを確信しているようだ」


合間にシュプレヒコール。会長は、都会を見返すような強い言葉を選んで、声を上げるようにうながした。

「東京が何だ!」声が小さい。「もう一度」「もう一回」

幾度も呼びかけるうちに、みな腹の底から叫んでいた。

「その心意気だ!」

役員だった上村武之助は述懐する。

「東北人は寡黙です。私たちの殻を打ち破ってくれたと思います。」

大都会に依存するのではない。自分が強く生きるしかない。


 いきなりですが、皆さんはうつ病のことをどんなふうに思っていますかはてなマーク


私は、うつ病を発症するまでは、うつ病等の精神疾患は心が弱い人がかかる病気だと思っていました。


 そんな私が今から13年前にうつ病を発症してしまいました。


私は、神経質で細かい性格の父から、完璧主義を押し付けられて育ちました。


そのせいもあって、私はうつ病にかかりやすい典型的な性格なのです。


 13年間の闘病生活には、さまざまなことがありました。


現在はうつ病から双極性障害に症状が変化し、抗欝剤と躁状態を改善する薬を服用しています。


2年前からは、医師からドクターストップがかかったため、障害年金をもらいながらの


闘病生活を送っています。


 現在、日本では毎年3万人以上の人々が自殺しています。


東日本大震災の被災地では、将来を悲観して自殺しているというニュースをよく聞きます。


うつ病はだれでもかかる病気です。


これから、少しずつうつ病についてや、私の闘病記などを書いていきますので、よろしくお願いします。

 仙台駅から駅前通りを北へ1キロ。東北平和会館(現・青葉平和会館)が誕生したのは1978年(昭和53年)5月だった。地元の名士も多く祝福にきた。

 背広を着込んだ男性が笑みを浮かべながら、受付の役員に近寄ってきた。すでに老齢だが、立派な身なりをしている。

「素晴らしい会館ですね。実は私、この場所でうまれたんですよ」

けげんな顔つきの役員を見て、財布から運転免許証を取り出し「本籍地」の欄をさす。確かに会館と同じ住所だ。「深い縁を感じます。それにしても・・・・・」財布を背広の内ポケットに戻しながら感慨深げである。

「あの時、牧口先生がおっしゃった通りになりました」

はて、首をかしげる役員に40年近く前の記憶を語り始めた。


 1940年当時、彼は東京で暮らしていた。知人から珍しいことを聞く。「小学校の校長先生で、戦争に反対している人がいる」というのである。どうやら「創価教育学会」と呼ばれる団体の会長らしい。

 興味をもった。東京・目白の自宅を訪問した。深い緑の葉を茂らせた枇杷の木が迎えてくれた。質素な家屋である。二畳ほどの玄関に履物があふれていた。「座談会」という集会が行われていた。

 部屋の片隅で聞いていたが、終わると牧口常三郎会長に声をかけられた。二人で語り合った。

「日本がいま、こんな惨状になってしまったのは、宗教が間違っているからだ」

軍部政府の耳を、まったく恐れていない。

 彼は、当時、傾倒していた共産主義の思想で応じた。3時間ほど論じ合っただろうか。牧口会長が断言した。

「戦争に勝っても負けても、今から何十年か後には、日本人も私の言っていることが分かる。必ず、この仏法が広がっていく」

すごい確信だ。彼は強くひかれたが、入会はしなかった。気づけば夜が深深とふけていた。暇を乞うと優しく制された。

「まだ特高警察が外で見張っているだろう。いま出て行くのは危ない。今日は泊まっていきなさい」

その言葉に甘えさせてもらった。


 彼は戦後、故郷の宮城に帰り、再び創価学会の名を聞いた。特に池田第三代会長が就任してからの急伸振りに注目していた。

 学会員の知人を通して、諸行事に参加すると目を見張った。

「ああ、あの日、牧口先生が言われたことは本当だった。絵空事と思えたが・・・・・。それにしても不思議なことがあるものだ。池田会長の目は、あの日の牧口先生と同じ目をしている」

 車窓から身を乗り出し、力一杯に手を振る少年少女たち。集団就職列車の第一号が青森駅を出発したのは、1954年(昭和29年)の4月である。

 世の中は景気回復の兆しが見え、首都圏の労働力不足が深刻な問題となっていた。日本の発展を支えるために、東北が人材供給の役割を担う時代が始まろうとしていた。


 その約1年後、昭和30年2月5日の午後3時半。戸田会長は一級講義のため、仙台駅に到着した。前年暮れに初代渉外部長に就いたばかりの池田室長も一緒である。

 二人が向かったのは東北で最初に開局した民放の東北放送。午後4時半から、局の要請でインタビューを受けることになっていた。

 テーマは「生活と信仰」。すでに東北の会員世帯は3万に迫ろうとしている。インタビューは学会の正しい姿を伝える絶好の機会でもあった。

 マイクや録音機材が準備された一室に、戸田会長と池田室長が入っていく。アナウンサーが、よく通る声で質問を始めた。

「戸田さん。創価学会でございますが『創価』と申しますと、ちょっと聞いた人は分かりにくいんじゃないかと思いますが」

会長が言葉を引き取る。

「初代の牧口会長が『利善美』という価値を発見しました。人生とは価値の創造だと。『価値創造』が人生の目的なんだと。そこから、創造の『創』価値の『価』を取って創価学会としました」

 インタビューは、宗教と生活の関係、相対的幸福と絶対的幸福、宗教と政治など、哲学や政治的な内容にも踏み込んでいく。自由闊達に論じる会長のそばで、池田室長がうなずいている。

 翌2月6日の午前6時半。戸田会長の気迫に満ちた声が、電波に乗って、みちのくの大地に轟いた。

「たとえ事情がどうあっても、絶対に、幸福の境涯に入るための信仰です!」

テレビ放送は2年前に開始されたばかり。まだラジオが重要な情報源の時代である。放送を心待ちにしていた仙台の会員は、胸がすく思いだった。


 昭和31年4月1日と12月16日にも、東北放送のインタビューに応じた。最後の収録で「創価学会に青年が多いのは、なぜですか?」と尋ねられた。会長は言い切った。

「哲学が深いからです。若い青年は、その哲学を究めようとする。極めようとすれば、ますます山が高くなってくる。だんだんと山に登りますから、楽しみも増えるというわけです。だから、青年は一度ついたら学会を離れないのです」

今も池田会長が、折々に語る指導である。東北の言論闘争は、師弟二人のラジオ・インタビューから幕を開けた。

 現在、東北放送の社長である永野為光は語る。

「草創期の民放ラジオで、宗教の番組は人々の大きな支えとなっていました。なかでも戸田城聖二代会長のインタビューを方送できたことは、わが社にとって大きな意義のあるものでした。これは、当時の渉外部長であった池田会長のご尽力なしでは、叶わなかったと思います」


 学会は人材ををもって城となすー。

青葉城址の指導は、今も広く語り継がれている。

「戸田会長の言葉は誰でも知っていた。けれど、それを言葉だけに終わらせず、現実のものとしたのは、池田先生です」(山田邦明)

 なぜ、東北に「人材城」の指針を示したのか・・・・・・。

草創期、創価学会は、どこにあっても「貧乏人と病人の集まり」とさげすまれた。しかし東北では状況が異なっていた。いわゆる社会的な名士が次々と入会していったのである。


 秋田市北部の港町・土崎。木造三階建ての「伊藤鉄工所」で家族が深刻な顔を突き合わせていた。伊藤家の三男・寅雄夫婦、四男・富雄の三人である。

「貞雄のやつ、東京で変な宗教にはまっているらしいな」

「ソウカガッカイとかなんとか言っているが、絶対にやめさせねば」

「そうだ、そうだ」

伊藤家は五男一女の六人兄弟。その末弟が東京に住む貞雄である。英会話学校に通うために上京。知り合った学会員から折伏されたのは昭和26年のことだった。

 名士の家である。父親が創立した鉄工所は、油田開発や温泉、鉱山等の掘削で成功をおさめた。会社の施設も充実している。宿舎。食堂、娯楽施設、図書室まである。長男・福治が後を継ぎ、兄弟も何不自由なく暮らしていた。なのに、なぜ?

 弟が入ったのは秋田では無名の宗教。一家にとって大事件だった。

旧家の誇りがある。三人は貞雄を呼び寄せ、脱会を迫った。

しかし理路整然とした仏法哲理を聞くうちに、三人が三人とも、ミイラ取りがミイラになってしまった。これと前後して、伊藤家と旧知の北潟家も教義に納得し、入会している。

こちらも負けず劣らずの名門。東北随一の繁華街・川反で江戸時代から続く醸造業を営み、豪壮な屋敷を構えている。

「伊藤さんや北潟さんが言うのなら」

国鉄職員。教員。経営者。地元の名士が続々と入会した。


 仙台支部も結成された昭和26年当時から多士済々だった。

医師、教師、マスコミ人、警察官、実業家・・・・・。

むろん職業や社会的な立場で、人間の価値は決まらない。しかし東京の組織でさえ「背広を着ていれば人材」と言われた時代である。

 東北は粒ぞろいだった。全国を歩く戸田会長の目にも、それは際立って映ったに違いない。歴史的にも数多くの偉人を輩出している。石川啄木、宮沢賢治、原敬、新渡戸稲造、米内光政、金田一京助・・・・。

 著名な地理学者だった牧口常三郎初代会長は、自著『人生地理学』で、”山には人情を和らげ、人心を啓発する働きがある”と指摘している。

 東北は人を育む土壌と気風がある。「人材で栄える」モデル地域になる。─学会の三代会長の洞察は一致していた。